天正二年 九月二十一日 から 三十日末日 まで 玉里文庫『上井覚兼日記』 | うぃんどふぇざぁ

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二十一日
36/1243コマ 左側
一、廿一日
日付のみで記述なし。

二十二日
一、廿二日永𠮷有嶋之道作直し候
二十二日、永𠮷(地頭は覚兼)の有島の道を作り直した。

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二十三日
一、廿三日鹿児嶋之ことく罷帰候
二十三日、鹿児島の方へ帰った。

二十四日
一、廿四日如常出仕申候新田宮執印殿より書状
預候其趣は先月よりの口事邊之事斎
礼過候間急度事行候之様ニと候て白濱周防介殿
伊集院源介殿拙者へと候て預候御老中へ
披露申候御談合被成急度可被仰候先〻
返叓ハ何となく仕候へと承候間不立入候之条
拙者一人書状として返叓申候
二十四日、いつものように出仕した。新田宮の執印(河内守清友)殿から書状を預かった。その内容は「先月からの(権執印座主との)相論などについて、祭礼(柴挿神事)が終わったので急ぎ解決するように」といって、白浜周防介(重政)殿、伊集院源介(久春)殿、拙者へといって(用件を)預かった。御老中へ報告した。(御老中が言うには)「御談合なされ、必ず仰せられる(裁定を出す)だろう。とりあえず返事は適当にせよ」と承ったので、(内容に深く)立ち入らないように拙者個人の書状として返事(返書)した。

二十五日
一、廿五日御月次御連衆ニ参候
二十五日、御月例の御連歌会に参加した。

二十六日
一、廿六日如常出仕申候野村美作守殿より之書状
之趣御老中江披露申候野添と寺田と
移候儀候又は先月以大坊承候雨辰名之事
にて候返書之躰濃刕右衛門太夫殿へ御目ニかけ
於殿中認召遣候
二十六日、いつものように出仕した。野村美作守(秀綱。平佐地頭)殿からの書状の用件を御老中へ報告した。野添と寺田とが転属する件、また先月に大坊(平佐地頭・野村美作守秀綱の使者)から承った天辰名についてであった。返書する内容を濃州(平田昌宗)、右衛門大夫(伊集院忠棟)殿へ御目に懸け、殿中でしたため遣わした。

一、此日従和泉使者にて候伊勢守殿指宿
周防介知織弾正忠彼三人假屋へ御寄合
この日(二十六日)、和泉(出水、薩州家義虎)からの使者である伊勢守(薩州家忠陽)殿、指宿周防介、知織(識)弾正忠、かの三人の仮屋へ御寄合

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中為使本田若刕伊地知勘解由拙者三人
被遣候意趣は當时世間雑説共申散候殊ニ
去月始之比㐂入久屋斎此方へ被罷越候
其砌承叓ニ彼雑説中書様御前より
被仰儀候間急度義虎串木埜へ御越候而
可被仰開候若又不可被仰開候ハゝ其时御身
上可被相終之由候通彼久屋斎㐂入摂刕へ
被申候間本若刕以中書様へ此由御事問共候
中の使いとして、本田若州(親豊)、伊地知勘解由(重秀)、拙者の三人を遣わされた。(寄合中からの)用件は「現在、世間が(薩州家の)雑説(野心や謀反の噂)などを申し散らしている。特に先月の初めの頃、喜入久屋斎がこちらへやって来た。その際に聞いた事に、(久屋斎が言うには)「かの雑説は中書(家久)様から仰せられた話であるから、急ぎ義虎は串木野(地頭は家久。隈之城地頭も兼務)へお越しになって仰せ開かれる(弁明される)べきだ。もしまた仰せ開かれないならば、その時は(義虎の)御身上は終えられるだろう」とのことの話をかの久屋斎は喜入摂州(季久)へ申されたので、本若州(本田親豊)を遣わして中書(家久)様へこの件を御諮問などした。

貴殿様より被仰候つる通又ハ中書少茂彼
儀無御存知通直ニ和泉之使者へ物語候
勢州御返叓にハ少茂如此之校量於山北不
承候間同心之人衆を帰候而義虎之御分別
又ハ久屋之分別承候する之由御返叓候
其外高城東鄕堺之雜説色〻我〻
三人へ物語被成候
(家久様からは)「(この雑説は)貴殿(義久)様から(家久に)仰せられている(聞かされている)話(であり)、また中書(家久)は少しもかの話を御存知していない旨」」を直接和泉(出水)の使者へ物語った。勢州(薩州家忠陽)の御返事は「少しもこのような推量(雑説のこと)は山北(冠岳より北側の川内平野)で聞いていないので、連れて来ている家来を帰して義虎の御考えを、また久屋の考えを聞きたい」という御返事だった。そのほか高城(たき。義虎領)、東郷の境の雑説を色々と我々三人へ物語りなされた。

