天正二年 八月二十一日 から 八月二十九日末日 まで 玉里文庫『上井覚兼日記』 | うぃんどふぇざぁ

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二十一日
一、廿一日御老中へ御暇申候而長𠮷へ罷越候
二十一日、御老中へ御暇を申して永吉(覚兼が地頭)へ赴いた。

二十二日
一、廿二日拙者此留守中ニ川上殿藺牟田地頭役
御措(さしおき)候由被仰出候通伊右衛門兵衛尉殿一人ニ而
仰つと目候由承候兩人此前使申候間其
首尾ニ承叓候
二十二日、拙者のこの(鹿児島)留守中に川上殿(上野介久隅)殿が藺牟田地頭役の御差し止めの件を仰せ出られた通り、伊右衛門兵衛尉(伊集院久治)殿が一人で仰せを務めたとのことを聞いた。二人(右衛門兵衛尉殿と拙者)が以前使い(取次)したので、その経緯で承ったのだった。

二十三日
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一、廿三日
二十三日
※日付のみで記述なし。

二十四日
一、廿四日此日午尅鹿児嶋へ着候従其平田
濃刕へ参候談儀所へ会尺候其座ニ参候
次ニ新田宮衆へ御異見候へ共無用候之
由承事候
二十四日、この日午の刻(昼頃)に鹿児島へ着いた。それから平田濃州(昌宗)(の所)へ参った。談儀所(大乗院盛久)へ挨拶して、その座に参加した。次に「新田宮衆へ御意見したが、無駄だった」とのことを聞いたのだった。

二十五日
一、廿五日御月次(つきなみ)御連衆(れんじゅ)ニ参候座は護广所
にて候    貴殿様不断光院御合候拙子
は五句仕候
二十五日、御月例の御連歌会に参加した。場所は護摩所であった。貴殿様(義久様)と不断光院も御参加だった。拙者は五句詠んだ。
※元は京都浄土宗不断光院の住持で、永禄五(1562)年に島津貴久が開山した鹿児島不断光院の開基・清誉のこと。連歌師としても著名。

二十六日
一、廿六日如常出仕申候新田宮衆口事之儀
御老中へ申候摂刕意釣伊太夫殿村越刕
平濃刕皆〻御揃候て御談合候當時
新田御柴中にて候間先〻此度は帰候て
柴過候て一途噯(あつかい)被成候する由申せと候
侭自前之使三人にて執印殿千儀坊へ
諏訪座主坊ニ如此之由申候頻ニ此度
事終候之様今被思候乍去向後御老中
二十六日、いつものように出仕した。新田宮衆の相論の件を御老中へ申した。摂州(喜入季久)、意釣(川上上野介忠克)、伊太夫(伊集院右衛門大夫忠棟)殿、村越州(村田経定)、平濃州(平田昌宗)が皆々御揃いで御談合があった。現在新田(宮衆)は御柴(柴刺神事)の最中であったので、とりあえず帰って、「柴が終わって(から)本腰を入れ(相論を)扱いなされる」とのことを申せというので、以前からの使いの三人で執印(河内守清友)殿と千儀坊(川幡氏)へ諏訪座主の坊でこの旨を申し(伝え)た。(二人は)しきりに「今回解決するように」思われていた(願われていた)。(二人からは)「しかしながら今後も御老中を

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頼可有身上ニ候之間兎角    御意次第候
扨柴過候ハゝ必〻一途事終候之様ニ頼候
由候安養院茂御異見共被成候自夫
御老中へ於村田殿人〻此由申候尤可然被申候
由候座主権執印へも此由明朝申せと候
頼みとする身の上ですので、とにかく御考え次第です。それでは柴が終われば必ずやしっかりと解決するように頼みます」とのことだった。安養院も御意見なされていた。それから御老中へ、村田(越前守経定)殿お歴々の人達のもとでこの顛末を申し(伝え)た。「そうするのがもっともだろうと申された」とのことだった。座主権執印へも「この旨を申せ」という。
※護国山大楽寺安養院。元は東福寺という。諏方神社の別当職。

一、此日従平佐地頭之為使大坊來候其趣
は入來院殿山田天辰田﨑進上候由承
及候平佐之事然〻之門なと不付候間
この日(二十六日)、平佐地頭(野村美作守秀綱)の使いとして大坊が来た。その用件は、「入来院殿が山田、天辰、田﨑を進上したとのことを聞き及びました。平佐についてはあれこれと門(かど。門割制)などが付いていないので、

城誘(こしらえ)普請なと難成候天辰田﨑を
平佐へ御付候へかし先〻誰人望候ハぬ内
にと候て被仰候
築城(あるいは修理)普請など(夫役を課すの)が困難です。天辰と田﨑を平佐へ御付けしていただけないでしょうか。先に誰かが望まない(要求されない)内に」といって仰せられた。

二十七日
一、廿七日䖝わろく候て出仕不申候昨日村田殿
にて平佐より之意趣御寄合中へ申候
今朝使僧同心にて殿中へ参候へと候
侭如其存候処䖝氣にて候間使僧斗
殿中へ参候へと申候て本田下野守殿へ
二十七日、腹の調子が悪くて出仕しなかった。昨日(二十六日)、村田(越前守経定)殿から平佐からの要請を御寄合中へ申し(伝え)た。今朝(二十七日)、「使僧(大坊)を連れ立って参れ」というので、そのように存じていた(そうしなければと思っていた)が腹痛であったので、「使僧だけで参ってくれ」と申して本田下野守(親貞)殿へ

