天正二年 十月 二十一日 から 三十日末日 まで 玉里文庫『上井覚兼日記』 | うぃんどふぇざぁ

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十月二十一日

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一、廿一日如常出仕申候髙﨑有閑斎より濃刕迄

御内儀候此度伊作へ御光儀之砌多寳寺へ小牧

山本坊御申請可有候如何候する哉と候    御前ニ

召御内儀請候連〻伊作へ御出之时諸寺家へ

御無沙汰候故は多宝寺あまり御酒を註御申

候間依其御無沙汰候此度も如此候ハゝ御出有間敷

二十一日、いつものように出仕した。高崎有閑斎(播磨守能宗。伊作地頭)から濃州(平田昌宗。老中)へ内々の御意向があった。「今回(義久様が)伊作(日置市吹上町)へ御来訪の際、多宝寺(七世海晏和尚。日置市吹上町中原)へ小牧山本坊の御引き請けがあるでしょう。どうしますか」という。御前(義久様)にお召しにより内々の御意向を請けた。(義久様が言うには)「いつも伊作へ御出での時、諸寺へ御無沙汰している(訪問や面会をしていない)理由は、多宝寺(海晏)があまりに御酒を注ぎ、御申ししているので、それにより御無沙汰している。今回もこのようであれば、御出でになることはない」

※伊作は島津伊作家の本貫地。

※仏母山多宝寺。臨済宗広済寺末寺。伊作家菩提寺。当時の住持は七世海晏和尚。

※「小牧山本坊」は何処か分からなかった。多宝寺跡の近くには「小牧」という地名がある。

※具体的には何を言っているのかよく分からない。「御申」は今までの用法だと概ね「陳情」「要請」「依頼」などの申し出を意味している。「御酒を持って執拗に陳情」などをしていて、義久は煩わしく思っているのだろうか?


由候無其儀候ハゝ    御光臨余儀有ましき由候也

とのことだった。(義久様が言うには)「その件(御酒を注ぎ、御申しする事)が無いならば、御来訪も異なる対応になるだろう(御来訪もあるだろう)」とのことだった。


二十二日

一、廿二日伊作就御祭礼御月次(つきなみ)連哥此日ニ差寄候

拙者茂御連衆(レンジュ)ニ参候    貴殿様不断光院光明寺

御合候

二十二日、伊作の御祭礼につき、御月例の連歌をこの日に前倒しした。拙者も御連衆に参加した。貴殿(義久)様、不断光院(清誉)、光明寺(浄光明寺、其阿西嶽)が御参加だった。


一、此日早旦従右馬頭殿御申候寔ニ不似合雖御

申事ニ候御新様申請度由候彼方之使者ハ河上

出羽守町田因幡守ニ而候従是ハ本田下野守

拙者意趣承候召達    上聞候    上意ニ此前

この日(二十二日)、早朝に右馬頭(島津征久。清水城主)殿から御申しがあった。「まことに似合わない事ですが、御新様を申し受けたい(長男・彰久との婚約をお願いしたい)」とのことだった。あちら(右馬頭殿)の使者は川上出羽守(忠実。征久家臣)、町田因幡守であった。ここからは本田下野守(親貞。御使役)、拙者が用件を承った。お召しにより(義久様の)お耳に入れた。(義久様の)上意は「以前

※島津征久の長男・彰久の正室となる義久次女「新城」のこと。「玉姫」とも呼ばれるが、この名は史料には見えない。当時、新城12歳、彰久6歳である。


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従豊後尋候由候然共他国候条諸事如何被

思食候清水へも可然候する哉老名敷(おとなしき)衆分別

次第之由候従其御老中(おとな)へ御尋之通申候一段目出度

之由候御連哥ニ而候間寄合中御返叓之儀ハ

不申上候清水之使者兩人先〻帰候へ追而然〻

之御返叓自是可被仰由候てかへし申候

豊後(大友家)から尋ねてきた(婚約の打診があった)」とのことだった。「しかしながら他国であるから、色々とどうしたものかとお思いになった。清水(右馬頭殿)へもどうするべきか、重臣達の思案次第」とのことだった。それから御老中へ(義久様の)御尋ねの内容を申した。(御老中が言うには)「一際めでたい」とのことだった。御連歌(の最中)であったので寄合中(から)の御返事の件は(義久様に)申し上げなかった。「清水(右馬頭殿)の使者両人はひとまずお帰りあれ。追ってあれこれの御返事をこちらから仰せられるだろう」とのことで帰した。


