天正二年 十一月 一日 から 十日 まで 玉里文庫『上井覚兼日記』 | うぃんどふぇざぁ

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『天正二年 十月 二十一日 から 三十日末日 まで 玉里文庫『上井覚兼日記』』【上井覚兼日記】base1.nijl.ac.jp『天正二年 十月十一日 から 二十日 まで 玉里文庫『上井覚兼日記』』【上井覚兼日記】base1.nijl.a…リンクameblo.jp先月十月下旬はこちら↑


十一月一日

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一、霜月一日𠮷利総刕参會候而鶉狩ニ登候

霜月(十一月)一日、吉利総州(忠澄。吉利地頭)と参会して鶉(うずら)狩りに登った。

※鶉狩りは鷹を用いて狩る。鷹狩りのうち。


二日

一、同二日拙者狩仕候𠮷利殿も御登候并(ならびに)人数召

列候

同月二日、拙者は狩りをし、吉利殿も御登りになった。あわせて人員を引き連れた。


三日

一、三日毘沙門へ参候其後鶉狩へ登候

三日、毘沙門天王碑(日置市日吉町日置毘沙門)へ参詣し、その後鶉狩りへ登った。 

※元は伊集院一宇治城の鎮守だったが、天文十九(1550)年にこれを攻め落とした島津貴久がこの地へ移した。


四日

一、四日是も同鶉埜へ登候

四日、この日も同じく鶉野へ登った(狩りをした)。

※何処か分からず。あるいは地名ではなく、鶉が生息する地のことを指すものか?


五日

一、五日𠮷利殿狩被成候拙者も登申候同人数

召列罷立候

五日、吉利殿が狩りをなされ、拙者も登った。同じく人員を引き連れ出発した。


六日

一、六日𢈘児嶋へ罷帰候六時分ニ着候

六日、鹿児島へ帰った。六つ時(午後6時頃)に着いた。


七日

一、七日如常出仕申候三原昌安斎より去四日

之日付之書状候趣は先剋於伊作狩之儀仰候

比可被其分別之処上神御柴之事ニ候条閏

霜月ニ御狩可被申由候左候ハゝ此方より狩案内

之人衆御遣被成候へと候其故ハ一向彼方狩馴

たる人なきよし候召此旨申上候此方ゟ誰人

狩案内之衆御遣候共方角を存ましく候

其上彼黒峯御狩之事ハ此前    貴殿様

七日、いつものように出仕した。三原昌安斎(遠江入道重益。曽於郡地頭)から先日四日の日付の書状が来た。内容は、「先日、(義久様の)伊作(日置市吹上町)での狩りの催事で仰せ(行騰に使う曽於郡黒峰の鹿狩りの命令)がありました。近日その主命をさせられるべき(実行すべき)ところでしたが、上神?が御柴(柴挿)の神事ですので、閏霜月(来月閏十一月)に御狩り致される(致す)つもり」とのことだった。(昌安斎が言うには)「そういうことですので、こちら(鹿児島) から狩りの案内役の家来を御遣わしなされてください」という。その理由は、「全くあちら(曽於郡)は狩りに馴れている人がいない」とのことだった。お召しによりこの旨を(義久様に)申し上げた。(義久様が言うには)「こちら(鹿児島)から誰か狩りの案内役の人達を御遣わししても、方角を存じていない。そのうえかの黒峰の御狩りについては、以前貴殿(義久)様が

※閏月は1ヶ月追加するため、この年は十一月が2回あることになる。


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兩度上覧候如其狩せられ候て可然由返叓

申せと候まゝ天埜飛騨守を憑(たのみ)候て書状返叓申候

二回上覧している(狩りをしている)。そのように狩りをさせられて良いだろうとの返事を申せ」というので、天野飛騨守に頼んで書状の返事をした。


八日

一、八日如常出仕申候出仕之衆皆〻無上覧候

此日神鏡院伊右衛門太夫殿一人へ申せと候

雱嶋座主より之被仰叓にて候宮原主水助

此前懸    御目候當时無足に馬越へ罷居候

此莭諸方移替共候太夫殿を偏ニ憑候祁答院

なとへ召移候て可給候由候召此由申候寄合中へ

八日、いつものように出仕した。出仕の人達は皆々(義久様の)上覧が無かった。この日、神鏡院(霧島神宮の使者)が「伊右衛門太夫(伊集院忠棟)殿一人に申せ」という。霧島座主からの仰せの件であった。(神鏡院が言うには)「宮原主水助を以前(義久様の)御目に懸けました。現在無足で馬越(まごし。伊佐市菱刈前目)に居ります。この時期、諸方で転属などが行われています。太夫(伊集院忠棟)殿をひとえに頼みます。(主水助を)祁答院(薩摩川内市祁答院町)などへ転属していただきたいのです」とのことだった。(拙者からは)「この話を寄合中へ

