天正二年 九月一日 から十日 まで 玉里文庫『上井覚兼日記』 | うぃんどふぇざぁ

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九月一日
30/1243コマ 左側
一、九月一日如常出仕申候従和泉より瀬崎之
馬追被成候無尓之候へとも駒一疋進上之
由御申候同奥より先度人して御懇之
儀候態御礼被成候すれとも先〻乍次御礼
御申之由候使者ハ枩罡民部左衛門尉と申
九月一日、いつものように出仕した。出水(島津義虎)から瀬崎(瀬崎野牧、瀬崎馬牧)で馬追いをなされ、「最良の馬は無かったが駒一匹を進上する」とのことを御申しになった。同奥方(御平の方。島津義久の長女)から「先日人を遣わされて御懇ろの御挨拶を頂きました。改まって御礼なされるところですが、まずはここで御礼を御申しします」とのことだった。使者は松岡民部左衛門尉と申す
※瀬崎馬牧は、惟宗(島津)忠久が薩隅日三州守護に補任され、本田二郎(次郎)貞親(入道静観)が下向して現地の差配をした際に設置した。ちなみに忠久自身が薩摩に下向したことはない。

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人にて候頓而御返叓ハ瀬崎駒御進上候殊
一領之駒にて候涯分御秘蔵候ていかさま御参
上之砌可被御覧之由候同奥へ御返叓ハ
先日御小者衆御遣候其御礼被成候御慇
懃ニ被思召候殊ニいつれも御堅固之由候
是又御祝着之由候夫より使は御暇
被申候を御老中御用と候て此日ハ御留候
人であった。やがて(義久様からの)御返事は「瀬崎駒の御進上があった。格別な一領の駒であった。大事に御秘蔵して(おくので)、いつでも御参上の際に御覧じなされよ」とのことだった。同奥方への御返事は、「(義久様が)先日御小者衆を御遣し(御懇ろの御挨拶)、(今回奥方から)その御礼をなされ、(義久様は)御慇懃にお思いになられた。特にどなたも御健康とのことで、これまた御祝着」とのことだった。それから使い(松岡)は御暇申されたのを御老中が御用(がある)といって、この日は御留めになった。

二日
一、二日如常出仕申候平田石見守殿被申候
趣は子にて候隼人佐牛根へ召移候我〻
彼方へ可罷移候へとも彼身上も未然〻
候之間一月も二月も今の役所に罷居候
する御案内御老中へ被仰候此趣伊右平濃
村越御三人江申候兎角御返叓ハなく候
二日、いつものように出仕した。平田石見守殿(久木崎五郎左衛門の子。平田昌宗の許しを得て平田姓を名乗る)が申された。用件は「子である隼人佐が牛根へ転属し、我々もあちらへ移ろうと思うのですが、彼の身の上(準備などか)も未だあれこれありますので、一ヶ月や二ヶ月も今の役所(やくどころ)に留まりたい」御事情を御老中へ仰せられた。この件を伊右(伊集院右衛門大夫忠棟)、平濃(平田美濃守昌宗)、村越(村田越前守経定)の三人へ申した。何やかや(具体的な)御返事はなかった。

一、此日従和泉之使者枩罡民部左衛門殿御假屋へ
御老中御使として昨日留申事無別
儀候當时世間色〻雑説申散候就夫
この日(二日)、出水(島津義虎)からの使者松岡民部左衛門殿の御仮屋へ御老中の御使いとして「昨日留めた事に他意は無い。(ただ)現在世間が色々な雑説(野心、謀反の噂)を申し散らしている。それについて

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義虎連〻御心遣候由承文なとにて御申上候
其趣一ケ條可被仰叓候彼御使被承候
するや又斟酌被思候ハゝ後日誰にても
高城水引なと寄〻之人衆兩人斗御参
候へ其砌一ケ条可申之由御老中被仰候
彼人納得ニ而後日定而誰人歟可被参候由
申候て帰候拙者御使申候
義虎は常々(義久様に)御心遣いしているとのことを承り、(義虎から)文などでも御申し上げになっている。(昨日留めた)その理由は(御老中から)一件仰せられる事がある。かの御使い(あなた、松岡)は聞き入れるだろうか(聴取を受けるか)、また遠慮したいと思われるならば、後日誰でも(出水領の)高城、水引など近辺の(義虎の)家来を二人ほど御参りあれ。その際に一件を申し伝えよう」とのことを御老中が仰せられた。かの人(松岡)は納得して「後日必ず誰それか参られるでしょう」とのことを申して帰った。拙者が御使い(取次)した。