二十三日

一、廿三日如常出仕申候自清水御申儀御老中へ

御尋之御返叓目出度被思候由申上候    上意ニ

ケ様之事ハ占なと有事ニ候条彼是追而御談

合有へき由候

二十三日、いつものように出仕した。清水(右馬頭殿)からの御申しの件を御老中へ(義久様が)御尋ねした御返事、「(御老中は)めでたくお思いになられた」とのことを(義久様に)申し上げた。上意には、「このような事は占いなどが必要な事であるから、あれこれと追って御談合せよ」とのことだった。


一、此日従国分殿以使僧被申候天満宮假殿之事

国分分別にてかやふきに仕候へと承候雖然

御前より御企候ハゝ其下ニ而何とやうニも辛苦可

申候殊ニ天滿宮埜山なき在所にて候間材木

之叓何方へ歟被仰付候て可然由候自御老中御

返叓にハ天満宮かりとの候事被添心候尤候就

この日(二十三日)、国分(筑前守定友。薩摩国分寺天満宮留守別当職)殿から使僧でもって申された。「天満宮(薩摩川内市国分寺町)の仮殿について、国分(わたし)の判断で茅葺きにされよと承っていました。そうは言っても御前(義久様)からの御計画(の話)ですので、そのもとでどのようにも辛苦致します(辛苦しても進めます)。(しかし)特に天満宮は野山が無い在所ですので、材木については何処かへ仰せ付けられて良いのではないでしょうか(何処かへ調達を命じてほしい)」とのことだった。御老中からの御返事は、「天満宮を仮殿にする事には心を添えられて(添えて)いる。(申し出は)もっともなことだ。


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其先〻切苻をいたさせられ候ハゝ其上にて

請合可有之由候次ニは平佐へ國分殿門二挌護

候哉其内二反方分之时天辰へ着候歟此莭

知行之由候尤さこそ令存候然共彼境未定候間

是又追而談合可有之由候て使僧をかへし候

それについてはひとまず切符など致させられれば、その上で請け合うだろう」とのことだった。次に、「平佐(薩摩川内市平佐)に国分殿は門(かど)を二つ領有しているだろう。そのうち二反を方分(土地の切り分け)した時に天辰(薩摩川内市天辰町)へ付けたはずだ。この時知行していると聞いている。当然そのように存じている。しかしながら、かの境は未だ(しっかりと)確定できていない(所領係争が頻発している)から、これもまた追って談合があるだろう」とのことで使僧を帰した。

※ここで言う「切符」とは、必要な材料、費用などをまとめた書類のことと思われる。


二十四日

一、廿四日伊作へ御光儀候御供申候湯へ直ニ御出候て

従夫有閑斎之宿所へ御着候殊之外御会尺にて候

二十四日、(義久様が)伊作へ御来訪し、御供した。(義久様は)温泉へ直接御出でになって、それから有閑斎(高崎播磨守能宗。伊作地頭)の宿所へ御着きになった。格別の御もてなしであった。


二十五日

一、廿五日如舊例之御八幡へ御社参候川邊かせ田

二十五日、旧例のように御八幡(日置八幡神社。日置市日吉町日置)へ御社参りだった。川辺(南九州市川辺町)、加世田(南さつま市加世田)、


阿多田布施伊集院市來之人衆御供ニ被参候

𠮷利下総守殿北原殿伊地知式部太輔此衆

御供ニ而候御老中ハ平田濃刕御供にて候御剱

役町田伊賀守御かいそへ本田刑部少輔一人ニ而候

如早晩源太夫所ニ而御会尺申候御座敷ニは

主居ニ御座候御次ニ𠮷利殿其次有閑斎客

居金吾様其次北原其次濃州此分ニは

御前之宮仕町田伊賀守三原二郎左衛門尉同

阿多(南さつま市金峰町宮崎)、田布施(南さつま市金峰町尾下)、伊集院(日置市伊集院町)、市来(日置市)の家来達が御供に参られた。吉利下総守(忠澄。吉利地頭)殿、北原(掃部介兼親。伊集院神殿村領主)殿、伊地知式部大輔(式部少輔重成。田布施高橋領主)、この人達が御供であった。御老中は平田濃州(昌宗)が御供であった。御剣役は町田伊賀守(久政か?)、御介添えは本田刑部少輔(三河正親。因幡守親治の子)一人であった。朝夕は源太夫の所で御もてなしがあった。御座敷には(義久様が)主居でいらっしゃった。御次ぎに吉利(下総守忠澄)殿、その次に有閑斎(高崎播磨守能宗)。客居は金吾(島津歳久)様、その次に北原(掃部介兼親)、その次に濃州(平田昌宗)。このもてなしでは、御前(義久様)の給仕は町田伊賀守(久政か?)、三原二郎左衛門尉(重行か? のち伊作地頭)。同じく

