Queen 29 | QUEEN考察

QUEEN考察

QUEEN好きの好き勝手です

 





映画「ボヘミアン・ラプソディー」にもありましたが、Queenを代表する曲、「 We Will Rock You 」(ウィ・ウィル・ロック・ユー)はブライアン・メイの発案により作曲されました。

経緯などはほとんど映画の通りで、この曲はブライアンの見た、夢の中から舞い降りたと表現しています。

ライブで観客が一緒になって歌ってくれた事に感銘を受けたブライアンは、その観客とより一体となれる曲作りを、とメンバーに提案したのです。

そのためこの曲はリズムを観客に委ねようと、レコード版では一切ドラム演奏は使われていません。
ブライアンのギター・サウンドに手足で踏み叩く音のみで構成されているのです。

これはリリース後、ライブでも観客が実践してくれ、Queenのコンサートをよりいっそう盛り上げる起爆剤になりました。

この他にもブライアンの曲といえば、「Tie Your Mother Down」(タイ・ユア・マザー・ダウン)、「I Want It All」(アイ・ウォント・イット・オール」、「手をとりあって」(Let Us Cling Together)、「Save Me」(セイヴ・ミー)など、ヒット曲を担って来ました。




ブライアン・メイといえば、少年期に作り出した世界一有名な自作ギター「レッド・スペシャル」を操り、ギター・ピックの代わりに英国6ペンス硬貨で弾くというスタイルが有名です。




6ペンス硬貨は1551年に初めて鋳造された英国の硬貨で、1947年まで銀で作られ、その後に原料が白銅や洋白(銅とニッケルの合金)に変更されたといいます。
ブライアンが好んで使っているのは、後者のものになります。


なぜギターを弾くのに硬貨を使うのか問われ、ブライアンはこう答えています。

「昔はスピードを出すのに良いと思ったから、よく曲がるピックを使っていた。だけど次第にピックに硬さを求めるようになって、硬いほど自分の指で弦に何が起きているのか感じられるようになってね。

だから最終的に硬貨を手に取ったんだけど、それが完璧だったんだ。必要なのはそれだけだよ。

6ペンス硬貨はすべての感触を得るのに十分な硬さで、硬貨は洋白製だから弦を傷めない柔らかさなんだ。それに、硬貨の縁は程良いノコギリ状だから、弦に対して斜めに当てると素敵な、はじけるような音が得られる。

だから、僕にとってはギターは声のようで、その弾けるサウンドはギターを語らせるのに役立つ音の一つなんだ。」

Queen最盛期の頃、ブライアンのギター・サウンドは七色の音色と評されました。

これはブライアンの持つ「レッド・スペシャル」と、ジョン・ディーコンがブライアンのために製作したアンプやエフェクター、それにこの6ペンス硬貨の相乗効果が生んでいたのです。

世界中のギタリストの中でも異色の存在ともいえるブライアン・メイ。

彼はどのようにしてQueenのメンバーに成り得たのか、今回はブライアン・メイを中心に、その辺りを考察してみましょう。




ブライアン・メイは、イギリス ミドルセックス州ハンプトンで、父ハロルドと母ルースの間に、1947年7月19日、生を受けました。

正式名は「Brian Harold May」
ブライアン・ハロルド・メイ。

イギリス航空省勤務だった父ハロルドは大の音楽好きで、その影響もあって、ブライアンは幼い頃にウクレレを遊び道具にしていたそうです。

勘の良さを見て取った父親は、ブライアンが7才の時、アコースティック・ギターをプレゼントします。




ブライアン少年は父の手を借りながら、このギターに自作のピックアップを取り付け、エレキギターにして練習に励むような秀才でした。

グラマー・スクール(日本でいう中学校)在学中からバンドを始め、1963年の終わり頃には、2年の歳月をかけて「レッド・スペシャル」を完成させます。




材料はブライアンの友人の家で廃棄予定だった100年以上前のマホガニー材で出来た暖炉や、使わなくなったオーク材の机などで、「やってみるか」と父親も週末を利用して協力してくれました。

しかし、無垢の木材からギターを作るというのは、想像以上に困難な作業です。
プロでも木目の方向の使い方から、各機器の設定など、少しのミスで音が成り立たない難しい作業を、根気よく二人で進めました。

この「レッド・スペシャル」は今をもってしてもブライアンの愛機であり、ここまで長期に渡って酷使に耐えるという事は、よほど念密に作り込まれたのだと想像されます。

しかし「レッド・スペシャル」は、少年時代のブライアンが父親のハロルドと共に作り上げたもの。

世界一有名な自作ギターと評され、クイーンの独創的ギターサウンドの秘密を握る鍵として長年憧れてきたファンも多いはずですが、それまでギターの設計すら経験のない父子が考えたもので、普通のギタリストには扱いにくい物だったと言われています。




ブライアンが最も影響を受けたのは、1950年代から聞いていた、バディ・ホリー・アンド・ザ・クリケッツの多重ボーカルや、イタリアの人気コンサートマスター、マントヴァーニのストリングス、そして1960年代のザ・ビートルズの革新的な方法など、ハーモニー重視の音楽だったと彼は後に語っています。


大学に進学したブライアンは、1968年。グラマー・スクール時代からの同級生で、ベーシストであり、ボーカルもこなすティム・スタッフェルとバンドを組むことになります。


( ティム・スタッフェル )