一、此日於殿中御弓之事根占殿企候就夫
この日、殿中で御弓の催事を禰寝(重長)殿が企画しており、それについて

豊刕御見物之由我朩にて被仰候御不例
氣之様候間可被措之由御申候
豊州(島津豊後守朝久。豊州家忠親の嫡子。北郷時久の弟)が御見物したいとのことを我などで(取り次がせて)(義久様に)仰せられた。(拙者からは)「(義久様は)御体調不良のようだったので留保しましょう」とのことを御申しした。

三日
一、三日如常出仕申候兵庫頭殿昨日御着にて候
三日、いつものように出仕した。兵庫頭(島津忠平、のち義弘。飯野地頭)殿が昨日(二日)(鹿児島へ)御着きであった。

四日
一、四日出仕不申候処御談合にて候参候へと承候て
未剋斗殿中へ着出候飯埜口御弓箭之御談
合にて候兵庫頭殿又ハ北鄕一雲之御存分を
然〻被聞召候ハんハと候て新納武刕鎌田
尾州本田野刕上原長刕彼衆御使被申候
四日、出仕せずにいたところ、「御談合である。参れ」と承って、未の刻(午後2時頃)くらいに殿中へ着いて出席した。飯野方面の御戦略の御談合であった。「兵庫頭(忠平)殿、または北郷一雲(時久)の御考えをあれこれお聞きになられなければ」といって新納武州(忠元)、鎌田尾州(政年)、本田野州(親貞)、上原長州(尚近)、かの衆が御使い(取次)された。

五日
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一、五日入來院殿より東鄕宗左衛門尉と云使者ニ而候
木練之柿有合候とて籠十進上候取成
申候て使者掛御目候然處御老中得御意候
分ハいつれの間より御目にかけ候する歟と申候
年始歳末八朔の使者ニは違(辵+麦)候程朝毎
之出仕上覧候其間より可然之由承候間
其分候処ニ已後ニ白濱二郎九郎殿以    上意
彼使者ハ中間にて候や如何之由御尋候
五日、入来院(重豊)殿から東郷宗左衛門尉と言う使者であった。「木練りの柿がありました」といって籠十個を進上した。(拙者が)取り成して(義久様は)使者を御目掛けした。そういうところで(御目掛けする前に)御老中の(に相談して)御考えを聞いた内容は、(拙者からは)「どの間(部屋)から(義久様が)御目懸けしましょうか」と申した。(御老中からは)「年始、歳末、八朔の使者とは違うのだから、(我々が)朝毎の出仕に(義久様が)上覧するその間(部屋)からが良いだろう」とのことを聞いたのでそのように対応したところ、そのあとに(義久様が)白浜二郎九郎(重綱。周防介重政の孫)殿を遣わして上意で「かの使者(宗左衛門尉)は中間(ちゅうげん。最下級の士分)であるのか。どうなのか」とのことを御尋ねした。

如前子細申上候又上意ニそれハ御老中
御失念にて候ハん國衆より之使ハいつれも
對面所之なけしより上にて御内ニかけ
候へと候
先のように子細(御老中に相談していた内容)を申し上げた。再度の上意には「それは御老中の御失念であろう。国衆からの使いは誰でも対面所の長押より上で(義久様の)御目に掛けよ」という。
※義久は「直臣である寄合中を上覧する部屋で」国衆入来院氏の使者・東郷宗左衛門尉と会った。その部屋は言わば社内用なので、そんな部屋で会ったというのは、その使者は余程身分が低い者なのかと訝しんで問いただした。結局のところ、国衆は島津家に従属しているとは言え直臣ではないのだから、社外向けの対面所でちゃんと対応するようにと義久から注意されている。

一、此日又御弓箭御談合ニ而候我〻も殿中へ
罷出御談合承候雱嶋之御鬮法第御弓
箭たるへき由相定候
この日(五日)、また御戦略の御談合であった。我々も殿中へ出仕し御談合に出席した。霧島神社の御籤次第の御戦略であるべきとのことを決定した。

六日
一、六日如常出仕申候此日上使江月斎御寄合
六日、いつものように出仕した。この日(六日)、(義久様が)(足利義昭からの)上使の江月斎との御寄合を

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被成候早〻殿中御座候へと之使ニは拙者
被遣候上使は頴姪假屋ニ宿候我ハ意
趣申候而頓而罷帰候殿中御門迄ハ頴姪
假屋閑月と申者案内者申候奏者ハ
伊地知勘解由左衛門尉御門迄出合被申候
殿中あまうち迄はかれ候それより唐戸
の御座之座より下之座ニ奏し被申候平
鴫居よりかミより上使ハ入候奏者ハ平鴫居
なされる。(江月斎に対して)早速殿中へいらっしゃれとの使いには拙者が遣わされた。上使は頴娃(左馬介久虎)の仮屋に宿泊していた。我は用件を申し伝えて、やがて帰った。殿中の御門までは頴娃仮屋の閑月と申す者が案内者をした。奏者は伊地知勘解由左衛門尉(重秀)が(務めて)御門まで出迎えられ、殿中の雨打ち(軒から落ちる雨垂れが当たる所)まで「はかれ」ていた。それから(勘解由左衛門尉が江月斎を)唐戸の御座の座(義久様の座)から下の座に促しなされた。平敷居より上手から上使は入った。奏者(勘解由左衛門尉)は平敷居
※「はかれ」ていたのは履物のようにも思われるが、誰であっても雨打際(つまり屋外)まで履物を履くだろうし、だとすればわざわざ記述するとも思いづらい。佩くとすれば太刀の可能性も考えられるか。