※真幸院の北原氏は伊東家による押領ののち、島津家の支援により復興したものの、家臣化され伊集院神殿(こどん)30町に縮小移封されてしまった。


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御手長市來備前守拙者仕候此晩臨时之鏑流馬候

河上圖書助比志嶋彦三郎乳人宮原治部左衛門尉

ニ而候御立願輙(たやすく)御成就ニて候

御手長は市来備前守(家朗)、拙者が務めた。この晩、臨時の流鏑馬があった。(射手は)川上図書助、比志島彦三郎(源左衛門国政か?)、乳人・宮原治部左衛門尉であった。(流鏑馬神事の)御立願はたやすく御成就であった。


一、此朝伊作多宝寺小牧本坊十二坊衆同心ニ而

御参候并道場禅刕寺其外寺家/\

あまた御参候拙者取成申候多宝寺本坊は

寺へ御申請可有由候而御参候

この(二十五日)朝、多宝寺(海晏)、小牧本坊の十二坊衆が連れ立って御越しになった。あわせて道場(浄光明寺、其阿西嶽)、禅州寺、そのほか寺家が多く御越しになった。拙者が取り成しした。多宝寺(海晏)、本坊は寺へ御申し請けするとのことで御越しになった。


二十六日

一、廿六日此朝三原遠江入道當时伊作へ越合申候

二十六日、この朝に三原遠江入道(重益、昌安斎。曽於郡地頭。老中)が現在伊作へ来合わせており、


能比候間子にて候者御目ニかけ度由平濃刕迄被

申候可然之由    上意之間取成懸御目候樽一荷

折肴にて候同三百疋進上候同时禅州寺も御

酒持参候取成申候

良い機会であるので、(遠江入道の)子である者を(義久様の)御目にかけたいとのことで、平濃州(平田昌宗)へ申された(申し入れた)とのことだった。そうしようとの(義久様の)上意なので取り成し、御目に懸けた。樽一つ、荷は折り詰めの肴であった。同じく三百疋も進上だった。同時に禅州寺も御酒を持参し、取り成しした。

※「折の物(おりのもの)」「折櫃物(おりびつもの)」とは、折り櫃に入れた酒の肴のこと。「折」は「折櫃」「折箱」の略であり、食べ物を詰めた箱を言う場合も多い。


一、此日多霜之寺へ御光臨被成御座敷は主居上

貴殿様御次金吾様其次大埜淡路入道其次

有閑斎客居上西堂次𠮷利殿次平濃州

次三原遠江入道此衆にて候此时本來肥前之

この日(二十六日)、多霜の寺へ御来訪なされ、御座敷は主居に上座貴殿(義久)様、御次ぎに金吾(島津歳久)様、その次に大野淡路入道(駿河守忠悟)、その次に有閑斎。客居に上座西堂、次に吉利(下総守忠澄)殿、次に濃州、次に三原遠江入道(重益、昌安斎)、この人達であった。この時、もともと肥前の

 大野氏は薩州家庶流で、薩州家二代国久の三男駿河守資久が大野を号し、その子が大野淡路入道のようだ。


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客僧多宝寺住持舊友之由候而逗留候被懸

御目候拙者取成申候同珎蔵主申人頃被下候

間是も取成御目ニかけ候此人は多宝寺取立之僧ニて候

客僧は多宝寺住持(海晏)の旧友とのことで逗留し、(義久様の)御目に懸けられた。拙者が取り成しした。同じく珎蔵主と申す人が下向されていたので、彼も取り成し(義久様の)御目に懸けた。この人は多宝寺(海晏)が取り立てた僧であった。


一、此晩三原昌安斎へ被仰出候近日御犬稽古ニ

相定候曽於郡黒峯之𢈘行騰(むかばき)能由被聞

召候急度狩被仕候へと候拙者御使申候明日如

曽於郡之罷帰候間軈而(やがて)御狩申へき由御返叓被申候

この(二十六日)晩、三原昌安斎(遠江入道重益。曽於郡地頭)へ(義久様が)仰せ出られた。「近日中に御犬追物の稽古に決まった。曽於郡の黒峰の鹿が行騰に良い」とのことをお聞きになられ、「急ぎ狩りされよ」という。拙者が御使いした。(昌安斎が言うには)「明日(二十七日)、曽於郡の方へ帰りますので後ほど御狩り致しましょう」との旨の御返事を申された。

