天正二年 八月十一日 から 八月二十日 玉里文庫『上井覚兼日記』 | うぃんどふぇざぁ

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十一日

一、十一日如常出仕候今朝入來院殿より申

され候儀候於護广所本埜州伊勘もし

拙者三人して承候従入來ハ東鄕美作

山口筑前使申候意趣は前ニ申上候

十一日、いつものように出仕した。今朝、入来院(弾正忠重豊)殿から申された件を、護摩所で本野州(本田下野守親貞)、伊勘もし(伊地知重秀。「もし」は文字言葉?)、拙者の三人で聞き取った。入来からは東郷美作、山口筑前が使いをしていた。用件は「前に申し上げた

 

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様ニ諸人埜心之由御申之処御法度拵

被成候するを   御一言迄ニ而身上御助候

其上本領可被下之由候畏入候御老中(おとな)

御内儀法第拝領之処を去上申へき由申

然共又〻申上候清色より外〻四ケ名

挌護申候山田天辰田崎寄田是四ケ

所拝領候皆進上候由被申候即披露申候

御意にハ是を皆御請取候ヘハ所領御望

ように諸人が野心の疑いを御申しの際、御処罰の運びとなされるのを、(義久様が)御一言によって(入来院重豊の)身の上を御助けになった。そのうえ本領を下されよう(安堵されよう)とのことで、恐れ入ります。御老中の内々の御意向に従い(両家対立以前に島津忠良様から)拝領した所領を退去返上するつもりです」とのことを申し、しかしながら(入来院側が)重ねて申し上げた。「清色以外に四ケ名を領有しています。山田、天辰、田﨑、寄田(よしだ)、この四ケ所を(忠良様から)拝領しました。全て進上します」とのことを申された。すぐに(義久様に)報告した。(義久様の)御考えは「これを全て受け取れば、(わたし、義久様が)所領を御望み

 ※「名」とは請作の対象となる土地のこと。


ニ而一ケ條之儀被仰懸候に相似候如形

うちかへを被下候すると   上意候よし田

乃事ハ伯囿さま以御分別海邊を少

被持候ハてハとて被下在所に候之間

別儀有間敷之由被仰候此日入來院殿

殿中へ出仕候

で(あるので)、一件(野心の疑い)の事を仰せかけられているのに似ている(ように見える)。(なので)形式的な替地を下されよう」との上意だった。「寄田の事は伯囿(島津貴久)様の御判断により「(入来院氏に)海辺を少し持たせなければ」といって下された在所であるので、異論があってはならない」とのことを仰せられた。この日(十一日)、入来院殿が殿中へ出仕した。

 

一、此日川邊かこむつかしき儀新左衛門とのハ

(いささか)無存知由候間此儀左馬頭殿へ申

この日(十一日)、川辺(川辺町)と鹿篭(枕崎市)の係争について、新左衛門(平田宗張。川辺地頭)殿は少しも存知していないとのことだったので、「この事を左馬頭(島津忠長。鹿篭地頭)殿へ申

 

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せと候於殿中ニ左馬頭殿へ申入候ヘハ

従御老中御尋候事ハ分明ニ不被仰候而

只川邊江馬人之事ハ相留候かへり候する

か又かへる間敷物ニて候歟御料理ニこそ

候すれと仰候何ともめされにくき由

御老中達御物語候

せ」という。殿中で左馬頭(忠長)殿へ申し入れると、御老中から御尋ねのあった事ははっきりとは仰せに(お答えに)なられなかった。ただ「川辺に(盗まれた)馬と人については留め置いている(留め置かれたままだ)。返って来るのか、あるいは返ることはないものなのか。御善処を頼む」と仰せになった。「何とも扱いづらい」とのことを御老中達は御話合いになった。

 

十二日

一、十二日如常出仕申候入來院殿假屋江

三人同心申候而御返事申候其意趣ハ

十二日、いつものように出仕した。入来院殿の御仮屋へ(本野州、伊勘文字、拙者)三人揃って御返事した。その内容は

 

