肝付氏一門まとめ (随時加筆修正&情報求む!) | うぃんどふぇざぁ

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歴史とゲーム好きの小人族の一人がなにやらもそもそするブログ

参考にしてる本藩人物誌や西藩烈士干城録がPDFで閲覧できる鹿児島県立図書館のサイトを見つけたのでURL貼ってをおきます↓
他にも薩摩藩関連の史料が閲覧できます!
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播磨守伴宿禰春雄─参議伴朝臣保平─右兵衛佐仲舒─右兵衛督仲用─
 
伴仲用─右馬督仲兼─判官代兼遠─土佐掾兼行
 
─伴兼行┬平兼輔(平季基婿)─神崎兼重

​​​      └無官大夫行貞─検非違使右兵衛佐兼貞​​─

 

─伴兼貞┬肝付新大夫兼俊──────────┬河内守兼経┬弾正大夫兼益─河内守兼員─

      ├萩原兼任─兼久─兼広─右馬允兼賢  │        ├萩原兼春

      ├安楽俊貞─俊清─兼貞─兼俊      │        └前田兼明

      ├和泉行俊─兼清─兼信─兼元      ├救仁郷兼綱─兼持─兼延

      └梅北兼高─昌兼               ├北原兼幸

                                 └検見崎兼友

 

─兼員┬河内守兼右(兼石)───────┬周防守兼藤───┬河内守兼尚─兼隆

     ├岸良兼基─兼村─兼義┬兼高   ├三俣兵衛尉兼市  ├八郎左衛門尉周防守兼重─

     ├野崎兼弘         └兼継   └周防介宗兼     ├兼経(兼成)

     ├津曲兼行                              └兼儀

     ├波見兼賢

     ├河南兼秀─兼貞─兼忠

     └小野田信兼

 

─兼重─周防守秋兼(顕兼)┬河内守兼氏┬川北兼朝

                  └山下久兼  └河内守兼元─

 

─兼元┬河内守兼忠─

     ├頴娃美作守兼政┬兼郷─兼心─┬忠兼(島津忠昌三男)

     │           ├図書助兼辰  └山城守兼洪┬┬兵部少輔兼友

     │           └兼延        (兼久三男)│└山城守兼堅┬兼有

     ├大炊助兼恒─民部大輔兼清─遠江守兼常   │         └左馬助久虎─久音

     └美作守兼広─美作守兼勝              │

                                    └────────────┐

─兼忠┬国兼                                               │

     ├周防守兼連┬河内守兼久────────────┬河内守兼興─     │

     │        └越後守兼顕(兼実)┬越後守兼純     ├兵庫介兼親(兼執)  │

     │                     ├武蔵介兼堅(兼延) └頴娃周防介兼洪──┘

     │                     └伊集院三河入道竹友?

     ├越前守兼光┬越前守兼固┬越前守兼演─弾正忠兼盛┬弾正忠兼寛

     │        └紀伊守兼恒└刑部少輔兼利        └越前守兼篤─弾正少弼兼武─兼屋

     └加賀守兼清─加賀守何某┬加賀守兼吉

                       └治部左衛門尉兼右─治部左衛門兼家

 

─兼興─河内守省釣兼続┬河内守良兼─満寿丸(満寿麿)

                 ├兼長

                 ├右京亮兼樹─兼継(兼道の子)─兼弘

                 ├修理亮兼定

                 ├左京亮兼輔(兼亮)

                 ├三郎五郎兼則

                 ├左馬頭兼道(兼護)┬兼幸─甚右衛門兼康(惟宗姓新納忠秀長男)─

                 └兼供         └兼継

 

 

【肝付 周防守 兼藤】

兼右(兼石)の子。尊阿。肝付家6代当主。

『史料綜覧』https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1320/07-7-1/1/0076?m=all&s=0076&n=20

