天正二年 十一月十一日 から 二十日 まで 玉里文庫『上井覚兼日記』 | うぃんどふぇざぁ

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一、十一日如常出仕申候    貴殿様福昌寺之くり之

芽くたしに𠮷埜へ    御登被成候御老中(おとな)伊右衛門

太夫殿一人御のほり候

十一日、いつものように出仕した。貴殿(義久)様が福昌寺の栗の芽を下し(のため)に吉野(鹿児島市吉野町)へ御登りなされた。御老中は伊右衛門太夫(伊集院忠棟)殿一人が御登りになった。


一、此朝天満宮之國分殿以祗候被申候茅葺

之御假殿企可申由候百次之番匠召列(めしつれ)候是に

切苻させ候するや如何之由御老中へ被申候今日

𠮷日に候之間可然之由候其分国分殿へ申候間

召切苻させられ酉尅斗拙宿へもたせ候

この(十一日)朝、天満宮の国分(筑前守定友)殿自ら伺候された。「茅葺きの御仮殿(の造立)を実施します」とのことで、百次の番匠(建築工)を引き連れてきた。(国分殿が言うには)「彼らに切符をさせましょうか(契約して良いか)、いかがですか」とのことを御老中へ申された。(御老中が言うには)「今日は吉日であるから良いだろう」とのことだった。(拙者は)その旨を国分殿へ申したので、お召しにより切符をさせられて(国分殿は契約をされて)、酉の刻(午後6時)頃に拙宿へ(切符、契約書を)持ってきた。

※ちなみに番匠を率いるのが大工。


一、十二日如常出仕申候天滿宮御假殿へ切苻

昨日なさせられ候由申上候御祝着之由候同

國分筑前守懸御目かへし申候

十二日、いつものように出仕した。天満宮の御仮殿への切符(工事の契約)を昨日なされられたとのことを(義久様に)申し上げた。「御祝着」とのことだった。同時に国分筑前守(定友)を(義久様の)御目に懸けて帰した。


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一、此朝新田社衆口事(クジ)之儀権執印一人へ此前

より彼身上之事彼是雖申尽候一向納

得不被申候扨は一途噯(あつかい)申より外無是候

然は権执印は彼職を召かへされ又ハ座主其

外社衆へハ彼養子之叓执印方如被申候

可被召成由御申候兎角御老中御談合次第

之由候左候ハゝ薩刕へ彼衆頼被申候共家中ニ

召おかれましき由被仰渡候而其後権执印

この(十二日)朝、新田社衆の相論の件を権執印一人へ以前からかの(権執印の)身の上についてあれこれと申し尽くしたのだが一向に納得されない。「ならば(こちら、鹿児島方としては)専念して(強権的に)対応するより他は無い。」(権執印が言うには)「そういうことでしたら、権執印(わたし)はかの職(権執印座主職)を辞職され(辞職して)、あわせて座主(権執印)、そのほかの(権執印方の)社衆へは、かの養子について執印方が申されたようになされると良い」とのことの御申しだった。(権執印が言うには)「とにもかくにも御老中の御談合次第です」とのことだった。(御老中が言うには)「そういうことならば薩州(島津義虎)へかの衆(権執印一行)が頼って来られても、(薩州家の)家中に置くことは許されない」とのことを仰せ渡されて、その後(の後継の)権執印


職之事談儀所㝡前御使候程ニ彼前より召

かへさせられ候て可然之由候彼養子叓成候ハゝ

定而座主其外衆徒他出是可有候哉

それハ其身之次第之由候能〻ケ様之事ハ

神慮をそむかせらるゝ程之御噯之儀候間御老中

御心にそミ候ハてハと白濱殿拙者へ被仰候

職については、談儀所は以前(からこの相論に)御使い(協議)していたので、(談儀所が言うには)「かの(権執印)側から辞職させられて(辞職して)当然」とのことだった。(拙者達からは)「かの養子が成就したならば、必ず座主(権執印)そのほかの(権執印方の)衆徒は追放するべきでしょうか」(と談儀所へ尋ね、談儀所が言うには)「それは彼ら自身で決めること」とのことだった。(談儀所が言うには)「このような事は神慮を背かせられるほどの御対応の案件ですので、御老中の御心に沿わなければ」と、白浜殿、拙者へ仰せられた。


