現在の下関は古代からの歴史の積み重ねからなっていた。
すなわち、現在から過去に遡れば、第二次大戦の敗戦、明治維新、源平合戦、白村江の戦い、、があり、これらの歴史の転換を理解することが、現在を理解する鍵であった。
参考
① 第二次大戦における下関市唐戸周辺の空襲(引用URL)
7月2日午前零時10分ごろ、その余煙が去らないなかでの焼夷弾による攻撃が襲った。3日前の惨劇がさらに広範囲にわたってくり返された。この空襲は規模のうえでも前回を上回るもので豊前田から西細江、観音崎の倉庫群と入江、丸山、東大坪、高尾、南部、西之端、田中、園田、宮田各町など、彦島・新地を除く旧市内中心部が焼き尽くされた。こうして市街地108万9000平方mが廃虚と化し、ガス・電気・水道・電話・電車の電線などすべてが破壊され、その機能がすべて停止するという壊滅的な打撃を受けた。
官庁の公式資料ではこの2度の空襲で市民324人が死亡、1100人が重軽傷を負うなど被災者は4万6000人をこえたことや、全焼・半焼などの建物被害は1万戸以上、と記録されている。
椋野の山に共同の墓地のようなものがあった。
岬之町
アメリカは日本全国の港湾に投下した一万発をこえる機雷の半数、約5000発以上を関門海峡に投下した。これは、日本本土への食料輸送網を断ち切る「海上封鎖」「飢餓作戦」と称して強行された。関門地域では3月27日夜、B29 99機が来襲し、機雷1000個を投下して以後、敗戦前日の8月14日まで、ほぼ連日、昼夜の別なく投下した。このため、この期間内だけで、下関での警戒警報発令は102回におよんだ。
関門海域では、毎日のように機雷に触れて水柱が上がり、艦船が沈没する光景が目撃された。そのあとコメやコーリャン、大豆、麦などの食料が浮遊していた。関釜連絡船など大型船から5000T以下の船まで、あわせて5000隻以上が触雷して沈没座礁。海峡周辺は船舶のマストが林立する無残な「船の墓場」と化した。
関門海域では、毎日のように機雷に触れて水柱が上がり、艦船が沈没する光景が目撃された。そのあとコメやコーリャン、大豆、麦などの食料が浮遊していた。関釜連絡船など大型船から5000T以下の船まで、あわせて5000隻以上が触雷して沈没座礁。海峡周辺は船舶のマストが林立する無残な「船の墓場」と化した。
下関は九州と本土、大陸を結ぶ交通の要衝であり、日清・日露戦争のときから「国防の拠点」として位置づけられ、西日本における最大の軍事的要塞地帯として築かれてきた。貴船町には要塞司令部が置かれ、その周辺には下関重砲兵連隊、大畑練兵場、倉庫や火薬庫、医務室、兵舎などの関連施設が密集していた。火の山、後田、金比羅、戦場ヶ原、彦島などに砲台を備えた要塞があり、また、小月には第12飛行師団司令部を置く防空戦斗機隊、吉見には第七艦隊の主力の下関海軍防備隊が配置されていた。また彦島には三菱造船があり、長府にも神戸製鋼など大きな軍事工場を抱えていた。
② 昭和40年代の下関市陸上競技場と野球場あたり
③ 練兵場あたり(中央右手)
"下関要塞司令部15.7. 5 受付検査済"の下関市街地図
④ 幕末の長府藩の報国隊の本営だった椋野村関山(参考)は、明治時代には陸軍の要塞となり、今、墓地となっている。
⑤ 関門海峡は古代から重要な位置にあった(参考)
ここ火の山は、関門海峡を見下ろせ、日本海側から瀬戸内海側まで広く見通しのよい場所である。平安時代より火の山では狼煙を上げ、軍事上の重要な拠点として利用されていた。明治21年から、旧日本軍の『下関要塞 火ノ山砲台』が造られた。日本三大要塞(東京湾、大阪湾、下関)のひとつであった(参考)。
(参考)
(参考)
⑥ 下関要塞について
⑦ 下関(赤間関)最古の末廣稲荷神社(参考)
戦災で広大な神社は灰塵に帰した。
戦災にあい、昭和三十三年に新しく造営られた。
⑨ 永福寺(参考)
永福寺 観音堂 室町時代初期のものに属し、円覚寺 舎利殿、功山寺 仏殿と同じ唐様建築として、明治26年(1893) 当時の国宝に当たる内務省特別保護建築物に指定されていましたが、昭和20年7月の空襲で焼失してしまいました。その美しさから永福寺の観音堂は、『馬関雛型の堂』と呼ばれていました。
10 引接寺(参考)
昭和20年の空襲で、三門を残して全焼した。
11 亀山八幡宮(参考)
昭和20年の空襲で消失し、鉄筋コンクリートの社殿となる。
13 幸いにも、高杉と伊藤の功山寺の決起後、新地会所を襲撃したあと了円寺にたてこもりましたが、合流してくる同志たちで手狭になったため、東光寺にも駐屯したが、久坂玄瑞ゆかりの光明寺と共に空襲を避けられた。
14 下関市街地図(参考)
15 下関市の大東亜戦争(参考)