Queen 30 | QUEEN考察

QUEEN考察

QUEEN好きの好き勝手です

 




Queenというバンドは、ボーカルのフレディ・マーキュリー。
ギターのブライアン・メイ。
ベースのジョン・ディーコン。
そしてドラムのロジャー・テイラーという、不動の4人のメンバーで構成されていました。



メンバーチェンジが激しい米英ロック界において、メンバーチェンジのないグループというのは意外に少なかったのです。

それに加え、Queenは他のミュージシャンとのセッションや、ソロ活動なども、他のロックバンドに比べると少なかったのではないかと思われます。


実際Queenとしては、他のミュージシャンとのコラボレーションはレコーディング・スタジオでたまたま居合わせたデビッド・ボウイとの「Under Pressure」(アンダー・プレッシャー) 以外、マイケル・ジャクソンとの曲はフレディ没後までリリースはなかったのです。(詳しくはQueen⑦とQueen⑬に記載があります)




しかしそんな中、最も精力的にソロや他のバンド活動をしていたのは、実はロジャー・テイラーです。


ロジャーは1977年にソロのシングル版を一枚発売した後、1981年にQueenのメンバーとしては初のソロアルバム「Fun in Space」(ファン・イン・スペース)をリリース。
ほぼ全ての楽器を自身で演奏するという画期的なアルバムでした。

1984年には「Strange Frontier」
邦題 (ロックンロール・フロンティア) というアルバムもリリースしています。

このアルバムの中にある「Man On Fire」は映画「ザ・ライダー」の挿入歌としても使われ、日本では当時バイク・ブームが巻き起こっていた頃なのでお馴染みの方もいらっしゃるのではないでしょうか?。




その後もクイーンが活動を小休止していた1987年にはオーディションでメンバーを集めて「ザ・クロス」を結成。このバンドにおいて、ロジャーはドラムではなく、リードヴォーカルとリズムギターを担当していました。




Queenといえば、「フレディ・マーキュリー」という見方もありますが、プレーヤーとしての職人的な要素はブライアン・メイが担っていましたし、アイドル的な一面は、ロジャー・テイラーが担っていたと位置付けられると思います。

「ブロンドヘアーに青い瞳」
この出で立ちは、正に王子様のような存在でした。

ファンの約7割が女性という異質な国、日本ツアーでも黄色い声援といえば、ロジャーに向けられたものでしたし、当時のファンの必須アイテム、ブロマイド写真も飛ぶように売れたのはロジャー・テイラーのものでした。




バンドにおいてドラマーというポジションは、ステージの一番後ろのドラムセットに隠れ、どちらかというと地味に映る存在です。

当時のブリティッシュ・ロックに於いて、ドラマーと言うと
コージー・パウエル
ジョン・ボーナム。
ビル・ワード。
チャーリー・ワッツ。
カール・パーマー。
ビル・ブラフォード。
リンゴ・スター。
キース・ムーン。
ミッチ・ミッチェル。
サイモン・カーク。
ジンジャー・ベイカー。
等々、個性溢れる有名処が並びますが、あくまでもルックス面で主役を張るようなキャラクターは皆無ですね。


例外として、歌と作曲能力、プロデュース力にも優れている「世界一忙しい男」フィル・コリンズがいますが、ルックスはお世辞にもアイドルという感じではなかったと思います。(実は私、フィル・コリンズの大ファンでもあります。笑)

( フィル・コリンズ )


やはりそういう面で見れば、ロジャー・テイラーは異色のドラマーでした。

肝心のドラムプレイも、ザ・フーのキース・ムーンの直系ともいえる、リズム・キープというよりは「リード楽器」の傾向の強いスタイルでした。
しかもキース・ムーンよりも基礎がしっかり出来ていて、ムーンほどの派手さは無いけれど、非常に上手いドラマーだと思います。


( キース・ムーン )

作曲面では元々クイーンの楽曲の9割近くは、フレディとブライアンによるものですが、Queen初期から絶頂期の頃は必ずアルバムの中に1~2曲はロジャー自身が歌うロジャーの曲が含まれていました。
その一部ではギター演奏もしています。