一、执印河路守殿此日先〻かへし申候

執印河内守(清友)殿をこの日(十二日)とりあえず帰した。


一、和田玄番亮物詣御暇之事伊右衛門太夫殿

和田玄蕃助の伊勢詣の御暇については、伊右衛門大夫(伊集院忠棟)殿が


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來春上洛之間それにつき今日御暇給由候

来春上洛なので、そういうことで今日(十二日)御暇を給わったとのことだった。


一、此日小板屋於内之間御手火御手渡ニ被下候

種子嶋筒之態物ニ而候生〻世〻忝頂戴候

この日(十二日)、小板屋の内之間で御手火を御手渡しで下された。種子島筒の業物であった。生々世々(未来永劫)かたじけなく頂戴した。

※手火とは通常「手に持つ松明などの照明」を指すが、ここでは小火器、つまり鉄砲などを意味すると思われる。


一、十三日如常出仕候川内山田入來院より早〻

御請取可有之由被申候間日取被成候來十七日

可然之由候同請取衆誰人へ申付候するや

上意次第之由申上候十七日𠮷日之由可

然被思召候せひかき請取候するハ三原右京亮

十三日、いつものように出仕した。川内、山田、入来院から早々に(種子島筒を?)御請け取りしたいとのことを申されたので、(義久様は)日取りなされた。(義久様が言うには)「来る十七日が良いだろう」とのことだった。あわせて「請け取りの人達は誰へ申し付けるか、(義久様の)上意次第」とのことを(義久様に)申し上げた。十七日は吉日とのことで妥当とお思いになられた。「せひかき?請け取りするのは三原右京亮が


可然候人躰分誰そ一人申付られ候へと候

新納右衛門佐へ被仰付候

良いだろう。人数分誰か一人に申し付けられよ」という。(そういうことで)新納右衛門佐へ仰せ付けられた。


一、此日笑翁斎より被申候隈城巣山老僧之

事門徒中無参會候間事闕(ことかき)候然ハ泉順房

彼とり立ニ而候是を爰より召立代なと

させ有へき由談儀所へ私(わたくし)ニ侘言度〻

被成候御領掌候間御老中頼候    御前ニ御

披露之由候間    御前ニ申上候兎角御談合

この日(十三日)咲翁斎(比志島国真)から申された。「隈之城の巣山の老僧について、門徒達が参会しないので不自由しています。そこで、泉順坊は彼(老僧)の取り立てですので、彼(泉順坊)をこれ以降立てて代理などさせたい」とのことを談儀所へ密かに陳情を度々なされています。御了承するので御老中へ(報告を)御願いします。」(御老中が言うには)「御前(義久様)に御報告を」とのことだったので御前(義久様に)申し上げた。(義久様が言うには)「どうであれ(寄合中の)御談合に


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次第之由    上意候

任せる」との上意だった。


一、十四日如常出仕申候昨日申上候泉順坊之

事寄合中談合次第之由被    仰出候忝候

彼人今朝懸御目有度由候分別次第と候

間奏者申    懸御目候三百疋進上候

十四日、いつものように出仕した。昨日(十三日)に申し上げた泉順坊については、寄合中の談合に任せるとのことを(義久様が)仰せ出られ、かたじけないことだ。(寄合中の談合の結果)かの人(泉順坊)を今朝(義久様の)御目に懸けたいということで、(義久様が)「(寄合中の)判断に任せる」といっていたので(拙者が)奏者を務め、(義久様の)御目に懸けた。(泉順坊は銅銭)三百疋を進上した。


一、此日笑翁へ従御老中被仰候此間度〻隈城

役之御侘被成候尓〻(いよいよ)之無御返叓候頃新納

右衛門佐祗候候之間隈城役之事御頼候無違(辵+麦)

儀領掌被申候さてハ市來地頭役之叓

笑翁へ御頼被成候御使申候一言ニ而領掌候也

この日(十四日)、咲翁(比志島国真。曽於郡地頭)へ御老中から仰せられた。「(咲翁斎は)この頃度々隈之城役(地頭役)の御辞退願いをなされており、(咲翁斎の)色良い御返事が無かった。近頃新納右衛門佐が伺候しているので、隈之城役(地頭役)について(右衛門佐に)御頼みした。(右衛門佐は)異議無く了承された。そういうことなので市来地頭役については咲翁へ御頼み」なされた。御使い(取次)し、(咲翁斎は)一言で了承した。


