天正二年 九月十一日 から 二十日 まで 玉里文庫『上井覚兼日記』 | うぃんどふぇざぁ

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九月十一日
35/1243コマ 左側
一、十一日
※日付のみで記述なし。

十二日
一、十二日
※同上

十三日
36/1243コマ
一、十三日此日田布施へ参候而中途迄罷出候御
供申候
十三日、この日田布施へ向かって中途まで出掛け(義久様に)御供した。

十四日
一、十四日金蔵院へ御申にて候伊勢殿ハ院主之
次ニ御座候此日御能可有にて候つれ共雨降候て
御留候
十四日、(義久様は)金蔵院へ御祈願であった。伊勢(薩州家忠陽)殿は院主の次にいらっしゃった。この日(十四日)は御能の予定であったが、雨が降って御中止した。
※真言宗金峰山観音寺金蔵院。蔵王社(現・金峰神社)の別当寺。
※伊勢殿は薩州家島津伊勢守忠陽のこと。義虎の祖父忠興の弟興久の子。実久の従兄弟。義虎は足利義晴の偏諱を受け晴久を名乗り、義晴没後は陽久に改めた。忠陽もこれに倣った?
ちなみに島津家臣にも伊勢氏がいるが、彼らは当時有川姓を名乗っているので伊勢氏ではない。

十五日
一、十五日於金蔵院御能御成就にて候
十五日、金蔵院で御能が御成就であった。

十六日
一、十六日常珠寺へ御申にて候
十六日、常珠寺へ御祈願であった。
※太平山常珠寺。相州家菩提寺。

十七日
一、十七日鮫嶋土佐守殿子息元服にて候其次ニ
衆中之子又阿多加世田よりも餘多御目ニ
懸られ候
十七日、鮫島土佐守(宗豊。田布施地頭)殿の子息(又左衛門。のち田布施地頭)が元服であった。その次には(田布施の)衆中(寄子、寄騎)の子、また阿多、加世田からも数多(の元服した子たちを)(義久様は)御目に懸けられた。

十八日
一、十八日伊作湯江御出にて候
十八日、(義久様は)伊作の湯へ御出掛けであった。

十九日
一、十九日
※日付のみで記述なし。

二十日
一、二十日
※同上