「1984」と銘打ったバンドで、ブライアンとティムは主に自分たちの好きなアーティストのカバーなどを演奏していました。

その後、インペリアル・カレッジの掲示板に

「ジンジャー・ベイカーやミッチ・ミッチェルのようなプレイができるドラマーを募集する」

と、張り紙をしたところ、歯科医を目指していたけれど、勉強に嫌気がさしていたロジャー・テイラーがその張り紙を見て応募してきました。




ロジャーは中性的な可愛らしい顔をしていて、でも喧嘩っ早く、どちらかというとザ・フーのキース・ムーンのような壮大なプレイスタイルを得意としていましたが、同時にブライアンやティムが求めるものをプレイすることができ、また、ムーンのようにサウンドに対する本能的なセンスも持ち合わせていました。

ブライアンはロジャーのドラムを初めて聞いた時の事を次のように語っています。

「ロジャーがインペリアル・カレッジでセットを組んだ時、仰天したのを覚えているよ。
彼がチューニングしたドラムのサウンドはとにかくそれまでに僕が聞いたことのある誰よりも良かったんだ」

こうしてQueenの前身となるスマイルのトリオが結成されました。




これが1968年の後半のことで、翌69年にはマーキュリー・レコードと限定的ながら契約、レコーディングをしています。



スマイルはシングル1曲を発売しますが、全くの不発。
その後アルバムを、と6曲を収録しますが、発売には至りませんでした。

映画「ボヘミアン・ラプソディー」でスマイルとしてライブで歌っていた「 Doin' All Right 」(ドゥーイン・オール・ライト)を含む6曲のアルバムは、Queenが日本で大当たりした事を受けて、1982年になってから「Gettin’ Smile」(ゲッティン・スマイル)と銘打って、日本でのみ発売されました。

CD化もされているようで、たまにヤフオクやメルカリなどで見かける事もあります。




ティム・スタッフェルは、それまでに同じイーリング・アートカレッジに通い始めていたフレディ・バルサラとも音楽的趣味を共有していました。

フレディはロングヘアーにエキゾチックな整った顔立ちで、危なげなルックスでもあり、しなやかな身のこなし方もすでに身につけていたといいます。





1969年の初め頃、ティムはフレディをテイラーとメイに紹介します。

爪を黒く塗っていたフレディはその出で立ちが女性っぽく、2人は彼に対して少し変なヤツだな、という印象を持ったといいます。

しかし彼には人を引きつけるものがありました。

また、彼には上から物を言うようなところもありましたが、ブライアンは「その時の彼は単にまっすぐだっただけなんだ。」
と後年語っています。


「これは (君たちの演奏) 素晴らしいよ。雰囲気を盛り上げることやそれを落とすことを意識しているのは素晴らしいことだ。
でも服装がちゃんとしていなければオーディエンスを正しく扱っているとは言えない。
いつだって(オーディエンスと)繋がるチャンスはあるんだ」
こう言ってフレディは初めて聞いたスマイルの演奏をとても気に入った様子でした。

フレディはこの頃、いくつかのバンドに入ったり辞めたりを繰り返しており、彼は毎回バンドの全てを作り変えるような傾向にありました。

フレディはブルースを歌うことが好きで、ほとんどのバンドがそれを求めていましたが、彼が影響を受けたものはイギリス人の作曲家であり、シンガーのノエル・カワードの楽曲。
ショパンやモーツアルトの楽器のボイシング。
ディック・パウエルやルビー・キーラー、ロバート・プラント、アレサ・フランクリンの歌唱法。

そしてフレディが愛してやまない2人のスター、ジミ・ヘンドリックスとライザ・ミネリの表現法など、それらよりも遥かに幅の広いものでした。

しかしスマイルを見てからフレディは、このバンドのリード・ボーカルになりたいと強く願うようになったようです。

フレディはスマイルのライブに現れては、バンドの方向性や楽曲についてアドバイスをしたり、「僕が君たちのバンドのボーカルだったらどうなるかを見せてやるよ」と、それとなくアピールしていたといいます。

当時スマイルは、自分たちのバンド活動や収録に加え、ジミ・ヘンドリックスやピンク・フロイドの前座、サポート・アクトを務めるなど精力的に活動していました。


そして1970年の初め頃。
ティムが他のバンドに移籍する話が持ち上がり、ティムはハンピー・ボングへとあっさり移籍してしまったのです。

この頃までにブライアンとロジャー、フレディの3人は同じアパートメントで共同生活をしており、ブライアンとロジャーの2人は、フレディが器用でしっかりとした教育を受けたピアニストであり、非凡なシンガーへと成長しつつあることに気づき始めていました。


こうして1970年4月、ティムが抜けた穴をフレディが埋める形で3人は新しいバンドを結成することになります。

新しいバンドは急遽ベーシストを募集することになります。

彼らは1971年にジョン・ディーコンに出会うまでに数人のベーシストを試しました。

少なくともそのうちの1人はフレディの突飛過ぎるスタイルに抵抗があり、逃げ出したといわれています。




ジョン・ディーコンは模範的な学生で、彼は音響振動工学の修士号を持っていました。

オーディションでは極端に内気な印象を与え、「彼は僕たちとほとんど話すことが出来なかった」と、ブライアンは初めて会ったときのことを回想します。

しかし、彼はすぐに曲を覚えられる能力があり、オーディションでその場にいたメンバーが突然言葉でリクエストをしても、「欠けていたものを補ってくれて1音もミスしなかった」とブライアンは評価しています。

フレディもブライアンと同じ印象を持ったと後に語っていますが、ロジャーに至っては、「やかましい奴ばかりだったから、大人しい奴が一人くらいいたほうがいいと思ったね」と語っています。

こうして数々の奇跡のような出会いがあって、Queenの4人は引き合うように揃ったのです。