巨人  国士無双 (外伝)②  鬼と鬼 | まつすぐな道でさみしい (改)

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1904年 牛島辰熊 誕生(熊本県横手町)

1917年 木村政彦誕生(熊本県飽田郡)

1924年 金 信洛 (力道山)誕生(朝鮮・咸鏡南道)

1929年 第1回 御大礼記念
                    天覧武道大会

1934年 2回 皇太子殿下御誕生奉祝 
                    天覧武道大会

1935年 木村政彦 拓殖大学予科進学

1938年 馬場正平 誕生(新潟県三条市)

1939年 二次世界大戦開戦

1940年 金 信洛 (力道山) 二所の関部屋入門

1940年 第3回 紀元二千六百年奉祝
          天覧武道大会

1941年 木村政彦 拓殖大学卒業
                                 (卒業後に兵役)

1945年 第二次世界大戦終結

1950~53年 朝鮮戦争

1950年 力道山 大相撲廃業






巨人 ⑩ 国士無双で、銘木ライダーさんから頂いたコメント

それにしても木村の右手首太いですね
日本人とは思えない太さです

着物を着てますがものすごい体の厚みです

効果的なマシンやプロテイン、ステロイドもない時代にこれだけの体を作り上げるのは並大抵ではないと思われます






巨人⑪断髪から少し間が空いてしまいましたが、木村政彦の事が気になって、例のアレを読んでました。


G馬場との直接の関係性というと、それほど深くは無いのでさらっと流そうと思っていたのですが、日本のプロレスの歴史に於いてこの人の役割は非常に重要で、ある意味キーパーソンと言っても過言ではない人物。そして当然の事ながら、この人の周りにも個性豊かな人物が沢山集まり、魅力的なストーリーを紡いでいる。

ひとつの事柄も、見る角度によって全く別の物語になってしまう事もあり、ただ力道山とあのような試合をした男だけで終わらせてしまうには余りにも勿体無いこの人物。

木村政彦はまだ本編で登場しますが、彼を取り巻く格闘家達も(外伝)という形で、昭和プロレス史のサイドストーリーとして少ずつ取り上げたいと思います。


手始めに牛島辰熊に登場して貰いましたが、当然知らない人はなんだ? 脈略もなく変なオッサンが出て来やがってという話ですが、木村政彦牛島辰熊の関係を含め木村政彦の事をもう少し掘り下げましょう。







加勢川
G馬場が子供の頃より、リヤカーを引く事で自然にピッチャーに必要な強靭な足腰を手に入れたのと同様、政彦の家もかなり貧乏で、幼少の頃より父親の仕事場である加勢川の激流に立ち、ザルを使っての砂利取り作業を手伝う事で強靱な足腰が育てられている。



熊本の怪童
10歳で古流柔術竹内三統流柔術道場に通い始めた政彦は、通常の人間が2~3時間稽古を行うところ、出稽古も含め1日に5時間を超える練習量で実力をつけ、旧制鎮西中学時代には各種大会を圧倒的な強さで優勝し、「熊本の怪童」「九州の怪物」と全国にその名を轟かすようになっていた。 





「誘ってくんなっとは、嬉かばってん・・・」


この頃、政彦の元には既に全国の大学からスカウトが来ていた。

しかし、たとえ学費が免除されるとしても極貧の木村家には仕送りをするだけの余裕が無く、柔道は中学までで辞め、卒業後は父親を手伝い川砂利採取の仕事をする事を政彦も納得していた。


そんな政彦の元に現れたのが、旧制鎮西中学OBであり、拓殖大学の師範を務めていた「鬼の牛島」の異名を持つ牛島辰熊だった。

「そぎゃんこつは気にせんでください。私の家から通えばいいんですから。飯も食べさせますし、小遣い銭も渡します。彼は柔道界の至宝です。柔道を続けさせてやってください。私に預けて頂ければ、政彦君ば必ず日本一の柔道家にします」