二十七日
一、廿七日如常出仕申候和泉使者御返叓
二十七日、いつものように出仕した。和泉(出水)の使者の御返事

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之通可達    上聞存候処伊地知勘もし
河上殿奏者被申候而    御前江被参候
其时直ニ御尋之間勘もし一人にて勢刕
之意趣又ハ御老中より被仰たる儀委被
申候従夫又右之三人和泉假屋へ被遣候其
意趣は此度久屋斎被申候処使之御存
分ニ不参候哉就其勢州御同心之人衆を如
山北被帰候て義虎之御分別可被聞せ御分
の内容を(義久様の)お耳に入れなければと思っていたところ、(拙者が報告する前に)伊地知勘文字(勘解由左衛門尉重秀)、川上(上野介忠克か?)殿が奏者をされていて、御前(義久様)(のもと)へ参られていた。その時に(義久様が伊地知勘文字にその件を)直接御尋ねになったので勘文字一人で勢州(薩州家忠陽)の意向を、また御老中から仰せられた話を詳しく申された。それから(義久様は)またこの三人を和泉(出水)の仮屋へ遣わされた。その用件は(勢州へ)「今回久屋斎が申された話は、使いの(勢州の)御考えと合わないのか。それについて勢州(あなた)は連れて来ている家来を山北の方へ帰らせて義虎の御考えを聞かせられよう(聞こう)との御判

別候哉尤令存候兎角御進退法第ニ候次ニハ
ケ様ニ度〻雑説之事御申上候何たる事を義虎
御思被成又ハ何たる御逆心之由を御構候なとゝ申
散候哉未此方へハ不通候和泉之人衆と申事ニ候か
又は御家景(量)中より申事ニ候歟誰人何名
字之者何たる色を申候と御申候へと被仰候其
时勢州御返叓にハ昨日ハ久屋斎一ケ条被
申斗にて候つる間同心之衆一人帰候而委山
断か。もっともなことだと思う。とにかく(話を進めるには義虎の)御進退次第だ。次に、このように度々雑説について(家中の人々が)御申し上げになっている(取り沙汰されている)。「何たる事を義虎はお思いなされ」また「何たる御逆心のことを御構えになる」などと申し散らしているのか、(具体的には)未だこちらへは(正確に)伝え聞いていない。または(出水の)御家中から申している事なのか。どの人、何名字の者が何というようなことを申していると御申しせよ」と仰せられた。その時の勢州の御返事では「昨日は久屋斎が一件を申されただけであったので、連れて来ている家来の一人を帰して詳しく山(山北)
※「景」は姓の意。「家景」は家中、家来衆を指す。「量」と追記してあるが「景」のままで問題ない。

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之様可承合由申候ツ又被仰叓候間三人
同前ニ帰有へき由此通やかて平田濃刕へ
候兎角今日ハ逗留候而明日    御屋形さま
懸御目御退出候得と内衆ニ而被仰候
の状況を聞き取りたい」とのことを申したのだった。また(御老中が)仰せられた件(誰が雑説を流しているのか)もあるので三人(勢州、指宿周防介、知識弾正忠)揃って(和泉へ)帰りたい」とのこと、この旨をあとで平田濃州へ伝えた。「とにかく今日は逗留して、明日御屋形(義久)様の御目に懸かり御退出せよ」と家人を遣わして仰せられた。

一、此日和泉使者之宿へ本若刕伊地知又八殿
拙者御酒持せ礼申候其时拙者へ勢刕被仰候其
趣は東鄕と高城と相論候氣しかり畠地之
事此前指宿周防介にて此方へ御申候其时御使
この日(二十七日)、和泉(出水)の使者の宿へ本若州(本田親豊)、伊地知又八(勘解由左衛門尉重元。重秀の子)殿、拙者は御酒を持って挨拶した。その時拙者へ勢州が仰せられた。その内容は「東郷と高城(たき)とで相論がある。けしかり(花熟里)の畠地について、以前指宿周防介を遣わしてこちら(鹿児島)へ御申しし(訴え)た。」その時は御使い(取次)
※「氣しかり」は「花熟里(けじゅくり)」に比定されている。