ロジャーの作り出す曲はどの曲もハードでヘビーなロックで、ドラマチックなQueenのアルバムの中では異彩を放っていましたが、優れた曲も多かったと思います 。


壮大で美しい天才的なメロディーを生み出す、グループの中心フレディ。

水準を超えた曲を多く作ることができて、Queenサウンドの核になっていたブライアン。

曲数は少ないけれど、素直なバラードやブラックミュージックの影響を受けた聴きやすい曲を作るジョン・ディーコン。


正直、この3人のメンバーに比べてしまうと、ロジャーは作曲の能力面では少し劣っていたように思います。

しかし、Queenはロジャーなくしては成り立ちませんでした。

ロジャーはドラムを叩きながら歌うことが出来たので、特にライブにおいてその能力をいかんなく発揮しました。

Queenの舞台とは、そのほとんどでバック・コーラスを雇うでもなく、音を重ねるためにバック・ミュージシャンを雇う事もほとんどありませんでした。
常に4人のメンバーだけで構成されたのです。

ジョン・ディーコンは歌う事はほとんどありませんでしたし、ブライアンもコーラス部分では歌を入れるものの、それほど主張するものではありませんでした。

Queenの歌における高いパートのコーラスは殆どロジャーが担当し、また、リードボーカルのフレディもライブにおいては高音で歌うことが出来ないので、その部分は高い声が出るロジャーが歌を被せたりと、曲によっては殆ど歌いっぱなしの状態でドラムを叩いていました。




ロジャーがリードボーカルを務める「I'm in Love with My Car」(アイム・イン・ラブ・ウィズ・マイ・カー)も初期のライブでは必ず演奏されました。

ロッド・スチュアートばりの声でボーカルには自信があった事。
そして、学生時代からギターの心得があったこと。
自らの曲が前述の通りQueenのメインストリームから外れていたこともあり、早くからソロ活動への興味が湧いていたのでしょう。


映画「ボヘミアン・ラプソディー」では、破格のギャランティ・オファーによるフレディのソロ活動にメンバーたちが不満をぶつけ、活動休止に陥るといった場面がありましたが、実際にはソロ活動どころか、Queen以外のバンド活動までロジャーは行っていました。


Queenの不和は1984年頃からブライアンとロジャーを中心に囁かれていましたが、主にギャランティによるものと伝えられてきました。

度重なるツアー・ライブの疲労と、南アフリカでのライブ敢行での非難に、目標を失いかけていたというのが解散の噂の元となっていた訳で、ジョン・ディーコン以外はそれぞれQueen以外の活動をしていた訳ですから、そういった事での揉め事はなかったはずです。





ロジャー・テイラーは、1949年7月26日、イギリスのノーフォーク州のキングズリンで、父マイケル・テイラーと母ウィニフレッド・テイラーとの間に生を受けました。

両親の仕事の都合で、英国内の様々な地方を引っ越す事が多く、遊び相手は妹のクレアしかいなかった事が多かったといわれています。

ロジャーは幼い頃から遊びを音楽に求めていた傾向にあったようで、ブライアン・メイとの奇妙な共通点ですが、ロジャーも初めて持った楽器はウクレレでした。

その後ギターに移行していきますが、その時の事をロジャーはこう語っています。

「初めてやった楽器はウクレレなんだ。正直弾けなかったけどね(笑)。
8歳のときに初めてバンドをやって、学校でロニー・ドネガンのスキッフルの曲を演奏したよ。
ドラムをやり始めたのは12歳の時だ。
これなら自分にもできるんじゃないかって思ってね。
ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツの「Rock Around The Clock」をラジオで聴いて、そしてそのすぐ後にリトル・リチャードを知って、ドラマーになりたいって思うようになったんだ。

その気持ちは止められないよね。父の助けを借りつつ、ドラムを1つずつ手に入れてセットを完成させていったよ。
最初はすごく安くて小さいシンバルを1枚持っていただけだった。
中古で8インチのAジルジャンのスプラッシュなんだけどね。」


ロジャーの家はけっして裕福だったとはいえず、贅沢品の楽器は当時手軽に手に入る時代ではなかったのです。
ロジャーは少ないお小遣いを貯めてはドラム・セットを揃えていきました。



これは私自身も経験した事ですが、私も少年期にシンバル一枚からドラムを揃えた経験があります。

私のきっかけはテレビで見た映画、石原裕次郎の「嵐を呼ぶ男」でしたけどね。(笑)

