天正二年 十月十一日 から 二十日 まで 玉里文庫『上井覚兼日記』 | うぃんどふぇざぁ

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『天正二年 十月一日 から 十日 まで 玉里文庫『上井覚兼日記』』【上井覚兼日記】base1.nijl.ac.jp『天正二年 九月二十一日 から 三十日末日 まで 玉里文庫『上井覚兼日記』』【上井覚兼日記】base1.nij…リンクameblo.jp

 

 

十月上旬の記事はこちら↑

 

十月十一日

57/1243コマ左側

一、十一日此日法花千部御成就候此朝真幸へ御返

叓申候意趣は鎌田尾刕光明坊被申事

色〻區〻(まちまち)候之間可被仰子細無是候然共

新納刑部太輔宮原筑前守今日被罷帰候

条以其次尾刕光明坊之分別委被聞召

候而追而御返事可有候同御状之御返叓

十一日、この日法華千部会が御成就となった。この朝、真幸院(兵庫頭忠平様)へ御返事した。内容は「鎌田尾州(政年。忠平御使役)、光明坊が申す事は色々とまちまちだったので、(義久様が)仰せられるような詳細はありません。しかしながら、新納刑部大輔(忠堯。武蔵守忠元の子)、宮原筑前守(景種)が今日帰られるので、(彼らを待って)その次に(それから)尾州、光明坊の考えを(義久様が)詳しくお聞きになられて、追って御返事があるでしょう。同じく(兵庫頭様の)御状の御返事は

 

58/1243コマ

是又ケ様之処被聞召追而御返礼可有之由候也

これまた、(義久様が)このような話をお聞きになり、追って御返礼があるでしょう」というものだった。

 

一、此日意釣にて夢想連哥候其連衆(レンジュ)にて候也

この日(十一日)、意釣(川上忠克)(の所)で夢想連歌会があった。(拙者も)その連衆(連歌会参加者)であった。

※夢想連歌は、夢で歌や句を得た時にそれを神仏のお告げだとして奉謝する連歌。

 

一、此朝二階堂三郎次郎殿へ御老中(おとな)より申せ

にて候貴所役所の事穝(禾+㝡)所殿へ尋申候ヘハ如此

被申候不紛土橋殿役所明合候二三人望之

方候其内二階堂殿先ニ而候間去五日以面

談合申事にハ越前ハ八日之日此方へ伺候可

申候其砌同前ニ御老中へ可申由申候

この(十一日)朝、二階堂三郎次郎(安房介の子か)殿へ、御老中から「申せ」(伝えよという取次)であった。「貴所の役所について、税所(越前守篤辰か)殿へ尋ねるとこのように申された。「間違いなく土橋殿は役所を明け渡した。二、三人(転属を)望む場所がある。そのうち二階堂殿が先であったので、先日五日、対面して談合した事は、「越前(税所篤辰か)は(来たる)八日の日にこちら(鹿児島)へ伺候するつもりだ。その際(二階堂殿と)共に御老中へ申そう」とのことだった。

 

然處ニ二階堂殿六日の日御参被成候而御老中へ

直ニ御申候歟七日ニ越前ニ承事ニ彼役所被

下由候知行被成候する旨承候尤於御給候は

可然之由申候扨社㝡前ニ約束申候処を違(辵+麦)

背候而地頭を措直ニ御申取候叓越前納得

申さぬよし候彼役所之事二階堂とのへ可

預叓ハ越前得心不申候何ケ度も御侘可

申由候此旨二階堂殿へ申候ヘハ不紛さ様にて候

そうだったところに、二階堂殿は六日の日に(鹿児島へ)御越しなされて、御老中へ直接御申しになったのだろうか。七日に越前から聞いた事には「かの役所を下されるとのことであり、知行(宛行)なされるとの旨を聞いていた。もっとも、御頂戴することについては良いこと」とのことを申した。「一方で社?は以前に約束したところを違背して、地頭を差し置き、直接御老中へ御申し出をした事に越前(税所篤辰か)は御納得できない」とのことだった。「かの役所について、二階堂殿へ預けようとする事は越前(税所篤辰か)は納得できない。何度でも御嘆願する」」とのことだった。この旨を二階堂殿へ申すと、「間違いなくその通りです。

 