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引付申候拙者忰者大坊之案内は申候
然共事聞得候ハん又大坊拙者を頼候由候間
同心申候て酉尅斗殿中へ着出候上使
江月斎今日御参會其時御出仕之
御老中衆皆〻御座候つる間披露申候
山田天辰田﨑之事別而御談合被成候
事候条難成候由返叓候
引き継いだ。拙者のかせ者(最下級の士分)が案内はした。しかしながら聞いてもらえなかったのだろう。また大坊は拙者を頼むとのことだったので、(拙者と)連れ立って酉の刻(18時頃)に殿中へ着き参上した。(足利義昭からの)上使の江月斎が今日御参会で、その時御出仕中の御老中達が皆々いらっしゃったので報告した。「山田、天辰、田﨑については別件(本田紀伊介に下す予定)で御談合なされている事であり、成しがたい」との返事だった。
※天正二(1574)年八月当時の義昭は織田信長によって京都を追放されて、紀伊国興国寺に逗留している。『上井覚兼日記』記録前の同年四月十四日に江月斎、一色藤長、真木島昭光が鹿児島に派遣されて「諸口調略」をしていた模様。

一、此日座主権執印返叓申候てかへし申候
この日(二十七日)、座主権執印に返事をして帰した。

二十八日
一、廿八日如常出仕候今日御能にて候支度申候て
日中祗候申候へと承候て罷帰候
二十八日、いつものように出仕した。今日は御能であった。「支度して日中に伺候せよ」と承って帰った。

二十九日
一、廿九日如常罷出候國分筑前守殿より
書状預候御老中へ懸御目候返叓申候へ
と候まゝやかて返書申候其趣は天満宮
御宝殿大破ニ罷成候哉殊御神躰雨露ニ
濡候由言語道断候乍去此莭如先〻
御寳殿作ハ成間敷候其故は新田宮
二十九日、いつものように出た(出仕した)。国分筑前守(定友。薩摩国分寺天満宮別当職)から書状を預かった。御老中へ御目に懸けた。「返事をせよ(返書を書け)」というので、あとで返書した。その内容は、「天満宮の御宝殿が大破となってしまったようですね…。特に御神体が雨露に濡れているとのことはとんでもなく酷いことです。しかしながらこのような時期に、優先して御宝殿を作ることは出来ません。その理由は新田宮を

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先より御企候へとも未事成候先〻茅葺
之御假殿可然候是程之儀は国分殿分
別斗にて可事成候由御老中より可申
旨候彼趣ニ返叓申候
以前から(造立する事を)御計画していましたが、未だ成就していません。とりあえずは茅葺きの御仮殿(を建てるの)が良いでしょう。この程度の件は国分殿の判断で済ませてください(進めて問題ありません)」とのことを御老中から「申す(返書する)ように」との旨だった。かの内容で返事(返書)した。


一、此日鎌田圖書助殿被申候此度新城江
罷越役所配申候今三十ケ所斗領候て候
猶〻移衆仰付候へと被申候次ニは向之嶋へ
材木被仰付候明日より三十日彼方
柴にて候其間は難成候殊ニすの板十枚
當申候一度ニは事成間敷候折〻ニつと目
可有之由候向嶋は是程之材木取候ハ皆〻
神木にて候下〻舩木なと取候ハそれ/\ニ
苦身を申候て社人ニ談合ニて候只ニ御材
木ニハ申なから取候する事思敷由候て向之嶋
之兩役人召列候由申候御老中御返叓
ニは新城移衆之事先札ニ委承候間
この日(二十九日)、鎌田図書助(出雲守政近。奏者。向島新城地頭)殿が申された。「今回新城(下大隅垂水新城)へ赴任し、役所(役職と所領)配りしました。現在三十ヶ所ほど領しています。より一層転属者を仰せ付けてください」と申された。次に、「向島(むこうのしま。桜島の古名)へ材木(調達の課役)を仰せ付けられています。明日から三十日先まで柴刺神事であり、その間は困難です。特にすの板十枚が宛たっています。一度には遂行出来ません。折々に上納するつもり」とのことだった。「向島は、これほどの材木を取っていますが、全て神木です。下々(の者たち)が船木などに取っているのは、それぞれに苦労をして社人に談合(相談)しています。単に御材木にとは申しながら取る事は難しく思われます」とのことで、「向島の両役人を連れて来ました」とのことを申した。御老中の御返事は、「新城転属者の事は、先に書状で詳しく承っているので

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談合㝡中之由次ニは向之嶋神木之叓
是又必神木を取せ候へと此方ゟ被仰付叓
なく候只嶋ニ懸候天役迄候山なき在所も
公役にて候間ケ様之儀つと目候如其所之分
別にて材木つと目候する迄にて候従
此方は無御存知之由候
談合最中であること。次に、向島の神木について、これはまた必ず神木を取らせよとこちらから仰せ付けられる事はない。ただ島に懸け(課し)ている天役でしかない。山の無い在所も公役であるのでこのような事(材木調達の課役)を務めている。そのような在所(も独自)の判断で材木(調達)を務めているだけである。こちらは御関知しない」とのことだった。

一、此日穝(禾+㝡)所新介殿伊右金吾へ御内儀と候て
青木江兵衛預所江移替に候伊集院へ即
被移候へかし大夫殿頼存候由候返叓ニは
可然様に候乍去御内儀ニ得    上意候て
追而可申由候
この日(二十九日)、税所新介(越前守篤和。奏者)殿が伊右金吾(伊集院右衛門兵衛尉久治)へ御内密にといって、「青木江兵衛の預所(所務代官)への異動があります。伊集院(現・日置市)へすぐに転属させられていただけないでしょうか。大夫(伊集院右衛門大夫忠棟)殿に頼みたいと思っています」とのことだった。(金吾からの)返事は、「そのようにしましょう。しかしながら御内密に(義久様の)上意を得て、追って申しましょう」とのことだった。

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