山田田崎天辰寄田彼四ケ所進上之

由此侭ニ召上候ヘハ御所領御望に相似候

打替を可被遣候よしたの事ハ如當

時可被下之由被仰候次ニは血判之

事是又急度(きっと)被申候へと被仰候忝

由被申候血判は一両日逗留之内ニ可申

上之返事候

「山田、田崎、天辰、寄田の四ケ所を進上するとのことで、このままで召し上げれば、(入来院殿の)御所領を御望みしているのに似ています(ように見えます)。(なので)替地を遣わされるでしょう。寄田の事は現在のように下されようとのことを(義久様が)仰せられました。次に血判については、これもまた急ぎ申されよ(提出せよ)と仰せられました」。(入来院殿は)「かたじけない」とのことを申され、「血判は一両日中、逗留の内に申し上げる(提出する)」との返事だった。

 

一、此日川邊かこ公事(クジ)之事出合候へ共

この日(十二日)、川辺と鹿篭の訴訟の事で出掛けたのだが、

 

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小野之御的ニ左馬頭殿御供候間事行候

小野(鹿児島市小野か?)での御的に左馬頭(島津忠長)殿は(義久様の)御供していたので処理出来なかった。

 

一、此日平佐之石神坊就下人之事冠嶽へ

書状之事被頼候失念候て御老中江

不申候

この日(十二日)、平佐の石神坊の下人の事について、冠嶽(いちき串木野市、和光院頼重)への書状の件を頼まれた。(しかし)失念して御老中へ申さ(伝え)なかった。

 

十三日

一、十三日出仕不申候石神坊下人書状

冠嶽へ遣候

十三日、出仕しなかった。石神坊の下人(について)の書状を冠嶽へ遣わした。

 

十四日

一、十四日如常出仕申候かこ川邊口事之

儀披露申候同日新納武州鎌田

十四日、いつものように出仕した。鹿篭と川辺の相論の件を(義久様に)報告した。同日(十四日)、新納武州(忠元。大口地頭)と鎌田

 

尾州へ談合候従かこ馬人を川邊江

留候間疑(頻?)ニ可返預之由承候如何候するやと

彼兩人へ御尋候得ハ盗人を討候上は

たとへ盗物眼前御座候共かへるましく候

况無御座候間無弓箭処を左馬頭殿

是非返進候申候へと承候は無理之由候

此朩之旨披露申候而又左馬頭殿へ申候

得ハ㝡前同御返事ニ候

尾州(政年。牛根地頭)へ(係争の件を)談合した。「鹿児(鹿篭)から馬と人を川辺に留めているので、(忠長殿が)しきりに「返却しろ」とのことを承っています。どう対処しましょうか」とかの二人へ御相談すると、「盗人を討った以上は、たとえ盗品が眼前にあろうとも、返って来ることはありえない。ましてや無いならば争いようもないところを、左馬頭(忠長)殿が是が非でも返却せよというのは道理が無い」とのことだった。これらの意見を(義久様に)報告して、また左馬頭(忠長)殿へ申す(伝え)と以前と同じ御返事であった。

 

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此日川邊鹿児六ケ敷(むつかしき)叓伊勘もし

拙者    御前に披露申候其次ニ

上意ニ平田宮内少輔牛根へ移候事

相定候か彼親にて候安房介    伯囿様へ

毒上候由実不実は無御存知世間ニ

下〻申散候なり然處彼宮内牛根へ

召移候て少茂御扶持共候へハ諸人御

親様之事を御忘却候てケ様ニ候哉なと

この日(十四日)、川辺と鹿篭の係争を伊勘文字(伊地知勘解由左衛門尉重秀)と拙者は御前(義久様)に報告した。その次には上意に「田宮内少輔を牛根へ転属することを決めたのだが、かの親である安房介は伯囿(島津貴久)様へ毒を盛ったとの疑惑、真贋は御存知は無く、(しかし)世間に下々まで申し散らしている。そのようなところに、かの宮内(平田)を牛根へ配属して少しでも御扶持など与えれば、諸人は「(義久様は)御親様の事を御忘れになって、このようにされるのか」などと

 

あつかひ候てハ御迷惑たるへき之間

彼移成間敷由候

扱っては御面倒であるだろうから、かの転属はなさるべきではない」とのことだった。

 