一、伊右衛門太夫殿村田越前守殿申せと候北村

郡山くりかへ之儀申上候ことくなさせられ候

忝候然は來月ハ閏月ニ而候霜月ハ滅門之

月ニ而候間難成候今月見初可申之由候

伊右衛門大夫(伊集院忠棟)殿、村田越前守(経定)殿が(拙者に)「申せ(申し伝えよ)」という。(拙者からは)「北村、郡山の所属替えの件を(咲翁斎が)申し上げたようになされます(要望通りに対応する)。(咲翁斎が言うには)「かたじけないことです。そういうことでしたら来月は閏月です。霜月(十一月)は滅門の月ですので困難です。今月見始め?るつもり」とのことだった。


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可然之通    上意候也

「良いだろう」との旨の(義久様の)上意だった。


一、十六日如常出仕申候兵庫頭殿へ御使と候

趣は夕御着被成候目出度被思召候今朝ハ

諸事御談合御惮入候晩氣(バンゲ)御参可然之由候

就夫常〻御出合たるへき由    上意候也御返

叓ハ如上意之夕此方へ着被成候早〻御申

上あるへき処に中途迄御使僧ニ而此度ハ

然与御座候へと御留被成候其上ニ假屋迄

十六日、いつものように出仕した。兵庫頭(島津忠平のち義弘)殿へ御使い(取次)となった。(こちらからの)用件は、「(忠平殿が)夕方に(鹿児島へ)御着きなされ(たことを)、(義久様は)めでたくお思いになっています。今朝は諸事の御談合で(義久様との面会を)御遠慮いただきました。夕暮れに(義久様のもとへ)御参りあるのが良いでしょう」との内容だった。それについては「(夕暮れの)いつでも御面会しよう」との(義久様の)上意だった。(忠平殿の)御返事は、「上意の通り夕暮れにこちら(鹿児島)へ到着なされた(到着した)。早々に(到着し報告を)御申し上げするべきところを、(往路の)中途まで御使僧で(を遣わせて)「今回はそのように(夕暮れに)といらっしゃれ」と御留めなされた。そのうえ(私が自分の)仮屋まで


御参候間斟酌ニ被思召候而兎角御申上なく候

処御使者忝之由御申候    御意次第晩

氣御参可有由候也

御参りして(赴いて)いたので(義久様は)配慮をお思いなされて、(私、忠平が)あれこれと御申し上げなかったところの御使者、かたじけない」とのことの御申しだった。「(義久様の)御意の通り、夕暮れに御参りする」とのことだった。


一、此日冠嶽和光院より承候此前川内御知行

之砌河内へ御座候する冠嶽領皆〻御付候

する由候条申上候過半御付被成候未付分

とうのつほ五反思ほしかた七反かふか田ニ五反

此分一両年お申上候御付候するとハ候へとも

この日(十六日)、冠嶽の和光院から聞き取った。「以前(冠嶽が)川内を御知行の際、川内に御座います冠嶽領は全て御付けするとのことだったので申し上げます。過半は御付けなされています。(しかし)未だ付けていない分の十の坪五反、出来れば七反か、深田(いちき串木野市深田か?)に五反。この分を一、二年(のあいだ)御申し上げしています。御付けするとはいっても


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いまた不付候差忍(さしおし)承度由御老中へ申

せと候殊ニとうのつほ五反ハ元三田ニて候當时

隈城山内寺之挌護候是付候すハ元日之

御祭を留可有之由候御老中御分別次

第之由候并(ならびに)山田へ御神領一町候此内五反を入

來より挌護候时も付候間是非不及候今

五反之事此度御付候へかしと御申候

未だに付けていません。推して承りたい」とのことを御老中へ申せという。特に「十の坪の五反は元は三田です。(これは)現在隈之城の山内寺の所有です。これを(冠嶽へ)付けなければ元日の御祭事を保留します」とのことだった。「御老中の御判断に任せる」とのことだった。あわせて「山田に御神領が一町あります。この内の五反を入来から(冠嶽へ付けられて)所有した時も付けたので、どうしようもないことです。ただ今の五反については今回御付けいただきたい」と御申しだった。