正応四(1291)辛卯〇月十一日、鎌倉幕府の令により肝付郡地頭名越(北条)高家から、その祖父公時の侵地(押領地)を弁済使肝付尊阿に返付させた。

尊阿と名越尾張前司高家の地頭代盛貞の所職名田の相論の事で、高家祖父・尾張入道道監(道鑒、道鑑、公時)について正応六(1293)年四月三日に和与状、同年五月二十四日裁許後に任知状で処理すると度々御教書を発した。

しかし永仁(1293~1299)年中になっても和与状に書かれた百七十町の田地は返されず、幕府の使者が入部して検注した通りに従うよう、元応二(1320)年三月十一日付けで遠江前司(鎮西探題・阿蘇流北条随時)より相模守高時、前武蔵守貞時宛に下知状が発給されている。

元亨三(1323)年二月四日、兼藤は地頭代盛貞に殺害される。

 

【肝付兼忠】
兼元の長男。三郎。河内守。肝付家12代当主。
応永十三(1406)年~文明十六(1484)年三月十一日(4月6日)。

【肝付国兼】
兼忠の長男。「国」の字は島津忠国の偏諱か?

父・兼忠と不和になり、三弟兼連に追放される。

※不和の原因は島津内訌と関連するか?

【肝付兼連】
兼忠の三男。肝付家13代当主。

次兄が早逝しているため次男とされる。

【肝付兼光】

兼忠の四男。大崎城主。
長兄国兼と父・兼忠の間を取り持とうとするが失敗し、出奔して大崎城に拠る。
子孫は島津守護家家老職、のちの喜入肝付氏となる。
 
【肝付 加賀守 兼清】
兼忠の五男。左衛門。加賀守。加賀入道。玄相。
文安から応仁の頃、肝付の代官として忠誠無二の人という。
※文安応仁期は島津忠国、好久兄弟による内訌の頃。

【肝付 加賀守 兼吉(兼義)】
九郎。宮内少輔。加賀守。加賀入道。
加賀守兼清の孫。兼右の次兄。
天文(1532~1555)年間、恒吉地頭。
天正二(1573)年12月、佐土原に赴き伊東氏に援兵を請う。
『本藩人物誌』には「加賀入道文安カ孫」と書かれているが、「文安」は人名ではなく元号であり、間違いである。

【肝付 治部左衛門尉 兼右(兼名)】
兼石とも書かれる(右、名、石は字形が似ているため誤記誤認されている。普通に考えて「右(すけ)」が正解か)。治部左衛門尉。
加賀守兼清の孫。兼吉の三弟。
永禄四(1561)年夏頃?、廻城攻めの大将として300人で奇襲し、廻久元を討ち取り廻城を攻め落とす。直後の一万二万騎を号する島津軍による廻城奪還戦に、兼続率いる6000の肝付本軍と合流し防衛に成功する。そのまま廻城の在番となり、廻地頭となる。
志布志地頭の肝付竹友が討死後、代わって当地頭となる。
天正四(1576)年、日向国南郷にて伊東軍と交戦し討死。

【肝付 治部左衛門 兼家】
治部左衛門。慶長十五(1610)年七月十五日没。
佐土原藩祖・島津以久の家臣で元・廻城主という。
慶長十五(1610)年四月九日、仕えていた島津以久が上洛中に伏見で客死。同年七月十五日、久保権兵衛、猿渡左近丞、肝付治部左衛門兼家、日高大炊左衛門重勝、4人の以久家臣が殉死する。

※官途名、居城から類推するに兼右の子か? 兼右が志布志地頭として移った際に引き継いだ?

【肝付 左兵衛】
天正二(1574)年正月六日、末吉国合原(住吉原)にて討死。

※「西藩烈士干城録巻之二十 肝付兼道列傳第三十九」において、良兼病死、修理亮兼定戦没、三郎五郎兼則の次に名前が挙がっており、血筋が近い、地位が高いからでは?
(受領名ではなく京官名なので討死時は青年、壮年だったか)