と半ば強引に両親を説得し、内弟子として拓殖大学予科(現在でいう付属高校)への進学を決めた。



1935年 政彦が故郷の熊本を離れ東京の牛島塾に入門したのは、奇しくも正平信洛と同じ17歳の春の話。




鬼が鬼を育てる
牛島の柔道は現在のスポーツとしての柔道では無く、あくまでも武術として実戦で通用しなければ意味が無い。との信念の元、乱取りの際は投げ技・寝技に当て身(打撃)も加え転がしてはぶん殴り、更に締め上げるという壮絶な物だった。

牛島は「政、お前はチャンピオンになる男だ。このくらいで音を上げるな」と、自分の持てる全てを託し鍛え上げ、木村もそれに応えメキメキと力を付けて行った。

当時を振り返って、二人はこう述懐している。

「オレは本当に人間だろうか。もしそうなら、何か人間としての幸せがあるはずだ。たまには楽しさを味わってみたい、と何度も思った」

「彼には死の極限ともいうべき訓練をした。鍛えがえのある男と見たからこそ、他のやつ以上のことをさせたのだ」
(1983年朝日新聞より)



この頃の木村は柔道の練習と共に剛柔流空手と松濤館空手の道場にも通い、打撃技を習っており、特に剛柔流空手においては、師範代を務めるほどの腕だった。



3倍努力
「一生に一度だけでいいからチャンピオンになりたいと思っていたが、実際に優勝旗を自らの手に握ると、もう誰の手にも渡したくないという気持ちになっていた。」

元々人の倍の稽古を行なっていた木村だが、勝負には紛れが有る。勝ち続ける為には人の3倍の努力が必要だとの発想に至り、拓大に入ってからの木村の練習量は10時間を超えた。


朝4時に起きて巻き藁を1000回突いてから、朝10時から夜11時まで警視庁や拓殖大、講道館の道場で乱取り稽古する。 

帰宅後は腕立て1000回、80キロのバーベルを600回挙げ、師の牛島にならい大木に帯を巻いて打ち込み1000回。遂にはその大木を一本枯らしてしまったという。
*このウェイトトレーニングのバーベルは150キロ、200キロと段々と重さを増して行き、バーベル代わりにトロッコの車軸を取り外した物(250kg)も有ったという。

それだけでは満足出来ない木村は、「寝ている時は練習をしていない」と考え、睡眠時間を3時間にし、しかも睡眠中にもイメージトレーニングをしていた。

戦後は米兵のヘビー級ボクサーとスパーリング中心の練習をこなしてボクシング習得にも挑戦した。


この総合格闘家のように貪欲に強さを追い求める姿勢。数々の武勇伝によって鍛え上げられた木村の肉体は通常の人間の域を越える物になっていた。


一番左のゴリラが木村政彦。右側に並ぶ男達が貧弱に見えてしまうが、これは木村が人間離れした体型をしているだけで、真ん中は拓大の柔道部ナンバー2全日本クラスの猛者で、右側は皇宮警察警視の剣道家と、この二人も並みのアスリートではない。


張り出した太ももに、引き締まったウエスト。特筆すべきは、このとんでもない肩幅の広さだろう。写真をよく見て貰いたいのだが、左肩に比べて右肩の方が長いのが分かるだろうか?  これは大木を枯らせたという、連日の打ち込みによって左肩に比べて右肩が異常に発達したものといわれる。


そもそも昔話というのは段々と尾びれが付き話が大袈裟になる物なので、この武勇伝がどこまで本当の話なのかは分からない。しかし、人間の骨格さえも変えてしまうトレーニングというのは、常軌を逸脱した物だった事は間違いない。



心臓とまって攻撃止
牛島辰熊の柔道の信条である。

「鬼の牛島」の攻撃精神を受け継ぐ「鬼の木村」柔道も、攻撃につぐ攻撃で相手に攻める隙を与えず攻め抜くという物。このサイボーグのような肉体で、攻め立て続けられては相手はたまった物ではないだろう。