を伊勘もし拙者申候其筋ニ候て承叓候
防刕ニ而御申之时従此方御返叓に彼氣し
かりの叓左右方聞召合候する程ニいつかたへも
つけ有ましき由候ツ然處従東鄕麻をさ
せられ候勢刕前より尋候ヘハ東鄕より御返叓に
少も鹿児嶋抔へ伺御意如此ニてハなく候
下〻職任に如此之由返叓候さてハと高城より
おふされ候ヘハ悉苅納候是ハ可然人衆
を伊勘文字(伊地知勘解由重秀)、拙者がした。その経緯で承ったのだった。(勢州が言うには)「防州(指宿周防介)を通して御申し(訴えた)の時、こちら(鹿児島)からの御返事でけしかり(花熟里)について、双方にお聞き合わせするのでどちらへも付けることはない」とのことだった。そうであるところに、東郷から(けしかりに)麻を植えられた。勢州の側から(東郷へ)尋ねる(詰問)すると、東郷からの御返事は「全くもって鹿児島などへ御裁可を伺って(主導して)このように(しているの)ではない。下々(の者たち)の職分で(勝手に)このように(植えた)」との返事だった。それならばと高城(義虎領)から麻を植えられたところ、(高城側が植えた麻を東郷側が)ことごとく刈り納めた。これはそれなりの家来を
※「おふされ」は漢字で書くと「麻生され」。

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拵候て之事に候ハん下〻きまかせニて候ハゝ納候
する処をとゝめ候するか如此取納候は東鄕よりおしかゝりてさせられたる迄候ケ様ニ候ヘハ義虎
外聞御失候由候兎角急度何方へか御つけ
候ハんハにて候由候頓而此分御老中へ申入候追而
東鄕之様躰聞召合返事可被成由候
準備しての事であろう。(刈り納めているのが)下々の気任せであるならば、納めようとするところを止めるが(それを止めることも出来ようが)、(東郷側が家来を派遣して)このように取り納めるのは、東郷から押し掛かってさせられるばかりだ(東郷からやられる一方だ)。このようであるので義虎は外聞を御失いになった」とのことだった。「とにかく急ぎどちらへか(氣しかりを)御付けしなければならないのだ」とのことだった。あとでこの旨を御老中へ申し入れた。「追って東郷の事情をお聞き合わせ、返事なさるだろう」とのことだった。

二十八日
一、廿八日如常出仕申候此朝従天草之使僧来
迎寺被懸御目候天草殿より進上物
御太刀一腰厚板物二端馬代三百疋進上候使
僧私之進物中折三束御扇一本と見へ候
二十八日、いつものように出仕した。この朝、天草(鎮尚)の使僧・来迎寺(らいこうじ)が御目に懸けられた。天草殿からの進上物、御太刀一腰、厚板物二端、馬代三百疋を進上した。使僧個人の進物は中折三束、御扇一本と見受けた。
※彌陀山来迎寺(いちき串木野市)。曹洞宗竜雲寺の末寺。元は市来氏の菩提寺であったが市来氏の没落と同時に廃寺となった。寺領は竜雲寺のものとなり、のちに島津氏領となる。天文十七年三月一日、島津貴久は竜雲寺八世雲舟玄済和尚に寺領を返還し、来迎寺を再興する。雲舟和尚は弘治元年十月二十日に示寂している。

一、此日和泉使者之宿へ伊勘もし拙者為使被
遣候其趣ハ當时和泉と天草儀絶之事然
處天草之使僧此方へ取成申候処寄合中
如何ニ存叓候雖然弓箭なと之行にてハなく候
先代大岳さまより已來御當家へ深重(ジンジウ)ニ申
上候其後聊中絶候従爰〻如先例言上可
この日(二十八日)、和泉(出水)の使者の宿へ伊勘文字(伊地知勘解由左衛門尉重秀)、拙者は使いとして遣わされた。その用件は「現在和泉(薩州家義虎)と天草の義絶(断交)について、そのようなところに天草の使僧がこちら(鹿児島)へ取り成しを申した(願い出た)ところ、寄合中はどうしたものかと思っている。そうはいっても(天草と和泉の間で現在のところ)合戦などの軍事行動(があるわけ)ではない。(天草からは)「先代の大岳(貴久)様より以来、御当家へ深く重ねて申し上げて(交誼を結んで)いた。その後少し中絶していた。今ここから先例のように言上(親交)するのが
※「行」は「てだて」と読んで「軍事行動」を意味する。
※薩州家島津義虎は永禄八(1565)年、天草五人衆の抗争に介入して天草の長島に出兵していた。