【肝付 三河入道 竹友】
永禄五(1562)年より豊州家の志布志攻め大将となり、永禄七(1564)年、志布志を落として当地頭となる。天正二(1574)年、末吉国合原(住吉原)にて北郷時久と戦い討死。
伊集院竹友とも言われることがあるが、別人として伊集院三河入道竹圃が列記されているので混同や兄弟などの可能性あり。
左兵衛の次に名前が挙がり、二人共戦没という。
 
※諱を竹友(たけとも)とされることも見られるが通字の「兼」も入っておらず、恐らく入道名「ちくゆう」と思われる。もし「たけとも」ならば肝付一族ではないと考えられる。
志布志近辺に兼続七男兼護(兼道)が養嗣子となった伊集院氏族の麦生田氏もおり、竹友は肝付姓を貰ったor継いだ伊集院氏出身かもしれない。

【肝付兼久】
肝付家14代当主。
子に肥後八代の名和伯耆守武興正室。

【肝付 越後守 兼実】
孫四郎。左京亮。修理亮。越後守。兼顕(兼顧)。諱は誤字の可能性あり。
父は兼連。子は兼純、兼堅。

【肝付 越後守 兼純】
孫四郎。左京亮。修理亮。越後守。
生年不詳~元亀三(1572)年二月。父は兼実(兼顕)。弟は兼堅。
兼純の母、新納忠元の母、浄光明寺僧の其阿西嶽の三人は兄弟で新納久友の子ら。
室は伊地知重興の娘。娘に北郷久延の室。
財部龍虎城主?
元亀三年二月、廻・市成の境で島津軍と交戦し討死。
天正二年、肝付家は肝付越後守の従兄弟である新納忠元の仲介で其阿西嶽を派遣し島津家に降伏している。
 
※母同士が姉妹である従弟新納忠元(1526年生)と同年代に近い思われ、伊地知重興(1528年生)の娘を娶っているのに対して、弟とされる兼堅が記録に現れるのが1530年頃というのはどうにもおかしい。弟の登場時期や五男の記事から兼純の生年を大雑把に推測すると1510年以前には生まれていそうで、新納忠元や伊地知重興娘との年齢が離れ過ぎている。恐らく親子2代分が兼純一人の事績になってしまっている?
 
【肝付 兵部少輔 兼堅(兼賢)】
はじめ兼延。兵部少輔。武蔵介。龍忠。
父は兼実。兄は兼純。
享禄(1528~1532)年間から現れる。天文十六(1547)年、惣領良兼の元服を祝い父が建てた神社の願主となった。弘治二(1556)年より鹿屋地頭。
永禄四(1561)年、五男兼里が兼続と家督を争った兼親(兼執)の祟りを鎮めるため祭祀を行った。

【肝付 兼興】
肝付家15代当主。

【肝付 河内守 兼続】
兼興の長子。肝付家16代当主。三郎。河内守。好善院殿権大僧都日(月)浦省釣。
永正八(1511)年~永禄九(1566)年十一月十五日(12月26日)。享年56。
母は島津久盈の娘で島津忠朝の養女。久盈は忠朝の弟。
兄妹は兼続(当人)、島津貴久正室、入来院重嗣正室、禰寝重長正室。
正室に島津忠良の長女御南、側室に肝付兼好の娘、ほか。
子は禰寝重長正室、良兼、兼長、兼樹、肝付刑部少輔(入道江月)室、頴娃兼有室、兼定、兼亮、兼則、兼護、(兼供?)。

【肝付 河内守 良兼(吉兼)】
兼続の長男。肝付家17代当主。三郎。左馬頭。河内守。才安恭俊。
天文四(1535)年~元亀二(1571)年七月三十日(8月20日)。享年37。
母は島津忠良の長女御南。
兄弟に禰寝重長正室、良兼(当人)、兼長、兼樹、肝付刑部少輔(入道江月)室、頴娃兼有室、兼定、五弟兼亮、兼則、末弟兼護、(兼供?)。
妻は正室に伊東義祐の娘・高城。子は満寿丸?