そして「鬼の牛島」から引き継いだのは攻撃だけではない。


木村は自伝で試合前の調整法を6点挙げているが、その内容はこの体からは想像出来ないほど細かい

1.試合への闘争心を煽る為、吉川英治の『宮本武蔵』 『真田幸村』などを読む。

2.無防備の状態で前絞め40回落ちる寸前まで絞めて首の筋力強化。

3.試合3日前には稽古を3時間に減らし、2日前は30分の撃ち込みのみ、前日には準備運動だけを行なう。リラックスし、必要以上は口もきかない。

4.立ち木への撃ち込みもウェイトトレーニングも腕立て伏せも、10日前から中止する。

5.試合3日前に爪を切る。短すぎるとそこから力が逃げる。爪に及ぼす力といえど無駄には出来ない。試合当日に丁度いい長さにする為には3日前が最適である。

6.入浴しない。湯冷めして体調を崩す恐れがあるし、体から脂肪分が抜け、筋肉がほぐれすぎて気怠くなるからだ。

(木村政彦自伝 『わが柔道』)


これだけ筋肉量を誇りながらも、短すぎるとそこから力が逃げる。爪に及ぼす力といえど無駄には出来ない。との徹底ぶりからも、この男の勝負に対する異常な執念が伺える。

これも「試合に負ける事とは、死ぬ事と同義である」という、「鬼の牛島」から引き継いだものだ。



悲願
「鬼の牛島」に引き取られ、拓殖大予科、拓殖大学と6年の学生生活を牛島塾で過ごしたこの間木村は、拓殖大予科を高専柔道大会優勝に導き、日本柔道選士権大会3連覇など輝かしい戦績を残しているのだが、やはりこの師弟物語のハイライトといえば天覧に尽きるだろう。


1940年 木村が最終学年になるこの年は、神武天皇が大和の国橿原で即位の大典を上げてから二千六百年に当たるとされ、この紀元二千六百年を記念し第三回の天覧試合の開催が決定した。当然、木村は指定選士として選ばれている。

正式名称は、紀元二千六百年奉祝天覧武道大会。昭和3度目の天覧試合だった。

過去、第一回、第二回大会と優勝を逃している牛島辰熊は、この日の為に木村をスカウトし鍛え抜いていた。

1935年 故郷熊本の地より「鬼の牛島」が連れて来たやんちゃ坊主は、6年の歳月を経て「鬼の木村」と呼ばれ、現役時代の自分の分身といえる程までに成長していた。

年が明け卒業すれば召集される可能性は高い。そうなれば最低3年間は道着に袖を通す事は出来ないだろう。いや、最悪の場合は戦死も考えられる。師弟の悲願達成の舞台はギリギリの所で何とか間に合った。


この大会は前2回大会より規模が大きく、柔道と剣道の他に弓道も加わり、3日間掛けて執り行われ、柔道は6月18日に1回戦~3回戦、1日置いて20日に準決勝と決勝が行なわれ、20日の準決勝以降が天皇が玉座に座る天覧試合だった。 



「俺が天覧試合着て行った紋付袴がある。あれを着ていけ」

試合前日、牛島の差し出した紋付袴は、身長170センチ 体重85キロの身体の木村の身体にぴったりだった。

この時の木村の体型は牛島の現役とまったく同じで、その着物はまるで木村が袖を通してくれるのを待ちわびていたようにも感じられる。


「俺は2回も出場して本望を遂げる事が出来なかった。お前はしっかりやってくれ」
 
そう言って牛島に送り出される木村の心には何の迷いもない。


木村は既に腹を括ってい



負ければ、腹を切る。






二人三脚
木村が塾に帰ると、すでに酒肴の準備が整っていた。


牛島は、木村の杯に酒を注ぎながら声を掛ける。

「塾に来てからお前が一生懸命やったからだ」


牛島の言葉に一瞬躊躇いながらも、感無量で師匠の杯を飲み干す。

この時木村の脳裏の過ぎったのは、牛島塾に引き取られてすぐ、17歳春の昇段試験。


この日、木村は四段の8人を抜き、9人目でついに力尽きて明治の大学生に投げられたが、抜群の成績で五段昇格を果たした。

喜び勇んで牛島に報告した木村だったが、試合の詳細を聞いた牛島はいきなり殴り倒してこう言った。

「試合は武士がお互いに白刃の刀を抜き放って殺すか殺されるかの真剣勝負をするのと同じだ。相手を投げるというはすなわち殺す事であり、投げられて負けるのは殺されるという事だ。お前は8人殺して9人目に殺された。木村という人間はいまごろ地獄の3丁目あたりをうろついているんだ。いいか、おまえが柔道を志す人間なら、試合はどんな強豪が何十人いようと、投げ飛ばしてしまうか、それとも中途で引き分けにするかによってのみ命をながらえる事が出来ると思え。わかったか」