十五日

一、十五日如常出仕候川上上野守殿藺牟田

地頭役御侘被成候頻ニ猶〻御頼之由被仰候

伊集院右衛門兵衛尉殿拙者御使申候

御返事ハ彼御名字に如此之役共

被持候事は前代未聞之儀候御弓

箭時分は何と様にも御奉公候儀候

十五日、いつものように出仕した。川上上野守(上野介久隅)殿が藺牟田地頭役の御辞退願いなされた。(御老中は)何度も(引続き地頭役を)御頼みしたいとのことを仰せられた。伊集院右衛門兵衛尉(久治)殿と拙者が御使い(取次)した。(川上上野守殿の)御返事は「かの御名字にこのような役などを持たせる事は前代未聞の事です。御合戦の時にはどのようにも御奉公します。

※小ネタ。上野国は親王任国で、長官である「守」は親王が任じられるため、次官である「介」が実質的なトップ。上総国も同じであるが、若き日の織田信長はこれを知らずに上総守を名乗ってしまったことがある。すぐ織田上総介に改めているが…。

 

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爰許泰平に罷成候間頻御措(さしおき)被成

候へと堅御申事に候

こちらは平和になったので、繰り返しますが御差し置き(御留め)なさってください」と固く御申しの事であった。

 

十六日

一、十六日如常出仕候入來院殿血判上候同内衆五人之血判もあかり候是ハ皆役人

共にて候軈而(やがて)血判懸御目候其意趣ニ

尾より川内之方皆進上之由申上候處

寄田如此間被下之由候此余も如承

打替可被下之由忝奉存候永〻此旨

十六日、いつものように出仕した。入来院殿が血判を上げた(提出した)。同家来衆五人の血判も上がった(提出された)。彼らは皆役人達である。やがて血判を(義久様の)御目に懸けた。その文言には「尾から川内の方面(所領)を全て進上するとのことを申し上げたところ、寄田はこの間のように下されるとのことであり、この他も承ったように替地を下されるとのこと。かたじけなく存じ奉ります。末永くこのご配慮を

※「尾」は恐らく山の裾にある尾根状地形の末端部を指す地形名と思われる。

 

忘却申間敷由被申候将亦(はたまた)山田天辰ニ

當時罷居候人衆清色へ参候する叓ハ

難成候自爰打捨候するハ餘迷惑ニ存候

間人衆共に上候由被申候此旨披露

申上候召    上意ニ彼御返叓候する

歟又人衆共ニ上候する之儀彼兩條老

名敷(おとなしき)衆相尋申候へと候侭則相尋申候

各御申ニは御返叓之事此前入來さ

忘れることはありません」とのことを申された。はたまた(それとは別に)「山田、天辰に現在居住している家来衆が清色(入来院本領)へ参る(召し抱える)事は困難です。こちらから見捨てるのはあまりに偲びなく存じますので、(義久様の)家来など(の処遇)に上げます(任せます)」とのことを申された。この件を(義久様に)報告し申し上げた。上意には「かの(血判の)御返事を(こちらからも)するのかどうか。また、家来などに召し抱えるべきかの件、かの二件は重臣達に相談せよ」とのことだったので、すぐに相談した。おのおのの御申しでは「御返事については、この前に入来(に対して)は

 

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神判之時御返事候彼方ゟ此度二心候て

こそ又申上られ候へ此方よりハ御替なき

儀候間御無用之由御申候又人衆共に

と申され候ハ私ニ返叓可申由候其趣は

定而皆〻年比(としごろ)之人衆にて候ハん間此方へ

はとても参られましく候只それ「たのこ

とく?」可然由可申候此通頓而(やがて)申上候又

上意ニ向後(キョウコウ)之如證文血判以永〻二

神判の(取り交わす)時に(こちらの)御返事があった。(しかし)あちらから二心(野心)があった(あちらが潔白を示すべき)のだから重ねて(返事を)申し上げられるべき。こちらからは御変わりない(落ち度はない)事なので、(こちらの御返事は)御無用」とのことを御申しになった。また「家来などにと申された件は内密に返事しよう」とのことだった。その意図は「きっと皆々年輩の家来衆であろうから、こちら(鹿児島)へはとても参られることはない。ただ「それは「?」のように?」当然」とのことを申すのが良いだろう。(そして)この旨をあとで申し上げた。また上意に「今後に向けて証文血判をもって末永く二

 