一、十七日如常出仕申候天満宮御假殿切苻川内

十七日、いつものように出仕した。(拙者は)「天満宮の御仮殿の切符(書類)を川内の


寄〻へ御遣可有之由御老中へ申入候召書状

相添御遣被成候也

近辺へ御遣わしするでしょう」とのことを御老中へ申し入れた。お召しにより書状を添えて御遣わしなされた。


一、此日昨日和光院より之分御老中へ申入候

急度とうのつほの叓山内寺へ尋候て返叓

可有由候余ハ一〻に被聞置(せ)候由候也

この日(十七日)、昨日(冠嶽の)和光院からの申し分を御老中へ申し入れた。「急ぎ十の坪について山内寺へ尋ねて(問い合わせて)返事せよ」とのことだった。他は一つ一つ聞き届けられた(聞き届けた)とのことだった。


一、此晩谷山視現寺之観亭へ通夜に参候

この(十七日)晩、谷山の視現寺の観亭へ通夜に参った。

※詳細不明。「シゲンジ」の音に近い「慈眼寺」なら存在する。Wikipediaなどで薩摩藩祖家久の時に「慈眼寺」へ改名したとあるが、『三国名勝図会』『薩藩名勝誌』には改名の話は見受けられない。


一、十八日午尅斗視現寺より下向申候

十八日、午の刻くらいに視現寺から下りた。


一、十九日如常出仕申候和光院へ一昨日之返叓申候

十九日、いつものように出仕した。(冠嶽の)和光院へ昨日の返事をした。


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一、此日従御老中中書様へ御申候以拙者承候

さてハ當町之物喧嘩共候哉殊ニ御存知之

者浮浼共申承候而驚入候乍去可然御扱

殊勝存叓候就其坂本二郎兵衛さ时冝相尋

申候彼申分ハ不紛承候通候㝡前新介へ届

申候処は二郎兵衛親類越度申候さてハ相手

成敗と候立見可申由申候ツそれハ入ましき由

返叓候間然と罷居候処子にて候者初心之間

この日(十八日)、御老中から中書(島津中務大輔家久)様へ御申しがあった。拙者でもって(取次を)承った。(御老中からの伝言は)「恐らく当該の町の者が喧嘩などしたのでしょう。特に御存知の者が浮免などを申し受けており、驚き入っています。しかしながら(中書様の)適切な御対応は殊勝に存じているところです。それについて坂本二郎兵衛が(御老中の)御意向を尋ねてきました。かの申し分は間違いなく聞き取りしました。(この件に関して)先日新介へ(申し)届けた内容は、「二郎兵衛の親類が過失を申し(訴え)、そして相手は斬罪となり、(親類は執行に)立ち合いしたいとのことを申した。それは出来ないとのことを返事したので、そのように(無事に行われるだろうと)承知していたところ、(親類の)子である者が初心のため(作法を心得ていなかったので)

※時宜には、程良い頃合、挨拶・辞儀を意味するほかに、権力者の意志・判断というような意味がある。

※浮免の申請で御老中も存知している者が事件の当事者であることに驚いているというような意味か。


一刀打立申候由言語道断迷惑申候乍去

遺恨にてハ少茂不申由申候此通中書へ申候

御返叓ニはそれ通にて咎有間敷与被思召

たゝにめし置候するも兎角御老中御分別ニ而候

然共傍輩(ホウバイ)いさかひなとゝ申事候ハぬまても候

ハす中書之御分別ニこそあるへき由候召此由

御老中へ申候氣にも㝡前無用之届を二郎兵衛

申候而結句子ニて候者刀を打立申候上は不納得

(罪人に)一刀を打ち立てた(斬り付けてしまった)とのことは言語道断で(御老中は)困惑している。しかしながら(それに対して相手方は)遺恨については少しも申さなかった」」とのことを申した。この(新介への届け)通りに中書へ申し(伝え)た。(中書の)御返事は「その(話の)通りに(相手方が遺恨を持っていないとのことならば、親類の子には)罪科はないとお思いになり、そのまま放っておくのも御老中の御判断である(御判断に任せる)。しかしながら同僚の諍いなどと申す事がないまでもない(御老中が対応することでもない?)。中書(わたし)の御判断とすべき」とのことだった。お召しによりこの(中書の)旨を御老中へ申した。(御老中が言うには)「たしかに先日不必要な届け(立ち合い願い)を二郎兵衛が申して、結果(行き違いなどで、二郎兵衛の親類の)子である者が刀を(罪人に)打ち立てた(斬り付けた)以上は(相手方は?)納得しない


