肝付氏に関する疑問やあれこれ | うぃんどふぇざぁ

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歴史とゲーム好きの小人族の一人がなにやらもそもそするブログ

執筆時点での私個人の一見解です。自分用の備忘録を兼ねて気になっていることをまとめてみます。


【肝付氏以前の伴氏の出自】
定説では伴大納言こと伴善男の子孫説と弘文天皇こと大友皇子の子・余那足の子孫説の二大主流説がある。この他にもあるが取り敢えず割愛。

伴善男、その子・中庸までは事跡が見えるが以降は判然としない。
島津荘を開いた平季基の頃、伴兼行や兼貞の時代、万寿年間(1024~1028)には北部九州を中心に各地で伴氏が神官を務めている。そもそも古代には九州北部に大伴部がおり、その末裔は大伴氏や伴氏を名乗っている。つまり伴善男を祖に求めなくても肝付氏の祖に成り得る伴氏の集団は存在する。

大友皇子の子孫説の方はまず「余那足」という人物が何者なのか全く分からない。大友皇子の子にそんな人物が本当に居るのかという疑問。最近思っているのは帰化した百済の王族に余氏という一族が居り、あるいは余那足はこれとは関係ないのか?ということ。こっちはまだ何も調べられていない。

個人的に伴善男の子孫説も大友皇子の子孫説も少し疑っている。


【肝付氏の舞鶴紋について】
薩摩藩史料『明赫記』などで肝付氏の家紋の一つ舞鶴紋は村上天皇から賜ったと伝承されている。
村上天皇が崩御したのは967年。伴兼行あるいは仲用が薩摩掾に補任されたのは968年。薩摩に下向したのは969年。うーん?
兼行あるいは仲用は太宰大監であり太宰府官人である。大監は四等官のうち三等官で村上天皇がわざわざ紋を下賜するほどの高位という訳でもないように思う。それほどの何らかの功績があったのか?

これは村上天皇ではなく「後村上天皇」の間違いではないのか?
後村上天皇は南北朝時代の人で、弟に征西将軍宮・懐良親王が居る。つまり肝付兼重の頃で、兼重は懐良親王から南九州を代表する南朝宮方として後醍醐天皇の錦旗を下賜されている。この時期ならば後村上天皇からわざわざ紋を拝領するに足る情況ではないだろうか?


【戦国期の高山落城と肝付兼続の自害】
肝付兼続について調べるとこの話が出て来るが、同時期の島津氏の動向を調べると逆に出て来ないのだ。

1561年、肝付兼続と島津貴久が決裂して廻城の戦いが起こり、結果肝付家が勝ってしまった。この時のことは島津氏の記録にも詳しく残っている。以降は肝付家が優勢で島津方の北郷家、豊州家を侵食する全盛期だった。そんな肝付家の牙城を落とし、強勢の兼続を自害に追い込んだのなら島津氏の記録に残るはずであるが…無いのである。
後年の肝付兼亮が当主の時、1574年の肝付攻めも詳しく記録が残っている。この時でさえ高山城は攻めていない。何故なら前線の伊地知氏が降伏したことで不利が決定的になった時点で降伏したからだ。

兼続時代の錦江湾の制海権は禰寝氏・伊地知氏と連合した肝付方の掌中にあって島津軍は渡海できない。豊州家が貴久の支援を取り付けるため当主として迎えた貴久次男・義弘を鹿児島に送り返したり、志布志を明け渡すことになったのは廻城を奪われて陸路が断絶し、制海権も握られ支援を受けられなかったからだ。
こんな情況で一体どうやって島津軍は高山城を攻めたなどと言えるのだろうか? 落城が事実なら島津家が高山城を奪取したはずなのに兼亮時代も高山城が肝付家の本城なのはおかしいだろう。いつ取り返したのか? 取り返した時の戦いの記録もない。何も無い。
そもそも攻めていないから記録が無いのである。

兼続の自害に関しても同じである。島津氏の記録には「自害」やそれを思わせる記述は無い。では何と書かれてるのか? 例えば『本藩人物誌』では「卒ス」である。

ではこの話は何処から出て来たのか? ザッと調べた限り一番古いのは『肝付落城伝聞記』である。
これが書かれたのは19世紀の初めで、高山郷の医師・学者であった小野原芳山によるとのこと。その頃には既にそういう伝承があったということだろう。