心有間敷由被申候通以御状被仰

候て可然由候老中衆も乍勿論尤之由

候て則長谷場織部佐へ御状可被認(したため)候由

被仰付候

心のないように」とのことを申された旨をもって御書状を仰せられて当然(お書きになって当然)」とのことだった。老中達も異論なく道理だとのことだったので、すぐに長谷場織部佐(織部佑)へ御書状をしたためられるようにとのことを仰せ付けられた。

 

一、此日従中書様御老中迄御内儀之御侘

言候御使ハ新武刕拙者申候隈城西

手名ニ四十町斗御挌護候就其入乱候之

間隈城与六ケ敷叓度〻出來候異心ニ

この日(十六日)、中書(島津中務大輔家久。中書は中務省の唐名)様から御老中へ御内密の御陳情があった。御使い(取次)は新武州(新納武蔵守忠元)と拙者がした。(家久様が言うには)「隈之城(地頭は家久。薩摩川内市)の西手名に四十町ほど御領有している。それについては(薩州家、東郷家、家久領などの所領が)入り乱れているので、隈之城と係争が度々起こっており、懸念に


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被思召候然は此度入來院殿山田天辰

田﨑上候由候山田之事ハ三十町名にて候

雖然此前方分之時半分は此方へ付候其

残卅町迄ハ有間敷候へ共三十町ニめされ

天辰田﨑彼十二町取合四十二町斗

にて候是を隈城ニ御挌護之所領ニ御くり

かへ候へと被仰候二言とハおほせ有まし

きにて候次ニは入來院比度一ケ条之儀

お思いなられている。そういうことなので、今回入来院殿が山田、天辰、田﨑を進上するとのことであり、山田については三十町の名である。そういうことになっているが、以前方分(土地の切り分け)した時に半分はこちら(家久様)へ付け、その残りは三十町もなかったが三十町となされ、天辰と田﨑かの十二町を合わせて四十二町ほどである。これを隈之城に御領有の所領に御入れ替えしてくれ」と仰せられた。「二言のつもりで仰せあるのではない(他意があって言っているのではない)」ということであった。次には「入来院が今回一件(野心の疑惑)の事を

※まとめると、家久は隈之城西手名に四十町を持っているがここは係争地になっている。入来院山田の地は方分の時に三十町も無いのに三十町として扱われた。そこで田﨑天辰十二町と合わせて四十二町弱を係争問題のある隈之城西手名四十町と交換して欲しいと言っている。いくらなんでも家久くんに都合良すぎやろ( ̄▽ ̄)

 

中書様も御申之事共候ツ自然此所領御里

にてケ様之事共仰付候なとゝ世間噯(あつかい)申候てハ

御迷惑たるへし爰も御老中御分別次第

と仰候御老中御返事ニは近比可然様に存候

乍去    御前之様を不存候間卒度(そっと)御内

儀請候する由候それも御分別次第と中書

仰候

中書(家久)様も御申しの(報告していた)事などがあったのだった。そうなると当然、「この(入来院の)所領が(家久様の)在所(の近く)で(あるので)このような事(野心の疑惑)など仰せ付けた」などと世間が扱っては御面倒だろう。これも御老中の御判断に任せる」と仰せだった。御老中の御返事は、「近頃そういうことだろうというように(そういう状況になっていると)存じています。しかしながら御前(義久様)のお考えを存じていないので、そっと(密かに)内々の御意向を請け合います」とのことだった。「それも(御老中の)御判断に任せる」と仰せだった。

 

十七日

一、十七日出仕如常仕候河上刕御侘之事伊右衛門兵衛頭

十七日、出仕をいつものようにした。川上州(川上上野介久隅)の御陳情(地頭役辞退)について、右衛門兵衛頭(伊集院久治)と

※十五日には右衛門兵衛「尉」と書かれているがここでは「頭」の字に見える。ちなみに兵衛府の「かみ」は「督」の字が正式。

 

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兩人以披露申候彼御心座と詞替候人にて

御座候間猶〻御憑(たのみ)之由被仰候て歟可然候

すらんと上意候殊彼御家ニケ様之役之事

前代未聞之由御申候歟是ハ十四五年彼役

御つと目候間爰ニ不始由    御意候

両人で報告した。(義久様が言うには)「彼は本心と言葉を換える(本音と建前が違う)人であるので、「重ねて(地頭役を)御頼みしたい」とのことを仰せられて良いのではないか」との上意だった。「特に「かの御家(川上家)にこのような役の事は前代未聞」とのことを御申しだったが、これは十四、五年かの(藺牟田地頭)役を御務めしていたので、今に始まった話ではない」とのこと。おっしゃる通りだ。

