『お茶』とともに、 その1 | お試しブログ

『お茶』とともに、 その1

21歳の冬、
生まれて初めて、沖縄島から日本島の隅田川沿いにある造船所に働くため、上京しました。

それは、造船所の住まい中、食堂での出来事でありました。寮の食堂、床はコンクリート、中央には、これまで見た事のない石油ストーブが設置していた‥

ある日、仕事を終えて食堂の中、とても不思議な光景を目撃しました。

なんと!!食堂の中央、ストーブの上、おっさんが『バーベQ』をしていたのです。食堂の中には、ガスコンロも設置していました。おっさんは、ガスよりも石油が良いのだ‥言っていました。その気分も分かる気がした。

またある日、仕事を終えて食堂の中、おっさんは石油ストーブの上、これまた不思議な儀式を行っていた。

なんと!おっさんは、石油ストーブの上、年季の入った黒いツブツブ『やかん』を沸かして『お茶』を飲んでいました。すでにそのバーベQ光景には見なれていたが、年季の入った『やかん』にはとても驚かされました。

その『やかん』は、黒く、分厚く、ツブツブしており、『やかん』と『急須』が合体した鉄器(うつわ)でありました。これまで自分も世間知らづ、ありましたが、その時初めてその存在を知りました。しかしあせるその名前について、記憶に止めづ暮らしてきました。


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今ではとっくに、その造船所も、おっさんも、黒いツブツブ『やかん』も、遠い島の遠い昔の出来事‥

名前も知らない、人々に忘れられ、最新鋭のポットにケトルを利用して『お茶』を飲むようになりました。

あれから17年、
netショッピング パソコン見ていたら携帯ヨーロッパ生まれ、逆輸入のカラフル南部鉄器(うつわ)が話題を読んでいました。その形は、記憶の片隅、どこかで見覚えありました。

その文字をgoogle検索してみると、
『今、中国では南部鉄器の鉄瓶が人気を読んでいる』という検索結果が出てきました。その形も色も、あの時のおっさんが沸かしていた黒いツブツブ『やかん』そのものでありました。


http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E9%89%84%E5%99%A8

さっそく自分は、これは何か?と、回りをみると⇔その形と名前ではないが、『急須』と『やかん』が合体した鉄器(うつわ)が昔沖縄にもあったという‥

これまで鉄器というと、細く長い棒状の印象しか思い浮かばなかったのだが、急須のような鉄瓶、鉄鍋、鉄釜など‥鉄器に含まれていました。

自分が読んでいた本には、鉄器という文字はたくさん登場していたのですが→気にも止めづ→素通り→していました→

そこでその形も、鉄器に含まれていた事が、とても気になり出しました。


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鎌倉時代ころ~
琉球は大量に鉄器を 明 (中国)から輸入していました。素通りした本を読み直してみると、鉄器には、鉄鍋や鉄釜など‥日常生活に使用する鉄器と載っていました。その数もまた、当時の琉球の人口をはるかに上回る数でありました。

当時の明国は、『鉄(てつ)』は持ち出し禁止、『鉄』の流出を禁じておりました。どうして? 当時の明は『鉄』の流出を禁じていたかというと、中国島沿岸部に倭寇(わこう)と呼ばれる人々が『日本刀』を用いて出現していたから、云われています。

『鉄』そのものではなく⇔鉄鍋や鉄釜など‥日常生活の鉄製品をある物と交換していました。鉄器(うつわ)を溶かすと→鉄→刀が生まれてきます。輸出入の交換品において、お互いてんびん座持ちつ持たれつ関係があったと思われます。

鎌倉時代ころ~日本列島には、これまでとは異なる風が吹いていました。これまで、大刀、打刀など‥呼ばれていた刀が『日本刀』と呼ばれる普及ようになった、とも云われています。

特に鎌倉幕府の武士の間には、座って『お茶』を飲む宗教→禅宗が人気を読んでいました。その『お茶』とともに、附随する鉄器(うつわ)など‥他にもたくさん気になる何か?隠れていました。

鎌倉時代の中国島は、明ではなく⇔元、宋でありましたが、その前触れは始まっていました。

鎌倉時代ころ~『お茶』とともに、附随する何か?の 北上と南走伝説が強く現れています。

あの時のhttp://s.ameblo.jp/yuukata/entry-11768344276.html 白鳥伝説とも関係していると思います。

鉄製品を作る所、使う所、鬼退治をする人は昔は『おに』でてんびん座鬼退治をした人は『おに』の名前を引き継いでいました。

名前は違うけど自転車桃太郎伝説と白鳥伝説には連続性が見られます。

鎌倉時代の栄西(ようさい)は、『お茶』とともに、何か?も持ち帰っていました。

自分は、沖縄島の玉城(たまぐすく)と日本島の吉備国の役割が非常によく似ていると思えてきました。

桃太郎のモデルは吉備津彦といい、吉備津彦のお姉さんの名前は、

倭迹迹日百襲媛(ヤマトとと ヒ ももソヒメ)という巫女であり、畿内の『箸墓古墳』という所に眠っています。

玉城(たまぐすく)の百十踏揚(ももとふみあがり)は祝女(神女/ノロ)でありました。
http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-11794635677.html