※「無足」とは主君に仕えている武士であるが、知行地を持っていないこと。あるいはその状態の人。


談合候てかへし有へきよし返叓候

談合して、返事があるだろう」とのことを返事した。


一、此日新田宮権执印へ此方諏訪之座主白濱

周防介拙者以従御老中被仰候趣は権执印

一人祗候之由申候無別儀候此度执印殿ニ被對口事之儀度〻理非を雖申少も無承引候

権执印之事ハ余之社衆に違(辵+麦)候其故ハ先年

一篇被申候処を談儀所諏訪座主を憑候て

色〻被申其上神判朩深重(じんぢゅう)ニ御意を少も

この日(八日)、新田宮(薩摩川内市宮内町)の権執印へ、こちら(から)は諏訪の座主、白浜周防介(重政。御使役)、拙者が御使い(取次)をして御老中から仰せられた。内容は、「権執印一人で伺候するように」とのことを申した。(拙者達からは)「他意あってのことではない。(あなた、権執印は)今回執印(河内守清友)殿に対して相論の件を起こされ、(こちらは)度々道理を申したが(養子の件を)少しも承引しない。権執印については他の社衆(が相論を起こすの)とは(わけが)違う。その理由は先年(権執印が)一件を申されたのを談儀所、諏訪座主を頼んで色々と申され、そのうえ神判などで「甚だ深く御意を少しも


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(辵+麦)背申間敷通被申候而ケ様ニ寄合中申候旨

(辵+麦)背候無納得候其許㝡前之儀共彼座主

御存知候間兩人へ相添候由拙者申候従夫三人

猶〻懸引申候へ共彼養子之事ハ差忍成間敷通

被申候尓〻之返事をも不被弁候

違背しません」という旨を申されていて、(今回の相論で)このように寄合中が申す(養子を認めよという)旨に違背している。納得できない。そちら(権執印)の以前の件(先年の神判)などをかの(諏訪)座主は御存知しているから、両人へ(書状を)添える(報告する)」とのことを拙者は申した。それから三人で重ねて交渉したが、(権執印は)「かの養子の件を推し進めるのは承引しない」との旨を申された。(権執印はこちらの)最終的な返答をも弁えられなかった。


九日

一、九日如常出仕申候此朝比志嶋笑翁斎承

事候北村之事此前地頭職被下候然时頃伊右衛門

太夫殿へ彼所郡山へくり替御給候由候彼方ニ

九日、いつものように出仕した。この朝、比志島咲翁斎(国真。菱刈本城地頭)から承った事があった。(咲翁斎が言うには)「北村(姶良市蒲生町北)について、以前地頭職を下されました。そうした頃に伊右衛門大夫(伊集院忠棟)殿へかの所(北村)を郡山へ所属替えし、御給わりしました」とのことだった。「あちらに


所領八町九反可挌護候是を何方へも早〻

召替可給候殊彼所領皆〻上田之由候次ニは

西浦之行司冨山名字之者ニて候是は此

前北村殿此方より御くり被成候时同前ニ此方へ

参候其忠莭ニ彼行司分町五反被下候同公田

四反被下候是又右衛門太夫殿一所ニ於御挌護ニハ

御内之人を召置候て已後難成候殊ニ北村

城内ニ罷居候者候彼是めされにくゝ候する程ニ

所領八町九反を領有することになります。これを何処へでも早々に所属替えしていただきたい。特にかの(北村の)所領は全て上等な良田です」とのことだった。次に、「西浦(姶良市蒲生町西浦)の行司は冨山名字の者です。彼は以前、北村殿がこちら(鹿児島)から御転属なされた時、一緒にこちら(鹿児島)へ参上し、その忠節にかの行司分の町五反を下されました。同じく公田も四反下されています。これもまた右衛門大夫(伊集院忠棟)殿が一所として御領有していますので、(右衛門大夫殿は)御家来の人を配置していて、以後(私達)は難儀しています。特に北村の城内に居る者が居ります。あれこれとやりにくいので


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何方へも召移そ候へ左候ハゝ忠莭之人ニて候間打替

朩能様ニ御分別肝要之由候次ニ北村牧之別當

𠮷冨名字之人ニて候是又従前代かせ田抔

にて色〻忠莭之人にて候間北村未御手裏ニ

まいらさる前ニ於帖佐彼別當一町被下候

如其今ニ挌護申候余所よりハ彼一町は三町斗

有由候其身被申候ハ田畠共三町斗有由候

上田は三反もたれ候是も何方へ歟召移候ハてハ

何処へでも転属をしてください。そうすれば(北村城内に居る者は)忠節の人でありますので、転属など良いように御判断するのが肝要です」とのことだった。次に、「北村牧の別当(牧長)は吉冨名字の人です。彼もまた前代から加世田などで色々と(働いた)忠節の人ですので、北村が(島津家の)御掌中に無かった以前に帖佐(姶良市)でかの別当(吉冨)は一町を下されました。そのように今まで領有しています。他所からは、かの一町は三町ほどあるとのことです。その方が申されたのは、田畠など三町ほどあるとのことです。上等な良田は三反持っています。これも何処かへか転属しなければならない


