太田亮『姓氏家系大辞典』第2巻 より「肝付」の項抜粋 前編 | うぃんどふぇざぁ

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旧字異体字は変換がめんどくさいので途中から適宜当用常用漢字に変わってます。
青字は私が付けた補注です。


【肝属】キモツキ
中興系圖に「源、本國大隅」とあり。肝付條を見よ。
【肝衝】キモツキ
肝付條を見よ。
【肝屬】キモツキ
大隅國肝屬郡は和名抄に岐毛豆岐と註す。この地より起りし也。肝付條を見よ。

【肝付】キモツキ
南九州の大族にして永く勢力を保ち、従って支族甚だ多し。南北朝、王事に盡し、又久しく島津氏と相頡頏す。
※肝付氏は南朝宮方として勢威を奮った。

1  肝衝(無姓)氏
大隅肝屬郡より起る。文武紀四(700)年六月條に「薩末の比賣(さつまのひめ)久賣(くめ)波豆(はつ)、衣評督(えのこおりのかみ)衣君縣(えのきみのあがた)、助督(すけ)・衣君弖自美(えのきみのてじみ)、又肝衝難波(きもつきのなにわ)肥人(くまひと)等を従へ、兵を持し、覓國使(くにまぎのつかい)・刑部眞木(おさかべのまぎ)等を剽劫す云々」と見ゆるにより肥人の酋長たりしならんかと考へらる。

2  伴姓
前項氏と同樣、大隅国肝屬より起る。南九州の大族にして、島津氏に對抗し、殊に南北朝時代に於いては王事に盡瘁する所・多かりしかば、其の名聲甚だ高し。されど其の出自に至りては明白ならざる點多く、予輩の如きも、幾度か其の推定に惑ひぬ。
其の系圖に據れば、大友皇子の後にして、皇子の御子内大臣余那足(よなたり)の裔と稱し、其の八世孫伴掾大監(又河内守)兼行、安和元(968)年に薩摩国総追捕使となり、同二(969)年、鹿児島郡神食(かみしき、上伊敷)、これ伊敷(下伊敷)の伴掾館(或は伴氏館所)なりと云ふ。其の後、兼貞の代(兼貞は兼行の子、又は孫、又は曾孫、或は十一世と云ふ)に至り、肝属に移り、日向国三俣院を併せ領すと伝へらる。
これより前、太宰大監平季基、万寿年中・日向国諸縣郡島津に居住し、無主の荒野を開墾し、関白藤原頼道(藤原頼通)に寄せ、摂録家(摂籙家)の伝領として、島津御荘と称へ、季基・其の下司職を兼ぬ。その後、女を兼貞に配して嗣とす。兼貞五男を生む。一男は太郎兼俊、二男次郎兼任は後に萩原を領して氏とし、三男三郎俊貞は安楽を領して氏とし、四男四郎行俊は出水を領して氏とし(のちに和泉氏とも)、五男齋宮介兼高は梅北を領して氏とし、加ふるに、中郷鎮座神柱神社の祭祀を司る。此の神柱神社は兼高外祖平季基・夢想に因り、伊勢両宮を勧請せしと伝へ、大隅国肝属郡姶良麓鎮座の若宮社は、長久四癸未(1043)年、平判官良宗の建立にして、良宗は季基の舎弟なりと。この良宗は姶良庄を開墾し、其の一族には大姶良、獅子目、横山、濱田(各氏は平姓、薩摩平氏)に居住すと也。
而して、肝属を氏とせしは、十二世大隅守兼俊の時よりと云ひ、又兼行は河内守にして、幕紋舞鶴章を賜ふと云ひ、又或る系図には「兼遠……行貞……兼俊」とありて兼行と云ふ人なく、又或る系図には「余那足裔……仲用……仲兼……兼遠」とありて、其の腰書に「仲用、或は仲庸、従五位下、侍従、右衛門佐に奉仕、仲兼は幼名。元孫河内右馬頭は貞観元己卯(859)年の誕生。二男叔孫は貞観四壬午(863)年誕生。三男禅師麿兼遠は判官代、余那足六世孫にして、薩摩に流罪」とあり。此の人と混同したるかと。又兼行舎弟兼信とありて、其の子信成、孫安信と、只名のみ記したる系図もあり。
※元孫、叔孫、禅師麿の3人は伴善男の孫、伴中庸の子と日本三代実録にある。

3  大伴宿禰説
これ等の伝説に対し、地理纂考は肝属郡内高山郷条に「高山は肝付家譜に『大友天皇の御子余那足より七世孫、従五位上伴河内守兼行、冷泉天皇の安和元(968)年、薩摩掾に任ぜられ、翌(969)年薩摩に下り、薩摩国神食村に館を建て住す。曾孫伴兼貞(一説に兼俊)、長元九(1036)年九月、大隅国肝属郡弁済使にて、肝属に移り家号を肝付と改め高山を治所とす云々』と。
此の肝付の家を大友天皇の後裔なりといへるは、大いに訛れり。其の系図を閲するに、『其の始祖は大友天皇七世與那足(余那足)より出で、二世大納言善名、其の子大納言国通(伴国道)、其の子大納言善男、其の子兵衛督仲用、其の子右馬頭仲兼、其の子判官兼遠、其の子河内守兼行』とあり。其の善名、善男の伝は、三代実録に詳にて、大伴宿禰と見へ、姓氏録にも、大伴宿禰は天押日命(天忍日命)の後裔なるよし見へたるを、大友天皇の後裔なりといへるは、いみじき訛りなり。又家伝に『始め大友の二字を用ひしを、後に単称して、文字をも伴と改めし』よし云へり。此は後記に『弘仁十四(823)年四月壬子、大伴宿禰を改めて、伴宿禰と為す。諱に触るれば也』とあるを訛れるにて、諱に触るとは、淳和天皇の御諱を大伴と申し奉ればなり。是等の事を弁へず唱の同じきが故に誤りけむ」と。
されど系図に、伴善男の名の見ゆる如きは、後世の補足なれば、以つて証となし難く、又大伴姓ならば、何が故に余那足が後と云ふか。此等より見れば、大友皇子後裔と云ふは採り難き事、勿論なるも、大伴宿禰説も採り難し。(付設、宇都宮村雄氏は「吾村肝付氏居城集記に、永観二(984)年以来、肝付氏累代の城域とあり。村内神社仏閣の勧請、又は改築、永観二年頃の者多し。安和元年より永観二年は、僅か十五年前後なれば、此の氏若くは直子の時代より、此の高山に移住せられたるものの如し」と。

4  肝衝氏裔説
その氏名よりすれば、此の氏は前進肝衝氏の裔なるが如し。されど諸伝説何れも初め薩摩より移ると云へば、此の説も採り難く、又何が故に伴姓を称するかも解き難し。

5  三河伴氏説
第三項の理由と同様にて恐らく否ならん。

6  百済族説
余那足と云ふより見れば百済王余氏の族かとも考へらる。百済滅亡後、来朝せしもの多ければなり。

7  大友村主説
大友村主は大友皇子の後裔にあらざるも、古くより其の説ありし事、オホトモ条に云へり。此の氏がオホトモを氏とし、此の皇子裔と称するも同様の付会にて、且つ余氏など云ふより見れば、或は大友姓なりしか。

8  太宰府伴氏説
されど早く府官に伴氏あり、而して此の氏・平大監と婚す。よりて出自の如何に関せず、太宰府伴氏と密接なる関係あらんと考へらる。府官は鎮西譜代の豪族なるを恒とすればなり。オホトモ、バン条を見よ。