59/1243コマ

乍去度〻地頭ニ申候得共無尓〻候殊千部會

給仕与風参候侭無何と申上候由候也

しかしながら、度々地頭に申したのですがとうとう(沙汰が)無かったのです。そのうえで(鹿児島での)千部会の給仕役(の命令)がふと参ったため、(ついでに)何となく(御老中へ)申し上げました」とのことだった。

 

十二日

一、十二日如常出仕申候此朝高江大泉坊之

弟子中納言公御目ニかけ候百疋進上候并

大学坊是も御目ニかけ申候中紙三束進上候

十二日、いつものように出仕した。この朝、高江(薩摩川内市)の大泉坊の弟子を中納言公の御目に懸けた。(銅銭)百疋を進上し、あわせて大学坊も(中納言公の)御目に懸けた。中紙三束を進上した。

※天正二年当時の権中納言(南北朝以来中納言は権官のみ)は飛鳥井雅教、庭田重保、葉室頼房の三人が該当する。おそらく蹴鞠の伝授と思われる。

 

一、此朝自入來の返状御老中へ御目ニかけ候

この(十二日)朝、入来からの返状を御老中へ御目に懸けた。

 

一、此日就御狩之儀御暇給候て永𠮷へ可被越ニ候

従夫留候

この日(十二日)、(義久様の)御狩りの件について、御暇を給わって永吉(日置市吹上町永吉。地頭は覚兼)へ赴かれなければならなかった。それから(永吉に)留まった。

 

一、此日村尾兵部少輔拙宿へ召寄山田之田数

書付糺候四十三町七反浮免候寺社家ニ十

町斗候不尓〻は不存候由候也畠地是又

各少〻宛(づつ)挌護申候乍去程を不存由被

申候門(かど)は十候屋敷九候

この日(十二日)、村尾兵部少輔(入来院家臣)を拙宿へ呼び寄せ、山田(薩摩川内市東郷町山田)の田数の書付(について)を問いただした。(拙者からは)「四十三町七反が浮免だ。寺社家領に十町ほどある。不尓〻」は存じない」とのことを伝えた。(兵部少輔が言うには)「畠地をこれまたおのおの少しずつ領有しています。しかしながらどれほどなのかを存じない」とのことを申された。門(かど)は十あり、屋敷は九ある(という)。

※浮免とは、元来は免田の一種を指し、課役地を固定せず面積のみで定め、場所が浮動するため浮免という。薩摩藩においては、郷士への給田の一種で、武士が自作自収し課役を免ぜられた土地。戦国期の島津氏の浮免も後者と同じようなものと思われる。

※「不尓〻」が具体的に何を意味するのか不明。

 

一、此日埜村美作守殿鎌田外記殿御用之由候て

被召候間祗候之由候也夫より平田殿にて

請合候山田新介殿も被参候拙者ハ伊作御狩ニ

この日(十二日)、野村美作守(秀綱。平佐地頭)殿、鎌田外記(政心。百次地頭)殿が(義久様が)御用があるといって呼ばれたので、伺候したとのことだ。それから(二人の取次は)平田(美濃守昌宗。老中)殿で請け合った(平田殿が担当した)。山田新介(有信。高江地頭)殿も参られていた。拙者は(義久様の)伊作(での)御狩りに

 

60/1243コマ

明日罷立候する程に彼地頭達之分別ハ白濱

防刕にて可聞有に相定候

明日出発するので、かの地頭達の意向は白浜防州(重政。御使役)で聞くよう(防州が聞き取りするよう)に決定した。

 

一、此日二階堂殿就役所地頭弓の懸引拙者ニ

物語候彼口を御老中へ直ニ可申入候由越前守殿へ

届候由承候也

この日(十二日)、二階堂殿が役所地頭の相論対応について拙者に物語った。(二階堂殿が言うには)「かの(二階堂殿の)言い分を御老中へ直接申し入れるつもり」とのことを(二階堂殿が)「越前守(税所篤辰か)殿へ申し届けた」とのことを聞いた。

 

十三日

一、十三日伊作就御狩之儀早朝永𠮷へ越候

十三日、伊作(日置市吹上町)の御狩りの件について、早朝に永吉へ赴いた。

 

十四日

一、十四日御狩ニ而候三窪へ参候而其夜ハ留候

十四日、御狩りであった。三窪(日置市吹上町与倉三窪)へ赴いてその夜は(三窪に)留まった。

※伊作城から伊作川を遡って行った所にある。

 