【肝付 兼長】
兼続の次男。良兼の弟。兼亮、兼護らの兄。12歳で夭折。

【肝付 兼樹】
兼続の三男。良兼の弟。兼亮、兼護らの兄。子は幸之丞兼継(弟兼護の子)? 
兼続正室・御南(島津忠良長女)、良兼正室・高城(伊東義祐娘)と親島津派の家臣らによって弟の18代兼亮と共に追放され伊東家へ奔る。

【肝付 幸之丞 兼継】
幸之丞。兼護の子。伯父・兼樹の養子となる。子は兼弘。
佐土原藩に仕える。

【肝付 兼弘】
兼継の子。薬丸孤雲の娘を娶り、子孫は鹿児島・佐土原両藩の家臣となった。

【肝付 修理亮 兼定】
修理亮。兼続の四男。良兼の弟。兼亮、兼護らの兄。
天正二(1574)年正月六日、末吉国合原(住吉原)にて討死。

【肝付 左京亮 兼亮(かねあき)】
兼続の五男。肝付家18代当主。
満寿丸? 与市。九郎。三郎四郎。左京亮。兼成。兼輔。兼亮。

【肝付 三郎五郎 兼則】
三郎五郎。兼続の六男。良兼、兼亮、兼定らの弟。兼護の兄。

【肝付 左馬頭 兼護(兼道)】
肝付家19代当主。三郎四郎。左馬頭。兼道。
救仁郷麦生田城主麦生田忠能の養嗣子となっていたが、兄の18代兼亮が放逐されたため本家に呼び戻され家督を継ぐ。

【肝付 伊勢守 兼清】
伊勢守。山下久兼の玄孫という。
天文(1532~1555)年間、姶良(現鹿屋市吾平周辺)地頭。
天文十六(1547)年の知行宛行状に署名。署名者3人(他は検見崎兼堯、安楽兼元)の中で地位が最も高いと思われる。当主が大旦那となって再建・造営した神社の願主・奉行となっているものが多く見られる。
永禄十一(1568)年まで生存が確認される。
筒ヶ迫城を築城したという。
 
【肝付 兼洪】
天文年間、大崎地頭。
天文二十二(1553)年、大崎一之宮都萬神社の棟札に子・兼秋と共に名前が見える。
 
【肝付 兼秋】
 兼洪の子。
 
【鹿屋 周防介 兼豊】
鹿屋(現鹿屋市串良町)地頭。
岩川八幡神社(大隅町岩川)の棟札に「天文四年檀越藤原重忠当地頭伴兼豊造立」と見えるが、伴兼豊は当人のことか?
弘治二年八月十七日、日州国合原で北郷勢と戦い、嫡子・采女兼任と共に討死。
 
【薬丸 定兼】
 
【薬丸 兼弘】
 
【薬丸 出雲守 兼郷】
兼弘の子?  弾正。出雲守。湖雲(孤雲斎)?

※子・兼将の事績と人物そのものを兼郷とする説がある。

【薬丸 時兼】

【薬丸 出雲守 兼将(兼政)】
初め兼竹? 兼郷の子。弾正。出雲守。湖雲(孤雲斎)?
肝付家の家老。
天正四年、日向国南郷にて伊東軍と交戦し討死。
 
【薬丸 良兼】

【薬丸 弾正少弼 兼持】
兼将の子。弾正。
天文二十三(1554)年あるいは弘治二(1556)年、横瀬龍相城に攻め寄せた大崎地頭・大野出羽守と一騎打ちの末、互いに討死という。22歳だったという。※
また天正二年、肝付家が島津家に降伏する際の使者になったという。

