前回Queen 27 で、ライブ・エイドでの華麗なるQueenの復活劇を考察しましたが、この復活というのは、誰にとっても予想外のことでした。
10万人もの観衆がたった1つのバンド、たった1人の声の合図で一丸となって、まるで「人の波」のように反応する光景には、恐怖を感じる人がいたほど強烈なパワーがありました。
Queenがこんな復活を遂げるなんて、当時は誰にも想像できるものではありませんでした。
バンドメンバーでさえ、です。
数々の問題の中で、彼らはそのまま自然消滅していくと思われていたのです。
しかし、フレディの視野の広さ、技術、ステージでの振る舞いからパフォーマンスまで、Queenの素晴らしさの全てを見せつけられたライブ・エイドの公演後、誰もがQueenを再び求めることとなりました。
この歴史的イベント、ライブ・エイドの終わった数年後に、ブライアンはこう明かしています。
「あれは完全にフレディの力によるものだ。
俺たちメンバーは普通の演奏をしただけで、フレディがあそこで別の次元に持っていったんだ。
僕らの演奏は今日もOKだ、ぐらいにしか思ってなかったさ。」
フレディの死後、追悼コンサートを終えるとジョンは一切の音楽活動から引退してしまったので、ジョンからフレディの話を聞くことは叶いませんが、ロジャーとブライアンはフレディと過ごした月日を語る時、良い事も悪い事も含め、その全てに惑わされていたように感じられることが今でもあります。
「俺たちはとても親密なバンドだったけど、フレディに関してはあまり多くを知らなかった。」と、ロジャーはフレディの死後に語っています。
ブライアンは
「(フレディとの別れは) 非現実的な体験で、俺たちはめちゃくちゃになっていたよ。Queenは世界で最も大きなものだった。
愛してくれる人たちに囲まれて、崇められて、でも完全に孤独で・・・。
音楽に詰め込みきれなかったものが現実世界に流れ出たんだ。」と語っています。
事実上、Queenはフレディ・マーキュリーに始まり、フレディ・マーキュリーに終わったのだと私は感じています。
Queenにとって、フレディ・マーキュリーという人物が最初っから存在していた訳ではありません。
ここからは、それらを少し詳しく紐解いてみようと思います。
フレディ・マーキュリーは、1946年9月5日「ファルーク・バルサラ」として、アフリカ東海岸沖の諸島、イギリス領ザンジバルでバルサラ家に生を受けました。
彼の名字のバルサラは、インド南部のグジャラート州バルサードという町に由来するもので、インド生まれの両親は、ペルシャ系インド人でゾロアスター教徒(パールシー)でした。
植民地政府のオフィスで出納係として働いていた彼の父親が、仕事を続けるために妻とザンジバル島に移住して来ました。
アフリカの東海岸沿いの赤道直下に浮かぶその島は、現在は欧州からのハネムーン客に人気のスポットとして知られています。
余談ですが、ザンジバル島には、2019年11月24日、フレディ マーキュリーの28回目の命日に開館したフレディ マーキュリー ミュージアムというものがあります。
ストーンタウンのケニヤッタロード、フレディ一家が昔暮らしていたことのあるという、マーキュリーハウスの同じ建物内 (入り口は別) にあります。
聖地巡りをしてみたいという方にはお薦めです。
館内にはフレディにまつわる沢山の写真やステージ衣装などが展示されていて、ファン必見のミュージアムです。
また、以前も書きましたが、1974年に発表されたクイーン最初のヒット曲「Seven Seas of Rhye」( 輝ける7つの海 ) この曲のタイトルにもなっている「Rhye」は、フレディが子どもの頃に彼の妹カシミラと作ったファンタジーの世界なのです。
美しいストーン・タウンのビーチを眺めながら、幼い少年時代のフレディと妹カシミラが空想を膨らませていたんだ、と思いを巡らせるのもアリですね。
話を元に戻します。
バルサラ家は当時、ザンジバルに住む大半の人々に比べて、特別な扱いを受けて生活していました。
ファルークは5歳の頃からザンジバル宣教師学校に通うようになります。
人並み以上に賢かった彼は、幼い頃から絵画、図画、粘土細工などでも才能の片鱗を見せていたといわれています。
1954年。バルサラ夫妻はファルークが8歳の時に、彼をインドのパンチガニにあるセント・ピーターズ英国国教会学校に編入させることを決断をします。
