関釜航路 よき時代よ甦れ | 日本の歴史と日本人のルーツ

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関釜フェリー

関釜連絡船

関釜航路 よき時代よ甦れ

戦前までの下関の賑わいといったら、そりゃもう…とよく聞く。明治中期までの下関の繁栄の要因が北前船なら、以後戦前までは関釜航路の基地だったことが挙げられるだろう。

かつて大陸と内地との連絡運輸の大動脈だった関釜連絡船の始まりは、明治三十八年九月にさかのぼる。徳山までしか走っていなかった山陽鉄道が下関まで延び、さらに日韓新条約が結ばれて統監府が置かれるようになり、鉄道も釜山から京城間が開通したことに伴って山陽鉄道は、傍系会社の山陽汽船に山陽鉄道と京釜鉄道の海上連絡運輸を行わせることになったもの。

第一船、壱岐丸(1680t)の就航は明治三十八年九月十一日であった。壱岐丸は最大速力十四ノット、乗組員七十五人で、当時の船舶としては最優秀の能力をほこり、下関から釜山間を十一時間半で航行したという。当初は隔日の夜行便だけだったが、二ヵ月後に姉妹船·対馬丸(1670t)が就航してからは毎日一回の出航となった。

翌三十九年、国防的見地から鉄道国有法が発布されて鉄道が国営になったのに伴い、関釜航路も国営になった。

大勝利に終った日露戦争直後で、国民の間に大陸熱の高まったころでもあった。言うなれば帝国主義の台頭である。輸送量も急増し、国鉄はこの対策に民間会社の船を航路に配合したりしたほどだった。さらに鮮満地方の開拓が進むにつれて輸送量は増え続け、国鉄は大正二年、高麗丸(3028t)新羅丸(3021t)の新船を建造したのである。

この当時、連絡船の発着する下関駅前(細江町)は船の利用客で大賑わい。山陽の浜にはバナナのたたき売りをはじめ、夜店がズラリと立並び、今でいう「下関のよき時代」の全盛期にと入っていったのである。

第一次大戦突発後は大陸交通は激増の一途、景福丸、徳寿丸、昌慶丸と三千トンクラスの船があい次いで就航、最高時速二十ノットの性能で、関釜間も昼航八時間、夜航便九時間に短縮された。昭和に入ると金剛丸、興安丸、天山丸と七千トンクラスの大型船も就航した。

一船が旅客千七百人余り収容というデラックスなもので、最盛時には一日の片航路一万四千人という旅客を運び、それでもなおかつ積み残しがあり、旅客は駅前の旅館に一週間泊ってやっと乗船ということもあった。駅前の旅館街や商店街、飲食街の好況も昭和十七年にはピークに達した。

この年の乗客百五十六万三千人…。しかし、戦争激化に伴って船は次々と兵装化、悲壮な運航時代へと入っていったのである。まず崑崙(こんろん)丸悲劇…。ちょっと話が横道にそれるが、この崑崙丸は関釜連絡船の中では最も大きく、最も美しくスマートな船だった。

郷土史家、冨田義弘さんも、少年時代はよく海辺に立って手を振っていたもので 来る日も来る日も、満蒙に送られていく兵士たちで甲板はいっぱいでしたねという。

昭和十八年十月四日午後十時五分、下関を出港した同船は五日午前一時七分、沖の島付近で船底に強い衝撃を受けた。アメリカ潜水艦の魚雷攻撃だった。船客四百七十九人中二十八人、船員百六十五人中四十一人など、七十二人が生き残っただけという大惨事となったのである。これを機会に、連絡船の夜間運航は中止、海軍の護衛で昼間運航だけとなったが、その後も数々の悲劇に見舞われ、最後はまさに悪夢の状態の中で終戦を迎えたのである。

人の出会いと別れ。大陸への船出…関釜連絡船の様々な思いは、一つの近代史であった。

昭和四十五年六月十八日、フェリー関釜の就航で関釜航路は再開した。下関は一昨年、韓国釜山と姉妹都市縁組も結んでいる。新時代の関釜航路、五十一年の年間利用客は六万三千二百八十四人であった。

中国との旅客航路も再開しようとの動きが下関に出始めてもいるが、すべては大陸航路利用者で賑わったころのよき時代よ甦れとの願い、あのよき時代よもう一度、といった悲願からなのではなかろうか。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)(彦島のけしきより)