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有之由新納武刕迄長文ニ而被申候其上
御老中迄之書状彼兩通勢州御披見候へと候て
被持せ候軈而拙者談候て和泉之使者聞せ申候
彼状写候するとてかりやへ留候御存分法第之由
申候次ニハ天草と和泉和平之儀従義虎
はいつかたにても候へ少所領をは渡候ハゝ無事可
有之由候彼使僧へ新武州前より尋候ヘハ其
儀は成間敷由被申候雖然涯分義虎御存
望ましい」とのことを新納武州(忠元)に宛てて長文で申された。更に御老中への書状、かの二通を勢州(薩州家忠陽)に御披見せよ」というので(拙者に)持たせられた。あとで拙者は会談して和泉(出水)の使者(勢州)に(この話を)聞かせた。(勢州は)かの書状を写すといって仮屋へ留まった。(拙者からは)「御判断に任せる(その通りにして構わない)」とのことを申した。次に、(勢州が言うには)天草と和泉の和平について、義虎からは「どこでも良いが、少し(天草の)所領を渡せば和平出来るだろう」とのことだった。かの(天草の)使僧(来迎寺)へ新武州(忠元)から(この話)を尋ねると、「その件は出来ない」とのことを申された。「そうはいっても出来る限り義虎の御意

分彼来迎寺へ可被仰由勢州へ兩人にて被仰候
勢刕御返叓ニ御慇懃之承叓忝由候
向を、かの来迎寺へ(聞き入れるように)仰せられるだろう」とのことを勢州へ(新武州と拙者の)二人で(寄合中から)仰せられた。勢州の御返事は「御丁寧な取次、かたじけない」とのことだった。

二十九日
一、廿九日如常出仕申候伊地知式部太輔殿より
同名源左衛門尉濱田主馬是(首)兩人にて御申上候
趣は高橋一所ニ被下拝領候所領朩賢き
所にて候海邊抔候て諸叓下〻迄住能所にて候
然共山無挌護之間殿中之材木又ハ普請具
なと當候时不自由候頃傳承候ヘハ入來院山田
二十九日、いつものように出仕した。伊地知式部大輔(式部少輔重成。周防守重興の従兄弟)殿から同名の(伊地知)源左衛門尉、浜田主馬、この二人でもって御申し上げ(陳情)があった。内容は「高橋を一所として下され、拝領した所領などは立派な所です。海辺などがあって、様々な面で下々に至るまで住み良い所です。しかしながら山が無く領有しているので、殿中の材木あるいは普請材など(の調達)を宛てがわれた時に不自由しています。近頃伝え聞いたのですが、入来院が山田を
※主馬寮の長官は「首」ではなく「頭」。「是」のままでも後ろの「兩人」に掛かって「この両人」と読めるので、そもそも誤字ではない可能性も。
※島津日新斎から田布施の内の高橋を与えられている。

43/1243コマ
上候由聞得候彼方田数高橋へ相應之所ニ而
候程ニ召替候て被下候へかし国境にて候ニ若輩
不似合申事ニて候へ共餘山なく候ヘハ諸篇不
自由候由御老中迄御申候伊太夫殿意釣
平濃村越此御衆へ申候達    上聞候へと承候
間頓而申上候御返叓ニは當座兎角可被
仰出事なく候急度御談合可有之間其
时出合候ハんハにて候自然御為ニ可成事にもや
候ハんと    上意候其次ニ此度右馬頭殿御参上
にて御談合候ハゝ伊集院美作守宮原筑前守
兩人御談合ニ被参候へと申候与    上意候まゝ
即伊右衛門大夫殿にていつれへも申入候頓而御老中
書状認候て兩人へ被遣候此日春山へ呼ニ御供申候
進上したとのことを耳にしました。あちらの田数は高橋に相応しい所ですので、所属替えして下されては頂けないでしょうか。国境であるので若輩(の私)には不釣り合いな事ですが、(高橋は)あまり山が無いので色々不自由なのです」とのことを御老中まで御申し(陳情)した。伊大夫(伊集院右衛門大夫忠棟)殿、意釣(川上上野介忠克)、平濃(平田美濃守昌宗)、村越(村田越前守経定)、この方々へ申し(伝え)た。(義久様の)お耳に入れよと承ったので、あとで申し上げた。(義久様からの)御返事は「今のところはあれこれと仰せ出る話はない(具体的な考えはない)。急ぎ御談合するべきで、その時に(議題に)出さなければならない。もしかしたら(式部大輔殿の)御為になる(都合の良い裁定が出る)かもしれない」との上意だった。その次に、今回右馬頭(島津以久。忠将の子。帖佐領主。清水城主)殿が御参上での御談合があったので、伊集院美作守(久宣)、宮原筑前守(景種。太郎左衛門景次の子)の二人は御談合に参加されよと申したとの上意に沿って、すぐに伊右衛門大夫(伊集院忠棟)殿によってどちらにも(双方に)申し入れた。あとで御老中が書状をしたためて二人へ遣わされた。この日(二十九日)、春山(鹿児島市春山町)での「呼」に御供した。

三十日
一、丗日春山御狩にて其夜御供申罷帰候
三十日、春山の御狩りで、その夜に御供して帰った。

(一巻終わり)

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