どんな大きな大会での優勝を報告ようとも、せいぜい「ご苦労」と、素っ気無い一言だけで、これまで木村は1度も牛島に誉めてもらった事が無かった。



1937年 拓大予科3年、20歳の木村が全日本選士権を初制覇した時のこと。

当時の全日本選士権大会は、一般の部と専門の部に別れており、柔道を生業として飯を食う専門家をプロとして、一般の学生や社会人とは別にカテゴライズして日本一を競っていた。

当然学生の木村の出場枠は一般の部になるのだが、牛島は主催者側の反対を押し切り、事実上の日本一を決める専門の部に木村をねじ込んだ。


学生の専門の部への出場は史上初の事で、20歳1ヶ月での史上最年少優勝の記録は、1997年山下秦裕に破られるまで40年間守られる事になるのだが、この時も牛島は木村を厳しく叱り付けた。

「一度くらい勝って喜ぶな。十連覇してからだ」



流石にこの時ばかりは誉めてもらえると思っていた木村は、少なからずショックを受けながらもこう答えている。

「十連覇ではなく二十連覇を狙います」



どうしようもない意地っ張りのふたりだったが、実は優勝が決まった瞬間、役員席で涙を流す牛島の姿は何人もが見ていて、それは木村の耳にも入っていた。



木村は振り返る。
「思えば、昭和十年の春、牛島先生を頼って熊本から上京し、拓大とともに過ごしたこの六年間が、私の長い柔道生活の間でも、もっとも充実した、華やかな、同時にもっとも苦しかった時代であった」


二人三脚で歩んで来た師弟が、悲願の天覧試合制覇の夢を叶えたのは、木村政彦がまだ22歳の時の事。

本来はこれから円熟の選手生活を向かえるであろう年齢だが、この鬼の師弟物語のクライマックスが、同時に木村政彦の柔道家人生のピークでもあった。


昭和15年(1940年) 天覧試合制覇を成し遂げ、昭和天皇から下賜された短刀を持つ木村雅彦。


1940年6月 鬼の師弟が悲願の天覧試合を制覇し祝杯を挙げているまさにその時、パリの街がナチスドイツによって陥落されようとしていた。


史上最強の柔道家木村政彦の人生は、世界最大規模の大波に飲み込まれて行く。
 

そして金信洛が凍てつく玄界灘を船で渡ったのは、この大会の4ヶ月前のこと。







『先輩、やっぱり「鬼の木村」の師匠だけあって、牛島先生ってのも半端じゃないですね』
 

「ま~風貌からして普通じゃないよね。あの殺気をはらんだ目を見れば、誰でもびびっちゃうんじゃないかな? 東條英機を暗殺して戦争を止めようと考えるくらいだから、そもそもが普通の人であるはずが無いんだけどね」
 

『牛島先生は、武道家であり思想家でもあったんですか?』

 
「この当時は動乱の時代だからね。欧州列強国によりアジアの植民地支配が進む中、アジアの盟主である大日本帝国はどうあるべきか? 武道の精神を持って天皇陛下の下アジアを1つに纏めよう。と、東亜連盟っていう思想団体で活動してるんだ。

講道館の嘉納治五郎しかり、多かれ少なかれみんなそうゆう思想を持っていた時代だったんだよ。

今の人に分かり易く言うと、佐山聡を更に頑固にして、自分にもめちゃくちゃ厳しくなったような人なんじゃないかな?」
 
 