十五日

一、十五日此朝永𠮷へ帰候

十五日、この朝に永吉へ帰った。

 

十六日

一、十六日又御狩ニ而候間早旦三窪へ参候直ニ

御供申如𢈘児嶋罷帰候猪𢈘二日之御狩に

廿九まろひ候

十六日、また御狩りであったので、早朝に三窪へ参った。すぐに御供し、鹿児島の方へ帰った。猪、鹿を二日間の御狩りで二十九「まろひ」した。

 

十七日

一、十七日如常出仕申候川内寄之地頭鎌外埜

美山新隈城地頭笑翁斎代として枩本

雅楽助さ被参候此衆へ新田宮口事之儀

御尋候被申事ニ兎角我〻通可申無子細候

乍去出合ニ存事にハ権執印一人召寄候て

十七日、いつものように出仕した。川内近辺の地頭の鎌外(鎌田政心。百次地頭)、野美(野村秀綱。平佐地頭)、山新(山田有信。高江地頭)、隈之城地頭の咲翁斎(比志島宮内少輔国真)の代理として松本雅楽助が参られた。この人達へ新田宮の相論の件を御尋ねした。(彼らが)申される事には、「あれこれと我々などが申すような意見はありません。しかしながら(せっかく我々が)出向き(出向いたので)考える事に(考えた意見)は、権執印一人を呼び寄せて、

※百次、平佐、高江、隈之城、新田宮は全て現在の薩摩川内市内にある。

 

61/1243コマ

此方御奉公別儀有間敷由談儀所を頼

存真判なとにて深甚(ジンジン)に被申候歟其筋にて候

程に彼人召寄養子之事を被仰取候ハゝ若は

余人も分別歟候すらんと被申候自其此由

白濱周防介拙者兩人にて達    上聞候

御意ニ其為に彼地頭之被召寄候上は其

分ニ可然之由候次ニ被仰叓ニ此通ニ儀をさのミ

上意まてにて候ハすとも御老中御分別

「こちら(島津家)への御奉公に差し障りがあってはならない」とのことを談儀所に頼んで真判などで深く申される(申し聞かせる)のはどうでしょうか。その方向(手法)でもって、かの人(執印河内守清友)を呼び寄せ養子についてを仰せられ(許可して)、(執印殿が養子に)取れば、もしくは他の人々も納得するのではないでしょうか」と申された。それからこの話を白浜周防介(重政。御使役)、拙者の両人で(義久様の)お耳に入れた。(義久様の)御意には、「そのためにかの(川内近辺の)地頭を呼び寄せられた以上は(意見を聞いたのならば)、その方針で良いだろう」とのことだった。次に仰せられた事には、「この旨の案件を(義久様の)上意まで挙げなくても、御老中の御判断に

※義久は御老中の相論対応のやり方にイライラしている。対応の内容にではなく、義久に判断を仰いだことが許せないようだ。相論解決の内容や結果がどうあれ誰かしらの不満が出るが、御老中が上意を伺うことで最終判断が義久になってしまう。つまり不満や恨みが義久に向くようなやり方がダメだと言っている。

 

 

次第の由也此前彼口事人ニ寄合中申

させられ候処も無御納心候其謂ハ彼口叓之

儀達    上聞候ハゝ何とそ御噯可有候左候ハゝ

左右方為にならぬ儀候可有候程に意見

申候通申させられ候叓破に罷成候する

事ハ寄合中ハ無存    御前之御分別迄

候之有やうに候爰以無御納心由    御意候也従

其権執印へ枩本雅楽助さを被遣候意趣は

任せる」とのことだ。以前、かの相論を人によって(人を遣わして)寄合中が(義久様に)申されられ(上意を伺った)ことも(義久様は)御納得なかった。その原因は、「かの相論の件を(義久様の)お耳に入れれば、なんとか対応するだろう。そうすればどちら(執印殿と権執印)のためにもならない結果になるだろうから、(地頭達が)意見した内容を(権執印に)申させられる(申し入れる)対応が(もし)破談(失敗)になる事は、「寄合中は関知せず、御前(義久様)の御判断だ」という形になる。これが御納得できない」とのことだった。(義久様の)おっしゃる通りだ。それから権執印へ松本雅楽助(比志島咲翁斎の代理)を遣わされた。用件は