 

一、此朝川邊と六ケ敷叓左馬頭殿不被聞召

分由披露申候直ニ本田下埜守以如御

内儀可被仰之由候此次ニ平田宮内少輔移

この(十七日)朝、川辺との係争について左馬頭(忠長)殿はお聞き届けにならなかった事を(義久様に)報告した。「(義久様から)直接本田下野守(親貞)を遣わして内々の御意向を仰せになる」とのことだった。次に平田宮内少輔の転属に

 

儀ニ依而被仰出候一ケ條平田濃刕御老中

迄と候て御申候寄合中彼儀承候

同名候之間取分迷惑驚入候兎角申

上候する様躰もなきよし御申候御返叓濃刕

心遣尤ニ被思食乍去ケ様之事ハ親子夫

妻なとにも何か談合ハ申候するまして同名

にて候なと候てさのミ心遣入間敷由被仰候此旨

召濃刕へ申候先〻忝上意寄合中迄

ついて仰せ出られた一件(宮内少輔の父が毒を盛った噂による義久様への外聞の事)を平田濃州(昌宗)が御老中へ(伝えてくれ)というので御申し(伝え)した。寄合中はかの件を請け合った。(平田濃州が言うには)「同名(同じ名字、同族)であるので、とりわけ困惑し驚き入っています。(私の口から)あれこれ申し上げるような有様ではない」とのことを御申しだった。(義久様の)御返事は「濃州(平田昌宗)の心遣いはもっとも」にお思いになられ、「しかしながらこのような事は親子や夫妻などでも何か話し合いはするだろう。ましてや同名であるなどならば、それほどの心遣いは要らない」とのことを仰せられた。この旨をお召しにより濃州(平田昌宗)へ申した。「何にも増してかたじけない上意」と寄合中へ

※「同族の一件を自分から何か申し上げることは遠慮憚り(公平性を欠く、要らぬ疑いを持たれる)があってするわけにはいかない」というような意味。

 

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御礼候

御礼があった。

 

一、此日左馬頭殿ゟ伊勘拙者参候へと承候条即

兩人御宿へ参候承事に川邊と六ケ敷叓

一途御噯(あつかい)なく候殊頃は従諸方六ケ敷事

繁多之間事行候ハぬ迄にて御暇申候由候

即伊右村越平濃へ申候御前ニ披

露申候へと承候間殿中へ参候て御小人

弥三郎殿にて申上候明朝委可聞召候由候

この日(十七日)、左馬頭(忠長)殿から「伊勘(伊地知勘解由重秀)と拙者は参れ」と承ったので、すぐに二人で御宿へ参った。聞き取った用件は、「川辺との係争は一向に御扱いがない(進んでいない)。特に近頃は諸方から係争の案件が頻繁なので、上手く進まない限りで、御暇する」とのことだった。すぐに伊右(伊集院右衛門大夫忠棟)、村越(村田越前守経定)、平濃(平田美濃守昌宗)へ申し(伝え)た。「御前(義久様)に報告せよ」と承ったので、殿中へ参って御小人(小姓?)の弥三郎殿によって(取り次いでもらって)申し上げた。「明朝詳しくお聞きになるだろう」とのことだった。

 

 十八日

一、十八日出仕如常申候中書様御内儀老中衆

迄被仰候此儀拙者一人にて御前披露申候

上意ニ西手名繰返之事一向無御納得候

其故は隈城と六ケ敷度〻候由御申候へとも

いまた何たる条とハ不聞召候処ニ六ケ敷叓候

程ニ御くりかへのよし如何候由候就夫山田御里

之由御申候是又一城有処にて候間平地

なとにハ違(辵+麦)候城を御参せ候する事ハ如何候由候

十八日、出仕をいつものようにした。中書(家久)様が御内密に御老中達へ仰せられたこの件を拙者一人で御前(義久様)に報告した。上意には、「西手名の繰り替えの事は全く御納得無かった(承服されなかった)。その理由は、「隈之城との係争が度々あるとのことを御申ししているが、「何々という事情(があってなど)」とはお聞きになっていないのに、「係争があるから御入れ替え」というのは如何なものか」とのことだった。「それについて山田の在所の事を御申ししているが、これもまた一城ある場所であり、平地などとは違う城を御与えする事は如何なものか」とのことだった。

