こんにちは(^◇^)
奈良仏師の慶派の全盛期の一翼を担った運慶と快慶。
両人とも生年はともに不詳ですが、運慶は1224年1月3日の没年が分かっているんですね・・(^◇^)
その一方の快慶がどうなっているのかサイトで調べていると・・(^◇^)
京都・城陽市の極楽寺の阿弥陀如来立像内から、4種の文書が見つかり、その中から、1227年の年記に、仏師としてアン阿弥陀仏(快慶)とその弟子行快の名前、同時に、また一方で快慶の名は供養された人々の中にもあったんですね??・・(^◇^)
納入品の「現在過去帳」の裏書きに「アン(梵字)阿弥陀仏 法橋行快造之」とあり、この像がアン阿弥陀仏、すなわち快慶とその弟子である行快によってつくられたことが分かったらしいですね。
その 一方で「法花三十講経御名帳」は、1227年7月から8月にかけて法華経を毎日一つの章ずつ読誦する法会を行った記録もあったようですね?
筆者によると阿弥陀仏の仏像の制作は平行して行われ、身内の死者が仏と結ばれることを願って施主が布施を行い、それが仏像制作の勧進となったと思われると書かれています。
これまで快慶は生年、没年ともに分かっていなかったが、この像内文書の発見によって、没年については1227の8月12日の分として「過去法眼快慶」と見えることで、過去帳に載るのは、この時点で快慶は物故していたことになりますよね・・(^◇^)
これにより、この仏像は先の文章との関わりで、快慶によってつくられはじめたか、またはその予定であったものが、その途中で快慶が亡くなったために、行快が完成させたものと考えられると書かれています。
このことから、奈良仏師の両巨匠は、運慶の後を追うように快慶も二~三年後に亡くなられたんですね・・(^◇^)
5月とは言え暑いので、二階の寝室を一階の部屋に変えようかなあ?・・(^◇^)
愚図ついていたサンタ猫は広縁で爆睡中ですよ・・(^◇^)
今日も良い日でありますように(^◇^)