 

 

62/1243コマ

防刕拙者兩人ニ而申候御老中用段之儀候

急度御参候へ其砌今度之就口事執印殿と

千儀房是ハ同心ニ候座主権執印へ同心之人衆

誰〻にて哉書立持参候へと之由候也

防州(白浜重政。御使役)、拙者の両人で申した。「御老中から御用件がある。急ぎ御参りあれ。その際今回の相論について、執印(河内守清友)殿と千儀坊(川幡氏)は同意見(養子賛成)である。座主権執印に同意見(養子反対)の人達は誰々であるか、書いて持参せよ」という伝言だった。

 

一、此日山田新介殿御老中へ御申候意趣ハ高江

被居候有馬名字之人瀬戸口名字之人何

方へも移望之由候頼存候次ニはいとこにて候山田

弥七郎去六月懸御目候然は従其已前ニも

この日(十七日)、山田新介(有信。高江地頭)殿が御老中へ御申しした。内容は、「高江に居られる有馬名字の人、瀬戸口名字の人が「何処へでも(何処でも良いので)転属を望む」と言っています。頼みます。次に、従兄弟である山田弥七郎を去る六月に(義久様の)御目に懸けました。そして、それより以前に

 

かさわつらひ候时伯女之立願に山伏ニなし候する

由候それを油断にて俗躰ニ而御目ニかけ候頃又

以之外不例氣之従御彦山臥ニなられさる

御たゝり之由申候へん/\の申事ニ候得共こゝ

より山伏になし候する如何之由候次ニハ川邊ニ被居候

有田方高江に可被召移に相定候川邊ニ

所領懸持にて候諸叓難成候高江に加世田之

順阿弥懸持之門町三反之候是をかせ田よりハ

瘡患いした時、伯母の立願で(弥七郎を)山伏にするとのことでした。それを不注意で俗体(まだ山伏になってないまま)で(義久様の)御目に懸けました。近頃また甚だ具合が悪くなり、「御彦山(ひこさん)からの山伏にならなかった御祟り」とのことを申しています。繰り返しの申し出になりますが、今から山伏にするのは如何でしょうか」とのことだった。次に、「川辺(南九州市川辺町)に居られる有田方が高江(薩摩川内市高江)に転属されることに決まりました。川辺に所領を掛け持ちしています。色々と面倒です。高江に加世田(南さつま市加世田)の順阿弥が掛け持ちの門、町が三反あります。これを、加世田よりは

※出来物、腫れ物。あるいは梅毒。

※「英彦山」は福岡県と大分県の境にある修験山。当時は「彦山」と書いており、「英彦山」となったのは江戸時代中期のこと。

 ※恐らく「猿渡順阿弥」のことと思われる。越中守信光の五弟。猿渡一族は加世田に知行しており、順阿弥も日新斎の時に加世田に居住し知行していた。のちに戦死する四兄・与市左衛門信資の跡を継ぐために還俗することになる。


63/1243コマ

河邊より/\に候之間召替候て可然之由候

御老中より御返事にハ兩人移之事ハいつれも

此度川内之人衆を不被召移候其如之由候

次ニ弥七郎殿事是又寔ニへん/\の御申

事ニ候次ニ付可被達    上聞候而返叓可有之由候也

次有田方懸持之叓是又已後ハ御申之ことく

や成候ハんすらん兎角追而返叓可有之由候也

川辺近辺にありますので、所属替えしてほしい」とのことだった。御老中からの御返事には、「両人の転属については、どちらも今回川内の家来衆を転属されない」。そのような旨だった。次に、「弥七郎殿については、これもまた繰り返し御申しの事である。次に(のちに)(義久様の)お耳に入れられるだろうから、(追って)返事があるだろう」とのことだった。

 

一、同日鎌田外記殿御申候此前百次地頭職被仰砌

同日(十七日)、鎌田外記(政心。百次地頭)殿が御申しした。以前、百次地頭職を仰せられた(命じられた)際、

 