※「係争が「何度も」あると言っているが、今まで何の報告もしていなかった。今になって都合良く「繰り替え」してくれとは何事か」と義久は率直に遺憾に思っているようだ。家久くんお兄ちゃんを困らせないで…(*^艸^)


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殊更今さへ金吾様なとハ中書様之御分限

御覧し合候て色〻御侘之事共候况や彼

城所領なと御参せ候て弥御侘は尽候ハし

かと被思食候由    上意候尤之由御老中

候て即此義由中書さまへ申せと承事に候

「ことさらに今でさえ金吾(島津左兵衛督歳久。金吾は兵衛府の唐名)様などは中書(家久)様の御待遇を御覧じて色々御不満の事などがある。ましてやかの城や所領など御与えして(しまうと)、いよいよ御不満は尽きないだろうな」とお思いになられた」との上意だった。「もっともなことだ」とのことを御老中は思って、すぐに「この事の旨を中書様へ申せ」と承ったのだった。

 

一、入來院殿御返書事成候間渡申候并(ならびに)

御返叓申候此分にて御暇被申候而被帰候

入来院殿への(神判血判の)御返書が完成したので渡し、あわせて御返事した。これをもって(入来院殿は)御暇申されて帰られた。

 

一、中書御宿へ参候へとも御留守之間定帰候

中書(家久)の御宿へ参ったが、御留守なので帰った。

 

一、此日平田新左衛門との宿へ伊地知勘もし拙者

御老中之使ニ罷候趣は左馬頭殿彼口叓之

儀一向無御得心候て御帰候間此度は相終申

ましき由候而川邊のことくかへり候

この日(十八日)、平田新左衛門(宗張。川辺地頭)殿の宿へ伊地知勘文字(勘解由重秀)と拙者は御老中の使いで赴いた。用件は「左馬頭(忠長)殿は相論の件について、全く御納得無いまま御帰りになったので、今回は解決することはない」とのことを伝えて、(平田新左衛門殿は)川辺の方へ帰った。

 

一、此日执印河内守殿与座主権执印口事邊之

叓候先河内守殿存分承候其趣は三まひ衆

宮田杢助と申者養子之事にて候执印殿

定有度由候座主権执印違(辵+麦)乱候之由

この日(十八日)、執印河内守(清友)殿と座主権執印の相論関係の事があった。まず河内守殿の意向を聞き取った。その内容は、三昧職の宮田杢助と申す者の養子についてであった。執印殿は(杢助を養子に)定めたいとのことだった。(しかし)座主権執印は反対しているとのことを


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承候従其座主権执印総官大検校此衆

拙宿へ召寄口承候使は伊集院源介殿白濱

防州拙者にて候彼衆被申候は彼養子ニ

成候者ハ殿守之子にて候三まひ衆と申候ハ

座主権执印之同し座に参着にて候

程彼者ハそれなと之高職ハ一圓ニ成ましき

由候我〻申事にハ彼者之おちにて候なるハ

正宮司にて候なる爰ハいかゝのよし尋候

聞き取った。それから座主権執印、総管大検校、この人達を拙宿へ呼び寄せ言い分を聞き取った。使い(取次)は伊集院源介(久信。肥前守久春。町之御触職(鹿児島町奉行))殿、白浜防州(重政。奏者)、拙者であった。彼らが申されているのは「かの養子になる者は殿守(雑用女官)の子である。三昧職というのは座主権執印と同じ座に着くものであるから、かの者はそれなどの高職には絶対になってはならない」とのことだった。(それに対して)我々が申した事は、「かの者の伯叔父であるのは正宮司である。これはどうなのか」とのことを尋ねた。