ザンジバルでは教育水準があまり高くなく、彼をボンベイの親戚に預け、ちゃんとした教育を受けさせることが両親の考えでした。
セント・ピーターズはボンベイ(現在のムンバイ)から250キロほど離れた所にあって、長年に渡ってその地域で最も優れた全寮制の男子校でした。
父親に連れられて編入してきたフレディは、この学校に10年間在籍し、両親とは毎年1度、1ヶ月の夏休みに会うだけでした。
その間に両親との「心の距離」が生まれてしまったといいます。
それは丁寧だけれど、どこか感情のこもっていない、両親からの手紙などにも表れていたといいます。
「泣き言を口にせずに、我慢して勉学に励みなさい」と教わってはいても、家から遠く離れた年端もいかない少年が、親が恋しくなっても電話をかけることすらできなかった環境は寂しく心細いものだったでしょう。
当時は今と違って、電話は有線であり、電話自体がどこにでもある時代ではなかったのです。
しかも海外通話となると、とても高価なものになり、おいそれと使えるものではありませんでした。
この頃からフレディは理由は別として、様々な孤独と戦わなくてはならない人生を送る事を義務づけられたようなものでした。
ファルークは当時、ひどく突き出た上の歯を気にする内気な少年でした。
そのせいで「バッキー」というあだ名を付けられ、彼は笑う時は必ず手で口元を隠すなど、大きなコンプレックスを持っていました。
しかし、これは奥の4本の過剰歯が原因でしたが、この見た目に厄介な出っ歯が彼の声に独特な響きをもたらしていました。
「神の恩恵なのかもしれない」と、この頃すでにファルークは感じていたのです。
映画「ボヘミアン・ラプソディー」日本語版では、前歯が4本多いといったフレディ自身のセリフがありますが、実際には「奥の過剰歯」が正しいようです。
セント・ピーターズでの同級生の多くは、ファルークが編入当初は少し孤立していたと証言しています。
「自分の面倒は自分で見ることを学んだ。だから僕は速く成長した」と、仲の良かったジャーナリストに後年フレディは語っています。
インドはかつて英国の植民地だったこともあり、学校は権威主義で規律正しい、伝統的な英国風の教育方針を打ち出していました。
この頃から、「 Farrokh 」ファルークではなく英語式に「フレデリック」転じて「フレディ」と呼ばれるようになります。
明るく賑やかな性格のファルークに、教師のほとんどは親しみを込めて「フレディ」と呼んでいたのです。
「フレディ・バルサラ」の誕生でした。
フレディはこの学校で自分らしさも磨いていったのです。
バルサラ家はオペラ好きでした。
フレディは家族の影響でオペラに傾倒していましたが、西洋のポップ・サウンド。
特にリトル・リチャードの激しいピアノのロックンロールや、ファッツ・ドミノの技巧的なR&Bへの敬愛も深めていきました。
当時、セント・ピーターズ・スクールの音楽の先生が、フレディが聖歌隊で歌うのを聴き、その音楽の才能を見出すこととなります。
8歳だった彼はすぐに音楽の特別クラスに入れられました。
ピアノ教師ミセス・オーシアが熱心にクラッシック音楽に導こうと格闘しましたが、彼はすでに、当時心を惹かれ始めていたロックンロールをやりたがっていました。
12歳を迎えた頃、フレディは友人たちと一緒に「Hectics」(ヘクティクス)というバンドを結成します。
1950年代後半〜1960年代前半にかけて、インドのボンベイには東洋と西洋の文化が混じり合うコスモポリタン的な活気が溢れていました。
フレディは学校でも本格的にピアノを学びながら、クラシック音楽、オペラ、現代音楽など、ジャンルを問わずこなしていました。
理論と実践の両方でピアノの4級試験に合格し、バンドではキレのあるブギウギピアノを披露し、フレディは次第に町でも話題の少年となっていくのです。
伝記本「フレディ・マーキュリー ~ 孤独な道化 ~」の中で、近くの女子校の生徒だった Gita Choksi ( ジータ・チョクシ )は、ステージに上がったフレディは、もはや内気なだけの少年ではなく、「とても華やかなパフォーマーで、ステージで間違いなく彼の本領を発揮していたわ。」と語っている。
セント・ピーターズの生徒の中には、フレディがジータに片思いをしていたと思っていた友人もいたという話ですが、彼女はそういうことには全く気づかなかったそうです。
また別の同級生たちは、フレディが性的なことに積極的ではなかったけれど、彼がゲイであることは明確に感じていたそうです。