兩方同名勘解由を被召移候所領相廻候

先〻地頭分は蒲牟田一时(町)之事彼人遣申候

得与承候間其如挌護被申候処慮外之儀候也

彼人を成敗申候其所領別人ハ被下候而御座候

當时御所領之懸引くりまはしとも候ほとに彼蒲

牟田之叓被下候へと御申候御老中御返叓ニは

如何様急度配當共可有候其砌返叓

可有之由候也

両方(此方、鹿児島か?)から同名(鎌田)勘解由を転属させられた所領を巡見しました。とりあえず地頭の分領は蒲牟田(宮崎県高原町蒲牟田)の一町をかの人に遣わせよと承っていたので、そのように(勘解由が)領有されていたところ、思ってもみない事が起こりました。かの人を(伊東方が?)成敗(殺害)したのです。その所領は別人に下されて御座います。現在(今の時期は島津領各所で)御所領の対応、配置転換などしていますので、かの蒲牟田については下されてください」と御申しだった。御老中の御返事は、「その通り必ず割り当てなどがあるだろう。その際返事(正式な解答)をしよう」とのことだった。

※「兩方」が何を指すのか不明。「此方」の誤字であれば、「鹿児島から異動した」となり意味も文脈もよく通るが…。

※当時、蒲牟田のある高原の高原城は伊東領であり、伊東勘解由(長倉祐政)が城主だった。周辺で度々軍事的騒乱があり、翌天正三年には地頭として鎌田刑部少輔の名が見える。翌々年の天正四年に島津軍は高原城を攻め落とす。

 

64/1243コマ

一、此日埜村み作殿承事候此前平佐地頭職

被仰付今迄つと目申様ニ候然は従爰つと目候て

おほされ候頻ニ御侘ニ而候御措有へき叓御老中

頼存候此侘叶候ハゝおなしく候𢈘児嶋へ被召移候ハゝ

子共の為にて候程ニ一段候それなく候ハゝ領分なと

少〻御座候間加せ田にても候へ又薩广山より此方へ

さへ候ハゝいつかたへもめし移し候へと候此由同名

民部少輔ニて御老中へ内儀被仰候明朝然〻

この日(十七日)、野村美作(秀綱。平佐地頭)殿に聞き取った事があった。(野村殿が言うには)「以前平佐地頭職を仰せ付けられ、今まで務めてきました。これからも務めがあって仰せられます(今後も務めを仰せ付けられる)。何度でも御辞退願いをします。(留任を)御差し置きくださる事を御老中に頼むつもりです。この辞退が叶えば、同じく居る、鹿児島へ転属させられれば、子供のためなので格別です。それがない(叶わない)のでしたら、領分など少々御座いますので、加世田でもお願いします。また、薩摩山(いちき串木野市薩摩山)よりこちら(鹿児島)でさえあれば(に近ければ)、何処へでも転属してください」という。この話を同名(野村)民部少輔でもって御老中へ内密に仰せられた。明朝にあれこれ

※語順などが崩れていて分かりにくい。「おなしく候」が何処に係っているのか。「自分と同じく平佐に居る子供」なのか、「鹿児島に居る子供と同じ場所へ転属」なのか。

 

可申叓拙者頼由候明朝誰にても候へ兩人

にて承候而可申之由拙者申候也

申してほしい事を拙者に頼むとのことだった。「明朝に(御老中の)誰でも良いので、両人で承って申しましょう」とのことを拙者は申した。

 

一、此日奈ら原狩埜介殿承事に候新城へ移候処

拙者を頼候つる間被仰候新城ニふなまと申候て

三反之塩屋御座候是を被下候へそれなく候ハゝ

小嶋与申候是も三反之処にて候被下候へと候

子細白濱防刕へ被仰候乍去㝡前之御侘之

首尾にて候間如此由候也

この日(十七日)、奈良原狩野介(安芸守延)殿に承った事に、(狩野介殿は)新城(垂水市新城)への転属について、拙者を頼むつもり(とのこと)で仰せられた。「新城に船間(ふまな。鹿屋市船間町)と申して三反の塩屋が御座います。これを下されてください。それがないのでしたら小島(鹿屋市古江町小島)と申す、これも三反の所です。下されてください」という。「詳細は白浜防州(重政。御使役)へ仰せられた(申しました)。しかしながら先程の御気落ちする結果でありましたので、このように(拙者にお願いする)」とのことだった。

※奈良原氏は嵯峨源氏源融(みなもとのとおる)流の末裔であるため諱が一字名の家系。

 