より下より被入候従夫對面所ニ而御寄合被
成候主居ハ    御屋形さま御次㐂入攝刕其次
平田濃州客居ハ上使其次橘院ニ而候御膳ハ
三め迄参候御引物程〻参候御酒三通にて
御湯参候御肴ハ度毎ニ参候御前御宮仕は
新納形部大輔本田紀伊守客之前ハ高崎
兵部少輔梅北宮内左衛門尉いつれも手長ハ無
御座候其外宮仕之衆伊地知勘解由河上源三郎
より下手から入られた。それから対面所で御寄合なされた。主居は御屋形(義久)様、御次に喜入摂州(季久)、その次に平田濃州(昌宗)。客居は上使(江月斎)、その次に橘院(橘陰軒、畠山頼国。長寿院盛淳の父)であった。御膳は三つ目まで出た。御引出物も様々出た。御酒は三巡で御湯が出た。御肴は都度に出た。御前(義久様)の御給仕は新納刑部大輔(忠堯。武蔵守忠元の子)、本田紀伊守(董親)。客の前は高崎兵部少輔(能賢)、梅北宮内左衛門尉(国兼。山田地頭)。どちらも手長(膳を次の間に持って行く給仕)はいらっしゃらなかった。その他の給仕の衆は伊地知勘解由(重秀)、川上源三郎(久辰。左近将監久朗の子。谷山地頭)

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上原太郎五郎伊集院源介拙者ニ而候已上此衆
迄にて候又あるむきニてんしん参候御肴御酒
勿論なから度〻に参候客人立処ハ御さう
めんにすへかへて御さかな参候其肴くたり候
ハぬ内に盃上候するとて宮仕持て出候処被
立候    貴殿様なけしの下迄ニ而御礼被成候
酉剋斗より戌时斗ニ御座終候
上原太郎五郎(尚演。筑前守尚氏の子)、伊集院源介(久春)、拙者であった。以上のこの衆だけであった。またあるむきに点心が出た。御肴、御酒はもちろんながら都度に出た。客人の側は御そうめんに据え替えて御肴が出た。その肴が下膳されない内に乾杯しようといって給仕が持って出てきたところ、(江月斎は)立たれた。貴殿(義久)様は長押の下までで御挨拶なされた。酉の刻(午後6時)から戌時(午後8時)くらいに御座は終わった。
※点心(てんじん)とは軽食、間食、おやつなどを指す。鎌倉時代に中国から禅宗と共に伝わった。当時は一日二食(朝夜)だったため、昼頃や午後に食べることがあった。

七日
一、七日如常出仕申候此日田布施御立願之
御能之儀ニ彼方へ御光儀急度可被成候御供
當候永𠮷祭礼ニて候程ニ御暇申候而罷越
直ニ田布施へ可参之由申候而永𠮷へ罷越候
七日、いつものように出仕した。この日(七日)、田布施の御立願の御能の催事に(義久様が)あちら(田布施)へ御来訪を急遽なされる御供に当たった。「(覚兼が地頭の)永吉も祭礼であるので御暇申して(永吉へ)赴き、直接田布施へ参るでしょう」とのことを申して永吉へ赴いた。

八日
一、八日此晩久多嶋へ参候御弊新作候間令頂戴
八日、この晩久多島神社へ参詣した。(神社が)御幣を新たに作ったので頂戴した。
※永吉の沖に浮かぶ久多島を遥拝するために建てられた。

九日
一、九日呼へ罷登𢈘一手火矢にて討候
九日、呼(?)へ登り、鹿一匹を手火矢で討った。
※「呼」は調べてもよく分からなかったが、狩猟に関する事と思われる。
※鉄砲も手火矢と呼ばれるが、他の火薬兵器(投擲弾やロケット弾のようなもの、石火矢、棒火矢など)を指す場合もあり、ここでは鉄砲を指すのかは不明。当時そのようなものがここにあったかは定かではないが、欧州ではハンドカノン、中国では火槍という鉄砲の原始的な形態の火器が数百年前から存在している。なお火槍は応仁の乱の頃に輸入されたが威力不足で使われなくなったという話もあるようだ。

一、十日
※日付のみで記述なし。


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