『佐山先生は何度も体重落とすって言いながら、甘い物やめられなくて、なかなか痩せられませんよね』
 

「彼は、羊羹をポッキーみたいにむしゃむしゃ食べ捲くるって話だから、そりゃ~痩せるはずが無いんだけど・・・

要点はそっちじゃなくて、極端な右翼思考の方だね」



 


『でも、悲しい時代ですね。木村先生も御国の為、天皇陛下の為と言って、全盛期を棒に振って戦場に借り出されて行ったんですね。これだけの格闘サイボーグのような人だから、戦場でもさぞや活躍して武勇伝を打ち立てたんでしょうね?』

 
「いや星君、木村政彦は一度も戦場には行って無いんじゃないかな?
こと柔道に於ける強さへの飽くなき探究心というのは、そのままそっくり木村政彦という器に移し替えられ、牛島辰熊の分身ともいえるこのふたりだけど、思想的な部分だけは一切伝承されなかったってところが、木村の人間的な面白さでもあるんだよ」
 

『柔道着を脱いでしまえば、まったくの別人だったという事ですか?』


「大正産まれの頑固者の牛島辰熊に対して、木村政彦というのは大酒飲みの女好き。それに度を越した悪戯好きの豪放磊落な人物だったらしいんだよ。
その人間性は弟子たちの中でも賛否両論別れるところで、木村政彦というのは人間らしくて素晴らしい人だったと愛された反面、その強さは疑いようが無い物だけど、精神的な部分では全て牛島先生から学んだ。なんて言う弟子もいるらしい」


『先輩、度を越した悪戯ってのは一体?』


「例えば学生時代、牛島塾の話だけど、自分が食事当番の時、味噌汁に便所の脇に生えてるペンペン草入れてやったら、みんな固くて食えないって文句言ってくるから、こんどは松の葉を入れてやって・・・」


『あの針みたいなヤツですよね? そんなの食べたら喉に突き刺さっちゃうじゃないですか!  味噌汁にペンペン草入れたり酷過ぎますよ。
なんだか野毛に有る、ライオンマークの寮の昔話を聞いてるような、ほんと無茶苦茶ですね』


「この話は続きが有って、その内容はもっと酷いんだよ。当然そんな物食べられないからみんな葉っぱを避けて汁だけ飲むんだけど、その汁には味噌と一緒に俺のク○が・・・
('・c_,・` )プッ (以下自粛)

兵役に行っても、気にくわない上官が寝てる間にパンツを脱がしてチン○に悪戯したり、なんと言っても日本一の柔道家だから、駐屯地の近くの中学校に武術指導頼まれたりするんだけど、その帰りに居酒屋に寄って一日中飲んだくれて帰って来ない。って感じでヤりたい放題だったみたいだね。
結局、兵役も肘関節の機能不全が原因で入院して途中で退役してるんじゃないかな」


『とんでもないトンパチ野郎ですね・・・
肘は現役時代の無理がたたって悪化したんですかね。退役するくらいだからよっぽど酷かったんでしょうね』


「いや、ただ単にやる気が無かったんだろうね。
柔道の選手は骨折しても試合続けるなんて人が居るでしょ、これだけの人が肘が痛いくらいで泣き言いう筈が無いじゃない?
師匠の牛島辰熊が武道精神を持って世界を動かさんって、国家の為に必死に駆け回っている頃、そういう思想を一切持ち合わせない木村政彦は、御国の為に戦争に行くなんてのは馬鹿馬鹿しくてやってらんね~って感じで、適当な言い訳してとっとと退役しちゃったんじゃないかな?
牛島塾を出た辺りから木村政彦は、大酒らって女を買ってという、放蕩三昧の日々を送って、ろくに稽古もしなかったって話だね」
 
 
『先輩、なんだか橋本真也の話を聞いてるような・・・』
 



 「確かにキャラ的には、橋本真也と被る所があるよね。多分近くに居たら凄い迷惑なんだろうけど、なんだか憎めない。っていう、愛すべきトンパチ野郎って感じ?  
でも、この思想の違いというか、破天荒な性格が原因で、後に頑固者の師匠との確執が生まれる事になるんだよ」