65/1243コマ

一、此晩太平寺御座候薬師堂再興候二三年

已前御判形申候つれ共弓箭㝡中候間

勧進不被成候こゝより勧企候由候然ハ本願之

聖御老中へ被懸御目候生國ハ河内人高埜へ

居住候六十六部被成候而泰平寺へ御座候を頼候

由候而拙宿へも同心候良賢坊与申聖候

この(十七日)晩、泰平寺(中興三世宥印法印。薩摩川内市大小路町)がいらっしゃった。「薬師堂を再興します。二、三年以前に御判形しました(出したor頂いた)のですが、合戦の最中でしたので勧進なされませんでした(出来なかった)。今から勧進を計画しています」とのことだった。そういうことで本願主の聖を御老中の御目に懸けられた。「(その聖は)生国は河内の人で高野山に居住していました。六十六部をなされて、泰平寺へいらっしゃったところを頼みました」とのことだった。拙宿へも同道した。良賢坊と申す聖だった。

※医王山正智院泰平寺。本尊は薬師如来。創建は和銅元年で薬師寺式伽藍配置だった。宥印法印は豊臣秀吉による九州攻めの際、秀吉と島津家の和睦斡旋をすることになる。中興二世宥鑁(ゆうばん)法印は永禄二(1559)年に宅満寺の開山となり移った。

※六十六部経聖は、六十六国を巡って法華経を奉納する回国聖。

 

十八日

一、十八日如常出仕候昨日埜村殿役之御侘之叓

御老中へ拙者一人ニ而申候召達    上聞候へと承候

十八日、いつものように出仕した。昨日(十七日)野村(美作守秀綱。平佐地頭)殿の役(地頭職)の御辞退について、御老中へ拙者一人で申した。(義久様の)お耳に入れよと承った

 

間申上候御返叓ニ爰許役之御侘被申候

無御納得候若は何たる心座共候哉寄合中

前より猶〻被承候へ無其儀候ハゝ尚〻御頼

之由にて候そ候すらんと    上意候

ので申し上げた。(義久様の)御返事には、「こちらの役(地頭職)の御辞退を申されたのは御納得できない。また、どんな心積もりなどがあるのか。寄合中側から重ねて聞き取れ。そうしないならば重ねて御頼みするとの旨で伝えよ」との上意だった。

 

一、此日諸所配當始被成候それより埜村殿へ

相尋申候無別儀候国境之事に候間我〻

通罷居候てハ向後御為に罷成ましき由候也

依夫御侘有由候也其次ニ我朩ニ物語と候て

この日(十八日)、諸所の役所割り当てを始めなされた。それから野村(美作守秀綱。平佐地頭)殿へ尋ねた。(野村殿が言うには)「他意はありません。国境の事でありますので、我々などが居て(地頭であって)は今後御為にならない」とのことだった。「そういう訳で御辞職したい」とのことだった。その次に、我等に物語るといって

※平佐を含む川内は島津本家、薩州家、入来院家、東郷家の国境。

 

66/1243コマ

兼て御侘被成候つる天辰之叓誰人へも

一所に被遣候ハゝ山埜朩之儀此間入來より挌

護之时に違(辵+麦)申へし頻ニとゝめられ候ハゝ一定

六ケ敷叓共出來可申候彼是役之御侘

堅申有へき由候此分御老中へ申候仕合(しあわせ)

第達    上聞候得与承候

(野村殿が言うには)「予てから御辞職願いをなされている天辰(薩摩川内市天辰町)について、誰へでも一所として遣わされれば、山野の事はこの間入来から守護する時に間違い(問題)が起きるでしょう。何度も留められれば(辞職を却下されれば)必ず所領係争など(の問題)が発生するでしょう。かれこれと役の御辞退を固くお願いしたい」とのことだった。この言い分を御老中へ申した。機会があり次第、(義久様の)お耳に入れよと承った。

 

十九日

一、十九日如常出仕申候昨日承候埜村殿心座

之分達   上聞候兎角誰人平佐之地頭

十九日、いつものように出仕した。昨日(十八日)聞き取った野村(美作守秀綱。平佐地頭)殿の考えの旨を(義久様の)お耳に入れた。(義久様が言うには)「とにかく誰が平佐の地頭

 

