西洋と日本を結びつけた女性たち | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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タウゼントハリスの妾の唐人お吉、シーボルトの妾の元遊女お滝と娘のオランダお稲、アーネスト・サトウと妻の武田兼そしてトーマス・グラバーと妻の談川ツル


参考

① 唐人お吉(
参考)

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 唐人お吉は本名「斉藤きち」といい、天保12年11月10日、愛知県知多郡内海(うつみ)に、舟大工・市兵衛の次女としてこの世に生をうけました。4歳の時、家族が下田に移り住み、14歳で芸子となりました。新内明烏のお吉と謳われるほどの評判と美貌でしたが、それが奉公所の目に留まることとなり、17歳の時、法外な年俸と引き替えに心ならずもアメリカ総領事タウンゼントハリスのもとへ待妾として奉公にあがることとなります。

その後は、幕末、維新の動乱の中、芸子として流浪の果てに下田に戻り、鶴松と暮らし、髪結業を始めますが、ほどなく離別。さらに小料理屋「安直楼」を開業しますが、2年後に廃業しています。「唐人」という相も変わらぬ世間の罵声と嘲笑を浴びながら貧困の中に身を持ち崩し明治24年3月27日の豪雨の夜、遂に川へ身を投げ、自らの命を絶ってしまいます波乱にみちた51年の生涯のあまりにも悲しい終幕でした。


② オランダお稲(参考)

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オランダお稲の名でも知られる。 天領・長崎で生まれる。父はドイツの医師・博物学者として有名なフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト、母はシーボルトお抱えの遊女だった瀧(お滝)。 幕末において、シーボルト門下の宇和島藩二宮敬作から医学の基礎を、石井宗謙から産科を、村田蔵六(後の大村益次郎)からはオランダ語を教わった。 日本人女性初の産科医として有名である。


③ 幕末を動かした英外交官が日本人妻へ送った500通のラブレター(参考)

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武田兼

かつて明治維新で活躍したイギリス外交官のアーネスト・サトウ。彼の孫である林静枝(84)さんは、彼と祖母とのロマンチックな秘話を明かした。

*  *  *

アーネスト・サトウは、幕末から明治にかけて活躍したイギリス人の外交官です。日本語に堪能で、幕末には西郷隆盛など志士たちと交流しました。

20年ほどの日本滞在で、武田兼(かね)との間に2人の男の子をもうけました。次男が父・武田久吉(ひさよし)ですから、サトウは私の祖父になります。その後、祖父は各国に赴任し、晩年はイギリスで暮らしました。基本的に、祖父と家族は離れて暮らしていたのです。ずいぶん前に、祖母の遺品を整理しようと段ボール箱を開けてみましたら、祖父から家族あての手紙が500通くらい出てきました。イギリスや赴任先の国からの手紙を、祖母はぜんぶとっておいたんです。イギリスに祖母を連れていけば、言葉も生活習慣もちがうから苦労する。だから、一人で帰ったんでしょうね。寂しかったから、手紙をこれだけ寄越した。亡くなるまで生活費も送ってきてくれたそうです。

日本で生まれ育った父は、背が高くて、足が長くて、すごくハンサム。写真で見た祖父にそっくりでした。顔だちも外国人みたいだった。だから、戦時中は嫌な思いをしたようです。
植物学者でしたが、民俗学も好きだった父は、庚申塔(こうしんとう)の写真を撮りに都内のお寺や地方へよく行きました。大きな蛇腹の写真機で撮影していると、スパイだと思われて告げ口されたのか、警官が来たこともあります。そんなこともあったせいか、父は祖父のことを一切話しませんでした。おかげで、私は祖父のことを何も知らなかった。

はじめて祖父について知ったのは、女子大に入学するときでした。戸籍謄本が必要だというので取り寄せましたら、祖父の欄に「薩道静山」と書いてあった。なんのことかと不思議に思ったら、祖父の雅号でした。母は、「アーネスト・サトウといって、明治維新に活躍した人なんだよ」と話してくれました。でも、私は何をした人かも知らなかったので、祖父がイギリス人だったんだ、とだけ思いました。祖父が小説や大河ドラマに登場して、一般的に知られるようになったのは、もっとあと。戦後のことです。でも、日本語だけでなく古文書も読めるほどの、日本文化のすぐれた研究者だったことは、今でもあまり知られていません。それが少し残念です。

祖母と父が住み、私が生まれ育った家は、靖国神社の裏手にありました。祖父が祖母のために用意した家で、昔の旗本屋敷でした。冬は寒くて、とても住みづらい。だだっ広い木造の平屋で、天井が高くて、すごく太い梁がありました。和室ばかりでしたけど、なぜか一部屋だけじゅうたんが敷いてあり、椅子と丸いテーブルが置いてありました。祖父が日本にいたとき、その部屋で食事をしたのかもしれない。500坪の敷地には、池もありました。父が山からとってきた珍しい木や植物がたくさんあって、昆虫もいましたし、鳥も飛んできました。ほんとうに楽しい庭だったんです。

でも、40年ほど前、相続税が大変で、泣く泣く手放しました。現在は、建物も池もなくなって、法政大学の図書館が立っています。今でも懐かしく思います。あの家が祖父からもらった宝物でした。(構成 週間朝日・横山 健)


④ トーマス・グラバーと談川ツル(参考)

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1859年に21才で長崎へやってきて1911年に64才で東京にて亡くなるまで日本で過ごし続けたグラバーは、私生活では日本人の談川ツルと結婚。二人は生涯にわたって仲睦まじく暮らし、娘ハナと息子トマスを得ています。

共に長崎生まれのグラバー姉弟は、姉のハナは成人後に英国人と結婚し、夫の仕事で日本を離れましたが、その子孫は現在も米国に在住しています。一方、弟のトミーは大学時代を米国で過ごし、帰国後は実業家としてまた水産学者としての人生を送りました。

父母亡き後も長崎の町に生きたトミーは、倉場富三郎という日本名をもって生まれ育った故郷の発展に尽力し続けました。汽船漁業会社を設立し日本初のトロール漁業を導入したり、日本人と西洋人との友好交流を推進したりするなど、長崎にはなくてはならない存在として活躍。また米国の大学で学んだ生物学の知識を活かし、魚市場に水揚げされた水産動物の図譜『日本西部及び南部魚類図譜』(通称『グラバー図譜』)を編纂。女性一人を含めた五人の地元の画家によって描かれた全34805枚の精巧な図譜は、貴重な資料として高く評価されています。