百十踏揚(ももとふみあがり)は、2回目の政略結婚をしました。

1回目は阿麻和利てんびん座2回目は鬼大城という人でありました。

鬼大城は、越来村(現・沖縄市)の知花城で自害しました。http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-11553622045.html

越来(ごえく)村の『知花』の近くには、『倉敷』という部落がありました。


倉敷はいまは、米軍・嘉手納基地の中にあります。


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関係しているかは?あれだけど、『知花焼』もてんびん座1683年に那覇の『壺屋焼』と統合しました。http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-11603240303.html?frm=theme


那覇の『壺屋焼』は、金城さんが活躍していました。



なぜか?知らないけど、焼き物(やちむん)の里→『壺屋』のとなりは『三原』という部落になっていました。

吉備国から分別した備後国には、『三原』がありました。



google検索してみると、
http://blog.goo.ne.jp/kelu-cafe/e/3ca13aa4b2bdd9cae49e93e86595ceb0
三原には、日本最古の製鉄所が出土した‥と載っていました。

那覇の『三原』は、江戸時代ころ、新しいけど、あの時のhttp://s.ameblo.jp/yuukata/entry-11768344276.html

名護の『三原』は、古いように思います。三原の近くには、嘉陽(かよう)、安部(あぶ)、大浦など‥桃太郎伝説→白鳥伝説のような地名が登場します。

嘉陽は吉備国の栄西が生まれた賀陽 ? 似ています。
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%80%E9%99%BD%E9%83%A1



ー(・・?ー・ー



話はだいぶ飛んでいますが、
色いろgoogle検索してみると、南部鉄器の鉄瓶は、白鳥伝説のある陸奥国の胆沢・水沢が発祥地と載っていました。

南部鉄器の語源は、南部氏から来ており、南部氏の配下に『大浦氏』がいて、津軽地方を支配するようになると、大浦氏は地名から『津軽氏』を名乗るようになったといいます。

元もと、南部氏の配下であった大浦氏の祖(おや)は『千葉氏』で、房総半島にあった 千葉県匝瑳市大浦から、と説があります。

平安時代まで九州島は『千葉氏』の所領でありました。千葉氏、大浦氏、安部氏など‥北上と南走伝説があります。

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話は複雑になります、
鎌倉時代ころ~日本刀と東北地方において、『前九年の役』に安倍則任という鬼退治をする人物が登場しています。安倍則任は昔『おに』でてんびん座安倍則任の「あだ名」は『白鳥八郎則任』であり、陸奥国(現・岩手県胆沢郡前沢大字白鳥字鵜の木)の白鳥館を拠点としていました。

あの時の
http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-11764023941.html
全国・鵜の木祭り、関係しています。

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その後、安倍則任の子孫→ 安倍宗任は九州島の松浦に引越し自転車地名から『松浦氏』を名乗ります。松浦の近くには、名護屋城があり、九州島の名護屋城を拠点として、豊臣秀吉は朝鮮半島の『慶州』に向かいます。

慶州の古名は、『金城』でありました。

九州島の松浦は、佐賀県と長崎県に分別しました。長崎県の源(みなもと)は、千葉氏の分家→長崎氏という説があり、長崎県には、大浦氏がたくさん住んでいました。

また、千葉氏の拠点1つ→安房国はてんびん座阿波国の忌部氏の拠点でありました。

忌部氏もまた、北上と南走伝説があります。



阿波→安房→安波(あは)になります。

沖縄島の最北端にある、安波(あは)のとなりに美作(ちゅらさく)、 安田(あだ)、伊部(いぶ
)という部落があります。

http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-11529473796.html

美作(ちゅらさく)は吉備国から分別した美作(みまさか)と似ていますてんびん座備前焼の別名は伊部(いんべ)焼といい、忌部氏から来ているといいます。

名護の三原、辺野古、凸、安部(あぶ)の反対側には、凹、伊武部(いんぶ)があります。

http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-11765706366.html

安部(あぶ)と安倍てんびん座忌部→伊部(いんべ)→伊部(いぶ)→伊武部(いんぶ)は似ています。

忌部氏は、祭祀に関する古代の豪族でありました。

やはり、後ろにはオバケ100がいます。

桃太郎のモデル→吉備津彦が退治した鬼の『あだ名』が温羅(うら)という百済の王子で、温羅(うら)の『本名』は吉備冠者(きびのかじゃ)といい、吉備津彦の『本名』は五十狭‥?という名前でありました。桃太郎=吉備津彦は鬼の名前を引き継いでいました。

吉備津彦のお姉さん→‥百襲媛(ももそひめ)の百(もも)が桃に‥?‥という人もいます。

焼き物(やちむん)から、鉄、陶磁器、塩(しお)が生まれてきます。

それは、遠い島の遠い昔の出来事‥








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