ニ而候共天辰之山之事は其名に可付候間同前之

叓候然はとて平佐之事たゝませられへき事にも

なく候ほとに尚〻美作守御頼之由候也此由作刕へ

申候又御老中迄被申叓候尚〻役之御侘可

申覚悟候乍去揮返/\申候ヘハ惮多候間先〻

追而被申候する由候而帰候次ニ平佐(筆?)は無之候

河上筑前守殿平佐へ召移候へと候御老中御返叓ニ

彼筑刕𢈘児嶋へ移被當候自然此方移相

であっても、天辰の山についてはその名(天辰)に付くのだから同じ事だ。そうであるからといって、平佐については引き払わせるわけにもいかないのだから、重ねて美作守(野村秀綱)に御頼みする」とのことだった。この旨を作州(野村秀綱)へ申した。また(野村殿は)御老中へ申された事があった。「続けて役の御辞退を願う覚悟です。しかしながら繰り返し繰り返し申せば憚りが多くありますので、追って申されます(申します)」とのことで帰った。次に平佐の筆?は無かった。川上筑前守(忠真)殿が「平佐へ転属してください」という。御老中の御返事には「かの筑州は鹿児島への転属に宛たっている(宛てられている)。自ずから、こちら(鹿児島)への転属が

※薩州家臣で帖佐地頭・辺川筑前守忠直の曾孫。日新斎の頃から仕え、貴久は忠真の膝の上で逝去したという。義久、義弘の代まで仕えた。

 

67/1243コマ

違候ハゝ平佐へ可然之由候也又彼人不事成候ハゝ岩切

可楽斎可被召移叓頼候(之)由候也

変わった(変更や中止になった)ならば、平佐へ(転属)となるだろう」とのことだった。また(筑前守が言うには)「かの人(筑前守、自分)が(平佐への転属が)ならなければ、岩切可楽斎(雅楽介信朗)を転属させる事を頼みます」とのことだった。

※日新斎の頃、御申口役、軍配者、兵道之達者だったという。

 

一、埜添對馬寺田弥平兵衛兩人移之事ハ成間敷候

由作刕江申候其分にて帰候

野添対馬、寺田弥平兵衛の両人の転属については(転属することは)ないとのことを作州(野村秀綱。平佐地頭)へ申した。そういう事で(作州は)帰った。


 

一、此朝伊作地頭有閑斎如例年今月廿五日

御祭礼御社参之由目出度令存候然は當年は

臨时之鏑流馬御座候歟廿五日にて候する歟又廿

六日なとにても候するや    上意次第之由候    上意ニ

早晩之鏑流馬さへ蓋候况や臨时之儀如何候

する哉然共能〻社方へ談合被成候而御神事を

いそき其曰可然之由候也

 この(十九日)朝、伊作地頭の有閑斎(高崎播磨守能宗)が、「例年のように今月二十五日に御祭礼、御社参りとのこと、めでたく存じております。であれば今年は臨時の流鏑馬をなさいましょうか。二十五日でなさいましょうか、または二十六日などにでもなさいましょうか。上意次第」とのことだった。上意には、「早晩(近いうち)の流鏑馬さえも不確定だ。ましてや臨時の件はどうしたものか。そうは言っても、よくよく社方へ談合なされて御神事を急ぎその言うように(二十五、六日などに)するのが良いだろう」とのことだった。

 

一、此日山田新介殿申候高江に覚はなく候承傳候

得と鎌田与七左衛門さ何方へ歟移當候由候彼人を

高江に被召移候へと候召御老中へ申候彼人は

帖佐へ可召移候間難成候由也

この日(十九日)、山田新介(有信。高江地頭)殿が申した。「高江に覚えは(事情に詳しく)ありません。承って伝えてください。と(あわせて)、鎌田与七左衛門は何処への転属に宛たっているのでしょうか」とのことだった。「かの人(与七左衛門)を高江に転属されてください」という。お召しにより御老中へ申した。「かの人は帖佐へ転属されるだろうから難しい」とのことだ。

 

二十日

一、廿日如常出仕申候不断光院従庄内御帰候とて

二十日、いつものように出仕した。不断光院(清誉)が庄内(北郷家領都城)から御帰りになったといって

 

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御参候其由申上軈而奏者仕取成申候御礼茶

にて御立候

御越しになった。その旨を申し上げ、あとで奏者を務め執り成しした。御礼(挨拶)は茶で御帰りになった。


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