シンバル一枚。それを支えるスタンド一基。それを叩くスティックがあれば、気分はとても盛り上がりました。

叩く位置によって音は変わりますし、叩く強さでも音色は変わります。

タイコが加わるまで基本をみっちり練習する訳です。

ドラムセットを構成する一つ一つの楽器がどんなもので、どんな働きをしていて、どうすればそれを最大限に生かすことができるのか、それを知ることができるのです。

毎日何時間も反復して、技術が身につくのが楽しみでもありました。

それに、足しげく楽器店に出入りしていると店主と仲良くなり、汚れているけど中身のしっかりしたメトロノームを貰えたり、そういった物が揃うことで次第に基本が学べる訳です。

タイコも最初は一つだけだと、普段は叩かないリムの部分なども音を構成するのに大切な部分だと気づく事が出来ます。

そういう意味ではロジャーの経験も基礎と基本を会得するのには適していたのだと思います。


ロジャーは音楽活動に関しては早熟でした。
8才の幼少期にはすでにバンド活動を始めており、10代の頃にはスクール・バンドでセミ・プロのように活動しています。

この頃、敬愛するドラマー、ザ・フーのキース・ムーンに触発され、ロジャーは独学でドラムのチューニングを学びました。




1967年に高校を卒業したロジャーは、ロンドン病院医科大学に在籍し、歯学を学びました。

これは母親ウィニフレッドの勧めもありましたが、ロジャーにしてみれば、都会であるロンドンへ行けるという口実もあったとされています。

( ロジャーと母ウィニフレッド )


しかし、そこでの勉強はロジャーを退屈にさせ、その後ロンドン大学より学位の承認を受けていたイースト・ロンドン・ポリテクニックに登録。
生物学を研究し、最終的に学士号を取得しました。

つまり一般にいわれている歯科医ではなく、ロジャーは生物学士であるということになります。

この頃、ロジャーは生活を安定させるにはどの道を選べば良いのか迷っていた時期でもあります。

医学の道は生活を安定させるには、医師や研究者であれば確実だという考えもありますし、しかし音楽への欲求もまた大きなものでした。

これには両親の離婚などの問題も要因としてあったと思われます。


そしてブライアン・メイとティム・スタッフェルが出した

「ジンジャー・ベイカーやミッチ・ミッチェルのようなプレイができるドラマーを募集する」

というチラシ広告を目にするのです。

こうしてQueenの前身となる「スマイル」が始動します。


余談になりますが、現在のロジャー・テイラーの自宅には、巨大なフレディ・マーキュリー像があります。

これについてロジャーは映画「ボヘミアン・ラプソディー」公開時のインタビューに応じてこう答えています。


「自宅の庭にフレディの像があるんだ。かっこよくて巨大で、大好きな像。

庭に像を置いたらおもしろいんじゃないかと思ってね。

ライトアップすると本当に美しくて、ほかの人からは見えないところにあるんだけど、フレディが見たら大笑いするんじゃないかな。
だから、いいじゃないか、ってね。

毎日、目にしているよ。(拳を掲げて)フレディが「イェア!!」ってやってるのを思い出すよ。

彼は頭の中にいつもある壁紙のようなものだ。忘れることなんてないよ。いなくなってずいぶんたつけど、忘れたことなどない。僕たちの一部なんだ。

ブライアンも僕も、いつもフレディが隅っこにいるような気がしていて、なにかについて話している時もフレディがどう思うか、わかっている気分になっているんだ。」


ロジャーにとって、フレディ・マーキュリーは家族以上の存在だったと今でも語ります。

そしてこうつけ加えました。


「フレディのメディア受けする要素、それは私生活やもろもろあるけれど、そうしたことが時に大げさに伝えられ、人々が彼がミュージシャンであり、その中でも一流だったいうことを忘れがちだと感じていたんだ。

ショーマンで歌手というところから切り離しても、彼は偉大なミュージシャンであり、作曲家だった。

だから映画ではそうした側面がきちんと描かれていることを重視した。

新聞が好んで書くような話だけじゃなくてね。

音楽は人々が聴くものであって、新聞が書くものじゃないからね。」


2018年11月21日 ロジャーがInstagramにて公開