関門海峡を避ける陸上横断ルートは無かった! | 日本の歴史と日本人のルーツ

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古代から瀬戸内海側の周防灘と日本海・対馬海峡側の響灘を結ぶ海路として関門海峡があるが、これを避ける陸上横断ルートは無かったかを検討する。

赤間関の北部、長門国の陸上横断ルートとしては周防灘側の長府あたりと響灘側の安岡を結ぶ長安線が現在まで存在するが(参考)、長府周辺から以北は干潟の出来る海岸で江戸時代は塩田や水田として開発され、現在は工業用埋立地も作られ、良港が無い(参考)。

門司関の南部の陸上横断ルートについて検討してみる。地図を見ると、小倉南区あたりが最短ルートとなる地峡となる。すなわち、小倉南区曽根から小倉北区のJR小倉駅付近が距離的には横断ルートの最有力と見られる。しかし、曽根あたりは、潮干狩りが可能な干潟であり、良港は無く、江戸時代は塩田や水田として開発された。

曽根より以北にある門司区の今津、大積、田野浦あたりが水深もある良港であった。現在、新門司と名付けられた港が北九州と大阪を結ぶ物流フェリーターミナルとなっている。この辺りの港は関門海峡を通過する船の風待ちの港でもあり、平氏も本州側の赤間関(下関)と共に所領にしており、一体に栄えたと考えられる(参考)。


注: 今津(新門司フェリーターミナル)の真西に大里の旧柳の御所があり、山越えのルートがある。平氏が安徳天皇の行在所を設けた理由が理解できる(参考)。


参考

① 北九州市門司区大積(参考)

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中央

大積(おおつみ)は門司区の北東部に位置します。東は周防灘に面し、北は白野江、西は黒川、南は喜多久に接します。古代、難所の関門海峡を避けて、ここから船に荷物を積み込んだので、この地名が付いたとの言い伝えがあります。

これに対し、船が出入りする大津から付けたという説もあります。これを裏付けるように、南の新門司の埋立地に挟まれた漁港があります。新しい港という意味の今津です。大津に対する地名とも思われます。

1244(寛元2)年、東国より下総親房(しもふさちかふさ)が大宰府の直轄地であり、平氏没官領の門司関に下向して来ました。門司城を居城とし、水軍力をもって関門海峡を警固したと思われます。下総氏はのち門司氏と称しました。門司氏の所領は門司六郷で、片野(小倉北区東部、三萩野付近)・柳(門司区西部、大里付近)・楠原(門司区北部、門司港付近)・吉志(門司区南部)・伊川(門司区中部)・大積郷(門司区東部)でした。その六ヶ郷に一族を分立させていきました。


② 平家没官領
へいけもっかんりょう

「へいけぼっかんりょう」とも読む。鎌倉時代の初頭、平家滅亡の際、朝廷に没収された平家一門の所領、所職(しょしき)。『平家物語』には、平家一門の荘園(しょうえん)、所領は全国で500余か所に及んだと記すが、その内容は荘園の本家職(ほんけしき)、領家(りょうけ)職、預所(あずかりどころ)職などが多かった。平家が没落するといったんそれらは朝廷に没収された。初め朝廷はその一部を源(木曽(きそ))義仲(よしなか)や源行家(ゆきいえ)に与えたが、やがて彼らも滅亡すると、源頼朝(よりとも)に平家追討の勲功としてその大部分を給与した。その所領は、鎌倉幕府の支配権が強く及ぶ関東御領(ごりょう)と称されるものの中核をなし、幕府のもっとも重要な経済的基盤となった。ただし、平家没官領のなかでも、平頼盛(よりもり)(清盛の異母弟、母は池禅尼(いけのぜんに))の所領をはじめ幕府に帰属しなかったものがいくらか存在する。[田中文英]


③ 北九州市小倉南区曽根(参考)

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中央

曽根は、周防灘に注ぐ竹馬川(ちくまがわ)の右岸に位置し、海辺に面していたので、磯根に由来する地名といわれています。

江戸時代より1897(明治20)年まで東から上曽根・中曽根・下曽根の三村がありました。「元禄国絵」には、曽根村、中曽根村、下曽根村三村が独立して書かれていますが、幕府には曽根村一村として書き上げられていました。曽根の海浜では製塩がおこなわれていました。1615(元和元)年曽根浜に千間土手が完成し、土手内は新田が開発されました。

下曽根には中津街道の宿場がありました。竹馬川に唐戸橋が架橋されると、その東たもとに置かれた下曽根宿は、交通・経済の要所として、塩の集荷所として繁栄しました。千間土手は中津街道として使われました。千間土手の海側は、大規模な干拓が行われました。小倉藩家老に就任した犬甘兵庫知寛(いぬかいひょうごともひろ)は、藩政改革のため新田開発を計画しました。1795(寛政6)年、犬甘は曽根浜の干拓を元大里村庄屋石原宗祐(いしはらそうゆう)に命じ、1803(享和3)年曽根新田は完成しました。