それハ神道大阿闍梨にて候其上出家の

事に候間位の高下ハ遁候由承候

「それ(正宮司)は神道大阿闍梨であり、そのうえ出家の身であるのだから、位の高低は免れる(問われない)ものだ」とのことを聞き取った。


十九日

一、十九日如常出仕申候座主権执印口事之

儀承候分御老中へ申入候扨は三まひ衆

通にハ彼者成ましき者ニて候哉然とも養子

に成候へハいかなる賤者も養父の位次第に

こそ候へ本の親の位名字なとハいらさる由候

此分堅申つめ候間兎角はつしめられ

十九日、いつものように出仕した。座主権執印の相論について聞き取った話を御老中へ申し入れた。(御老中が言うには)「それでは三昧職などにはかの者がなってはならない者であるというのか。しかしながら養子になればどのような身分の低い者も養父の位次第である。元の親の位、名字などは要らない(関係ない)」とのことだった。この趣旨を固く申し詰めたので、「とにかく外すことは出来


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す候只新田は余所に替候間神慮かケ様に

候と斗被申候道理ハ少茂無承分事候

ない。新田は余所に替えたので神慮がこのようになった(?)」とだけ申された。道理は少しも承服できるものでは無かった。


一、此朝川上殿御侘猶ゝ被成候達    上聞候

上意ニ名字にケ様役めされぬ由候歟爰は

さも候ハん然共上野守殿御事ハ真幸口なと

御弓箭候ハゝ一方御頼可有仁にて候人衆なと

召列候ハんハにて候間爰以藺牟田役之儀

暫御頼之由候也

この(十九日)朝、川上(上野介久隅)殿が御陳情を重ねてなされているのを(義久様の)お耳に入れた。上意には、「このような(藺牟田地頭)役を務めないとのことであるか。これはそうだろう。しかしながら上野守殿については、真幸院(えびの市)方面などで御合戦があればとても御頼りになる人である。(御合戦のために)家来など引き連れなければとなれば、これをもって(家来を率いるならそれを賄うためにも)藺牟田地頭役の件をしばらく御頼みしたい」とのことだった。


二十日

一、二十日御寄合中御同前ニ御前に御申候意

趣は入來院此度所領少〻上被申候天辰之

事此前川内御知行候砌本田紀伊介へ被下候

由被仰候然は拝領可被申之時分是者

入來院へ被遣候ハんハなと出合候間如其入來へ被下候

紀州は其砌手持わろきやこそ候ツ奇特ニ

此莭明合候侭彼人へ被遣候て歟可然候すら

んと御申候拙者御使申候御意にハ可然

二十日、御寄合中が御揃いで御前(義久様)に御申しした。用件は「入来院が今回所領を少々進上されました。天辰について、以前(義久様が)川内の御知行(御接収)の際、本田紀伊介(紀伊守董親)へ下されるとのことを仰せられました。そして、(本田紀伊介が)拝領される(はずの)時に(本田よりも優先して)「これは入来院へ遣わされなければ」などとなったので、そのように入来へ下されました。(その結果)紀州(本田紀伊介)はその際手持ちが悪かった(手持ち無沙汰で格好が悪かった)でしょう。運良く今回(進上されて天辰が)空いたので、かの人(本田紀伊介)へ遣わされて良いのではないでしょうか」と御申しした。拙者が御使い(取次)した。(義久様の)お考えは「そのように


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出合にて候能様(よきヤウ)に寄合中談合被申候へと

御意候

対応して良いだろう。良いように寄合中が談合されよ」との御意向だった。


一、此日𠮷利殿より承候先月已來野頸原

六ケ敷叓候就其役人兩人召失候此度此

方へ御参候て御老中へ御尋候へハ𠮷利殿前

より召直し候へと候間早〻召直候へと承

事に候拙者ハ留守之間安楽弥平兵衛尉

承置候従彼方(あなた)より之使者木原掃部助にて候

この日(二十日)、吉利(下総守忠澄)殿から聞き取った。先月以来野頸原の係争があり、それについて役人二人を召喚した。今回こちらへ御参りになって御老中へ御相談したところ、吉利殿側から呼び戻してくれと言っていたので、(重ねて)早々に呼び戻してくれと承ったのだった。拙者は留守だったので安楽弥平兵衛尉が承っていた。あちらからの使者は木原掃部助であった。


一、此夜談儀所へ権执印座主与执印殿と

口事之叓御異見被成候へと白濱殿拙者

兩人御使申候明日異見可有にて候

この(二十日)夜、談儀所(大乗院盛久)へ「権執印座主と執印殿との相論の事に御意見を出されよ」と白濱(周防介重政)殿と拙者の二人で御使い(取次)した。「明日意見を出すだろう」ということであった。




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