※「行騰(むかばき)」とは(馬に乗っての)狩猟や旅行の際に腰から脚に着ける服装品で、鹿皮などが使われる。特に騎射三物(犬追物、笠懸、流鏑馬)の正式装束の一つ。


二十七日

一、廿七日田布施後比良之御狩にて候    貴殿猪

𢈘二被遊候従田布施𠮷利山城守殿鎮守之

渡与申処にて御会尺御申御桟敷御座候衆

殿様金吾様左馬頭殿大埜治部太輔殿𠮷利

下総守殿同山城守殿拙者にて候此晩頓而伊作へ

御帰候猪𢈘合而廿九ひ候

二十七日、田布施ののち比良での御狩りであった。貴殿(義久様)は猪、鹿二つをあそばされた(お狩りになられた)。田布施から吉利山城守(久金)殿が鎮守の渡しと申す所で(義久様を)御もてなしになられた。御桟敷にいらっしゃった人達は殿(義久)様、金吾(歳久)様、左馬頭(島津忠長)殿、大野治部大輔殿、吉利下総守(忠澄)殿、同(吉利)山城守(久金)殿、拙者であった。この(二十七日)晩、(義久様は)やがて伊作へ御帰りになった。猪、鹿合わせて二十九尾だった。

※「比良」は何処か分からなかった。日置市東市来町伊作田平迫比良という地名もあるが遠すぎる気がする。あるいは「後比良」なのかも不明。


二十八日

一、廿八日小牧本坊へ御光儀候御座之様躰客居上

座ニ    貴殿様御次金吾様其次𠮷利殿其次

平田濃刕主居之上院主其次桒幡俗生

二十八日、小牧本坊へ(義久様の)御来訪があった。御座の様子は客居の上座に貴殿(義久)様、御次ぎに金吾(歳久)様、その次に吉利殿、その次に平田濃州(昌宗)。主居の上座は(小牧本坊)院主、その次に桑幡俗姓の

※俗姓とは僧侶が俗人であった頃の名字のこと。桑幡氏は大隅正八幡宮(鹿児島神宮)の四社家の一つ。


勝蔵院其次有閑斎黙心之时拙者濃刕之次ニ参候

勝蔵院、その次に有閑斎。黙心の時に拙者は濃州の次(下座側の隣)に座った。


二十九日

一、廿九日高橋薬師へ御堂参被成候御供申候

伊地知式部太輔在所へ申請度之由候間於薬師堂

此由申上候従夫彼宿所へ御光幸候御座之次第

主居之上    殿様御次𠮷利山城守殿次伊地知式部太輔

客居大埜淡路入道次平濃州にて候此时式部太輔

弟ニ而候此前御目にハかゝり候乍惮名を被下候へかしと

拙者憑(たのみ)候儀申上候召    平三郎と御名付候

二十九日、(義久様は)高橋薬師(南さつま市加世田高橋)へ御堂参りなされ、御供した。伊地知式部大輔(重成。加世田高橋領主)が(義久様を)在所へご招待したいとのことだったので、この旨を(義久様に)申し上げた。それから彼(式部大輔)の宿所へ(義久様の)御来訪があった。御座の順序は主居の上座に殿(義久)様、御次ぎに吉利山城守(久金)殿、次に伊地知式部大輔(重成)。客居に大野淡路入道(駿河守忠悟)、次に平濃州(平田昌宗)であった。この時、(式部大輔が)「伊地知式部大輔(重成。わたし)の弟であります。以前(義久様の)御目には懸かっています(御目通しは済んでいる)。(そこで)恐れ多いですが名を下されていただきたい」と拙者を頼む旨を申し上げた。お召しにより(義久様は)平三郎と御名付けになった


百疋五明一本進上候式部大輔殿御光儀御

祝言も百疋にて候

(平三郎は)(銅銭)百疋、扇一本を進上した。式部大輔殿からの(義久様)御来訪の御祝言も百疋であった。

※「五明」は、中国三皇五帝の舜が作った五明扇から扇の異称とされる。


一、此晩軈而伊作へ御帰候有閑在所にて常〻御

会尺にて候御座は有閑斎拙者迄にて候

この(二十九日)晩、(義久様は)やがて伊作へ御帰りになった。有閑(高崎播磨守能宗。伊作地頭)の在所で毎度御もてなしであった。御座は有閑斎、拙者だけであった。


三十日

一、丗日伊作中城ニ而御寄合ニ而頓而如茢児嶋御帰

院候拙者ハ當时御犬追物御稽古候間行騰

彼求候へと    上意之間為狩之御暇申候て

此日永𠮷へ罷越候

三十日、(義久様は)伊作中城で御寄合で、やがて鹿児島の方へ御帰院になった。拙者は「現在御犬追物の稽古があるから行騰のかの(黒峰の鹿皮の)調達をせよ」との上意なので、狩りのために御暇申してこの日(三十日)に永吉へ赴いた。


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