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迄ニ候面目をうしなはせ候て可然由候侭其分申候

はずだ。(二郎兵衛は)面目を失って当然」とのことだったので、その旨を(中書へ)申した。


一、廿日出仕前ニ中書様へ坂本二郎兵衛面目失

せられ候由申候近頃御懇之御噯之由御老中へ被仰候

二十日、出仕前に中書様へ「坂本二郎兵衛は面目を失われた」とのことを申した。(中書様が言うには)「近頃御丁寧な御対応(に感謝する)」とのことを御老中へ仰せられた。


一、此日如常出仕申候新納右衛門佐殿より真連坊以

承候去十七日山田之事三原右京亮殿同心ニ而

請取被成候自身参上ニ而此由申上候すれ共

腫物氣ニ而候間彼坊を参せ候由候也懸御目かへし申候

この日(二十日)、いつものように出仕した。新納右衛門佐殿から真連坊(という使者)でもって(申し出を)承った。「去る十七日、山田について三原右京亮殿が同行で受け取りなされました。私自身の参上でこの旨を申し上げるつもりでしたが、腫れ物による体調不良ですので、かの坊を参らせました」とのことだった。(義久様の)御目に懸け、帰した。


一、此日従和泉両使にて候成願寺山本民部少輔

この日(二十日)、和泉(出水。薩州家義虎)から二人の使いで(申し出が)あった。成願寺、山本民部少輔


ニ而候本田埜刕拙者罷出意趣承候従此前

度〻御申上候雑説(ゾウセツ)之事先刻伊勢守殿

其外両三人此方へ御参之时従御老中被

出候趣候此雑説中書之御前より御いわせ候

由久屋斎㐂入殿迄被申候通義虎被聞

召久屋へ御尋候誠申誤候哉他出被申由候也

次ニハ彼雑説出所之叓御尋尤被思候乍去

一向聞へさるよし候次庄内口御弓箭之事

であった。本田野州、拙者が出て意向を聞き取った。(和泉の使者が言うには)「以前から度々御申し上げしている雑説(薩州家野心の風聞)について、既に伊勢守(薩州家島津忠陽)殿そのほか二、三人が(弁解のため)こちら(鹿児島)へ御参りの時、御老中から仰せ出られた話がありました。この雑説は中書の方からの御発言だとのことを、久屋斎が喜入殿まで申されたという風に義虎がお聞きになり、久屋へ御尋ねになりました。(久屋斎は)事実を申し誤ったのでしょうか(嘘をついたのか)、出奔された」とのことだった。次には、「かの雑説の出処についての御尋ねは道理と思われます。しかしながら一向に聞こえてこない」とのことだった。次に、「庄内方面の御戦略について、


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肝付さ御和融之事ハ伊東へ一途へたゝり

候ハゝ可然由候て如此候當时彼方分別朩如何候哉

きかせられ度由候也次ニ天草与和平之儀

御調儀被成候兎角義虎施面目候様〻

所領をも去渡候ハぬにつきてハ和平有かた

き由候也同有馬殿よりも遠矢善左と

三人にて彼和平之儀おせられ候雖然従此方

御調達之上ハ無信用之由候也次ニ御老中迄

(庄内北郷家と)肝付氏の御融和については、(島津氏の意向として肝付氏は)「伊東へ意を決して断交するように」と(命じられていると)のことで、このように聞いています(状況を把握しています)。現在あちらの判断などどうなっていますか。聞かせられたい(聞きたい)」とのことだった。次に、「(薩州家は)天草との和平の件を御調整なされています(しています)。何はともあれ義虎は面目を施せます。(しかし天草氏が)様々な所領を去り渡さない(条件)においては、和平は有り難い(難しい)」とのことだった。「同じく有馬殿からも遠矢善左と三人でかの和平の件を推されました。そうはいってもこちら(鹿児島)からの御調停である以上は(有馬殿などの意向は)信用しない(採り入れない。鹿児島の意向を尊重する)」とのことだった。次に御老中へ、