にてか候すらん為御意得申候次ニ北村名米丸名

兩觸役人之事直ニ召置候而も可然者ニて候乍

去めし替候ハゝ此莭行替之时彼者も何方

落着候様に御分別肝要ニ候已後ハケ様之噯

めされにくかるへし候間申候由候次ニ北村へ小庵一

御座候是又此前御弓箭之时於彼方子共

討死被申候親〻又ハ親類なと之一反二反被付候

又百性庵をくつし候て是に被付候

のではと思っています。(そういうことなので)(義久様の)御意を得るために申し出ました。次に、北村名、米丸名(姶良市蒲生町米丸)の両触役人(ふれやくにん)については、直接配属しても妥当な者です。しかしながら転属するのであれば、この機会の配置転換の時にかの者も何処かに落ち着けるように御判断するのが肝要です。以後(各地の転属終了後)はこのような処置がやりにくいでしょうから、(この時期に)申し出ました」とのことだった。次に、「北村に小庵が一つ御座います。これもまた以前御合戦の時にあちらで子供が討死されました。親々または親類などに一反二反を付けられました。また百姓が庵を崩してここに付けられました。

※「触役人」は、薩摩藩史料では町奉行とも書かれる。


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彼是七八反之庵ニて候是又此莭彼坊主

何方へも召移候て可然之由候

かれこれ七八反の庵です。これもまたこの機会に坊主を何処へでも転属して良いのではないでしょうか」とのことだった。


一、此日昨日権执印へ申候通長寿院防刕拙者

三人ニ而御老中へ申候御談合可有由ニて候

この日(九日)、昨日権執印へ申し入れた内容を長寿院(盛淳)、防州(白浜重政)、拙者の三人で御老中へ申し届けた。御談合すべきとのことであった。

※長寿院盛淳(もりあつ)と呼ばれることが多いが、彼の師は大乗院盛久(せいきゅう)で、おそらくその名を受けた法名と考えられ、「せいじゅん」が正しいと思われる。


一、此朝福昌寺より殿中へ御使僧にて候意趣は

一昨日於寺馬景曲高仕候処御光儀被成上覧候

御礼御申候此朩御慇懃之由御返叓同使僧ニて候

この(九日)朝、福昌寺(鹿児島市池之上町)から殿中へ御使僧でもって(申し出が)あった。用件は、「一昨日、寺馬(詳細不明)で景曲を高く致しましたところ、(義久様が)御来訪なされ上覧がありました。御礼を御申しします。」これらの(義久様の)御懇切(に感謝する)に対する御返事が同使僧により申された。

※玉龍山福昌寺。曹洞宗總持寺末寺。島津宗家の菩提寺。

※景曲とは、風景を写生的に趣向を凝らして歌を詠むこと。


御老中へ被仰候くりの葺芽來十一二日

従𠮷埜くたし可有候持候する人衆之事御

申候召觸へ被仰付候

(そして)御老中へ仰せられた。「栗の吹き芽を来たる十一、二日に吉野(鹿児島市吉野町)から下す予定です。持たせる家来について(の相談)」を御申しになった。お召しにより触役人へ仰せ付けられた。


一、此朝和田玄番亮被申上候此前御弓箭之时

山野御番申候砌一大事ニ悩申候其时親ニて候

讃岐守分別ニ而伊勢参詣可申立願候御

暇被下候へかし來春物詣之由候召申上候來春

物詣と申人数多〻候年明候ハゝ御弓箭御談

この(九日)朝、和田玄蕃助が申し上げられた。「以前御合戦の時、山野の御番をしておりました際、一大事に悩んでいました。その時、(わたし、玄蕃助の)親である讃岐守の考えで伊勢神宮に参詣し、立願したいのです。御暇を下されていただきたい。来春参詣(したい)」とのことだった。お召しにより(義久様に)申し上げた。(義久様が言うには)「来春参詣(したい)と申す人達が多々居る。年が明ければ御戦略の御談

※島津家臣の和田氏は菊池庶流と息長姓吉田氏庶流が知られる。玄蕃助は菊池庶流らしい。


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合一途可被成処ニケ様ニ何れも被申候無御納心候

上意候

合に専念なさるべきところに、このように皆が申される。御納得できない」(という)上意だった。


十日

一、十日如常出仕申候    貴殿様御鷹ねらひ物に

御出候間出仕無上覧候

十日、いつものように出仕した。貴殿(義久)様が御鷹狙い物(鷹狩か?)に御出でだったので、(我々の)出仕の上覧は無かった。