ジータのいた女子校の教師だったジャネット・スミスは、当時のフレディについて、「極端に細くて賑やかな少年で、人を「ダーリン」と呼ぶ癖があった。
少し変わっていたと言わざるを得ないわね。
単純にそれは当時の男の子たちがするようなことじゃなかったから。
ここにいた時、フレディがゲイだということは受け入れられていたわ。
普通だったら「ああ、なんてこと。ぞっとするわ」ってなっていたかもしれないけど、フレディに関してはそうじゃなく、大丈夫だったの。」と証言しています。
それはきっと、まったくの「ゲイ」ではなく、今風に日本でいうところの「オネエ風」だったのかもしれませんね。英語圏に曖昧な表現はありませんから。
しかも当時、本人はまだゲイへの意識さえなかったのですから。
1963年。
16才の時にフレディはセント・ピーターズ・スクールを卒業し、ザンジバルの家族の元へ戻りました。
ところが同年、イギリスの植民地支配が終わり、1964年にはザンジバルで革命と虐殺が巻き起こりました。
ザンジバルは長い間、今の中東オマーンから渡ったアラブ系の王「スルタン」による統治が英国の保護下で続いていましたが、1963年に「ザンジバル王国」として独立を宣言しました。
この翌年、アフリカ系住民による革命が起き、「スルタン」は英国に亡命してしまったのです。
ザンジバルは対岸のタンガニーカと合併し、タンザニア連合共和国となりました。
革命政府はアラブ系やインド系など少数派住民の資産を没収。
少数派に対する虐殺事件が起きて、多くの人々が殺害されました。
そして生き延びた少数派はザンジバルを逃れたのです。
フレディもこの時難民となり、両親や妹とともにロンドン郊外ミドルセックス、フェルサムにたどり着きました。
フレディ17歳の時です。
イギリスに渡ったフレディの両親は使用人として働くようになりました。
両親の収入があまり良くない事も相まって、フレディは家族が理解できないような方向へと変貌していきます。
フレディは当時の事を1981年のローリングストーン誌の取材に少しだけ答えています。
「僕はとても反抗的で、両親はそれが気に入らなかったんだ。
僕は幼い時に家を出て育った。
でも、僕は自分にとって一番いいことを望んでいた。
誰かに指図されたくなかったんだ」
ザンジバルとボンベイでフレディが経験した事。
その過去をフレディが自分から話そうとしたことはほとんどありませんでした。
それはきっと想像を絶するような体験であったに違いありません。
内戦で祖国を追いやられるという事は、悲劇でしかないのですから。
しかし、この移住はフレディにとってはとても良いタイミングでした。
スウィンギング・ロンドンやザ・ビートルズ。ザ・ローリング・ストーンズの巻き起こした時代の波に乗ることができたのです。
自由な人生という大きな扉が開き始め、フレディはこれから起きる未来のすべての瞬間を、とにかく楽しむつもりでいたのです。
ちなみにフレディがゾロアスター教徒(パールシー)である事は、フレディ没後、葬儀がゾロアスター教式で行われたことで初めて知られた事で、生前フレディは、「アフリカのザンジバル生まれでインド育ち、インドでは規律の厳しい寄宿学校に入れられていた」とは公表していましたが、詳しいことは、決して語ろうとしませんでした。
これについては、しつこい英国の某タブロイド誌の追及に、はずみで口から出たことで、フレディは自身の過去については、メンバーにさえ話す事はありませんでした。
フレディ没後、こうしたフレディの幼少期の写真が出回った事には、実は事情があります。
フレディの生前、没後に関わらず、英国ではフレディの生い立ちについて、様々な憶測が飛び交いました。
中でも酷かったのは、フレディは英国の外交官とインドの現地妻の間にできた私生児だという記事です。
これがさも真実であるかのように特集が組まれたり、他紙がトレースしたりと、ファンの中にもこれを真実と受け止める人まで出ていたのです。
フレディの幼少期の画像は、フレディ没後、フレディの母親、ジャーによって公開されました。
フレディの生前は、フレディ自身「僕の生い立ちなんてどうでもいいだろ?お前たちの目の前にいるのが、フレディ・マーキュリーなんだよ!」と、いったスタイルでしたが、母親のジャーにしてみれば、ありもしない噂話に愛する息子が貶められている事が我慢できなかったのでしょうね。