※薩州家が庄内方面の外交状況を知りたい理由は、恐らく天草和平の参考材料にしたいためのように見える。


氣しかりの畠地之事又泊埜くりかへの叓御申候

「花熟里(けしかり。けじゅくり)の畠地について、また泊野の所属替えについて」の御申しだった。


一、同御返事世間申散(もうしちらす)雑説之叓摂津介迄

久屋斎被申候間其趣先日勢刕へ被仰候

扨ハ久屋斎無筋事を被申候哉此方よりハ

兎角おほせられぬ儀候間此分候摂刕當

时氣分ニ而㐂入江然与被罷居候追而可被

仰聞由候次ニ庄内江御弓箭之事有まゝにて候

乍去頃御使者を肝付へ被遣候而御弓箭行(てだて)

同じく(御老中からの)御返事は、「世間が申し散らしている雑説について、摂津介(喜入季久)まで久屋斎(喜入氏。薩州家臣)が申されたので、その話を先日勢州(島津伊勢守忠陽)へ仰せられた(申した)。さては久屋斎は道理の無い事を申されたのだろうか。こちら(鹿児島)からはあれこれ仰せられない(申せない)件なので、こういうわけだ。摂州は現在病気で喜入にそのように居られる。追って仰せ聞かれるだろう」とのことだった。次に、「庄内での御政略についてはこの通りだ。しかしながら近いうちに(鹿児島から)御使者を肝付へ遣わされて、御戦略、軍事行動など


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被仰へし候自然御用之时ハ和泉へも可被仰由候也

次ニ天草和平之儀是又彼方(あなた)へ所領を去候へと

被仰遣候未其返事なく候依返事委(くわしく)

被仰由候也次ニ泊埜くり替之事従東鄕被申候

子細共候間成ましき由候也氣しかりの事ハ其

方よりも誰一両人東鄕よりも如其被参候ハゝ

其时左右方聞合られ事終しあるへき由返叓也

仰せられるだろう。そうなれば御用(鹿児島の軍事行動)の時は和泉(出水。薩州家)へも(ご命令を)仰せられるだろう」とのことだった。次に、「天草と(薩州家)の和平の件は、これもまたあちら(天草)へ「所領を去り渡せ」と仰せ遣わされて(申し遣わして)いるが、未だにその返事はない。返事が来てから詳しく仰せ遣わす(申し遣わす)」とのことだった。次に、「泊野の所属替えについては、東郷から申された事情などがあるので出来ない」とのことだった。「花熟里(けしかり。けじゅくり)については、そちら(薩州家)から誰か一、二人、東郷からもそのように(鹿児島へ)参られれば、その時に双方(の主張)を聞き合わせられ、決着させよう」との返事だった。


一、此日兵庫頭殿於御假屋御談合也其御人衆ハ

忠平様年久様意釣斎伊右衛門太夫村田越刕

平田濃刕伊集院右衛門兵衛尉上原長門守

川上左京亮拙者ニ而候条〻は一肝付へ(。以)御使者

可被仰出叓次ニ下大隅繰替之事次ニ市成

御挌護之事此三ケ條ニ而候肝付へハ伊東へ急度(きっと)

へたゝり候するや如何之由爰を堅聞召被取候て

其後御行(おてだて)ハ御談合ニ可有之由出合候也次ニ

下大隅くりかへの事伊地知方誠之不忠之仁ニ而候

この日(二十日)、兵庫頭(島津忠平。義弘)殿の御仮屋で御談合だった。その御面々は忠平様、年久(歳久)様、意釣斎、伊右衛門大夫、村田越州、平田濃州、伊集院右衛門兵衛尉、上原長門守、川上左京亮、拙者であった。個々の議題は、まず「肝付へ御使者をもって(北郷家との融和に介入して)仰せ出られるのが良い事」、次に「下大隅(伊地知家)の所属替えについて」、次に「市成の御領有について」、この三ヶ条であった。肝付へは「伊東へ早急に断交するかどうかの旨、これを固くお聞き取りになられて、その後に軍事行動は御談合するべきだろう」との話が上ったのだった。次に、下大隅の所属替えについては、「伊地知側はまことに不忠の仁である


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早〻下城之事何方へも御くり替被成候而

可然由候也次市成挌護之事是又大事之

堺目ニ而候間従此方御挌護候ハてハ之所ニ而

候由出合候也

早々に下城(退去)させる事。何処へでも御所属替えなされて当然」とのことだった。次に、市成領有についてはこれもまた「(肝付領などとの)大事な境目であるので、こちらから御領有しなければならない所である」との話が上がったのだった。