【薬丸 壱岐守 兼成】
 
【薬丸 伊豆守】
 
※薬丸家の系譜について私見
江戸初期の諸家大概には大炊兵衛刑部左衛門如水兼陳を薬丸伊豆の子孫とし、出雲入道湖雲の子孫を為右衛門としている。
兼成→兼利→兼陳は年代も納得できるが、兼成の老齢期の伝承から湖雲の孫というには年代が近過ぎて納得しがたい。
弘治二年に討死した湖雲の子・弾正も兼持と兼将の2説あるが、「持」と「将」は草書体だとかなり似通っているので、これは誤字で同一人物なのではないか?
天正二年に島津に赴いた弾正は弘治二年に討死した兼持(兼将)の子であって、兼将の異字として出てくる兼政ではないか?
自官(私称による官名)には慣例があり、初めは「弾正少弼」などの京官名を名乗り、歳を経て「出雲守」などの国司官名を名乗るので、弾正と記述されているということは概して青年期以前であることを推測できる(例外もある)。因みに入道すると国司官名は「守」「介」などの四等官名が外れて「出雲」や「出雲入道」などと書かれる。
つまり討死したのは兼持、子は兼政で、「まさ」の読みに引っ張られて「持」の草書を「将」と書き違えたのではないか?
これを整理して系譜にすると、湖雲兼郷→弾正兼持→弾正兼政→(略)→為右衛門で兼成の入る余地はなく、やはり湖雲の系統ではないのではないか?
 
【安楽 下総守 兼元】
柏原兼之とも。(「元」と「之」の字は草書が似ているため誤認が多い)
天文十六(1547)年の知行宛行状に肝付兼清、検見崎兼堯と共に署名。永禄六(1563)年、主君兼続が志布志に隠居する際、嗣子兼朗(兼際)と共に従った家臣の一人。
 
【安楽 大和守 兼朗】
兼際とも。兼元の子。牛根城将備前守兼寛の父?
 
【安楽 備前守 兼寛】
岸良蔵人兼元の三男。安楽家の養子となる。
長兄に岸良蔵人兼直、次兄に河南安芸守(内之浦地頭)。
牛根(入船)城番。牛根地頭。
 
【安楽 肥後守 兼清】
 
【安楽 兼治】
 
【安楽 民部左衛門 兼致】
 
【安楽 伊予守 兼利】
兼清の子。隠居した島津龍伯付となった?
 
【安楽 兼郷】
兼致の子。
 
【安楽 兼近】
 岸良兼近?
諏訪原村の山王宮、永禄十(1567)年三月、「肝付左馬頭(良兼)造立、地頭安楽兼近」と文書にあり。本殿の梁に「長禄二(1458)年正月、伴家兼忠、兼秀建立」とあり。
 
【検見崎 播磨守 兼堯】
 
【検見崎 常陸介 兼書】
常陸守?
常陸国は親王任国なので長官の「守」は置かれない。ゆえに常陸介と思われる。
 
【検見崎 常陸介 兼泰】
常陸守? 兼恭とも。
高城川の戦い、耳川の戦いに従軍し、討死。
 
 
【岸良 蔵人 兼元】
永禄九(1566)年、高山落城の砌、討死。
高山落城は史実ではない。兼続に殉死か?
 
【岸良 蔵人 兼直】
安楽兼朗の子。兼寛の兄。
 
【岸良 将監】
 
【岸良 兼近】
安楽兼近?
 
【岸良 兼慶】
市成村の総鎮守として肝付兼続が建立した太玉神社の天文二十三(1554)年の棟札に「地頭岸良兼慶」が見える。社司は鶴田氏。
 
【和泉 三河守 兼依】
永禄三(1560)年、高山の神宮寺阿弥陀堂の造営に薬丸出雲守と共に奉行として連署している。
 
【頴娃 兼洪】
 
【頴娃 兼友】
 
【頴娃 兼堅】
 
【頴娃 兼有】
 
【頴娃 左馬助 久虎】
 
【頴娃 左近将監】
 
【津曲 若狭守 俊宗】
道三入道。
 
【津曲 若狭守 兼任】
道参入道。
 
【萩原 兼宗】
 
【梅北 国兼】
 
【北原】
 
【川越 丹後守 家実】
河越とも。玄忠。永禄年間、高隈地頭。元亀年間、加瀬田(ヶ)城番、百引地頭。
 
【四十九所神社】
弘安六(1283)年十一月、肝付伴兼右の神文に「四十九所大明神、肝付の鎮守」とあり、二騎による流鏑馬神事があったという。