巨人 ⑲ おとぎ話 第二話 さるかに合戦 第3部 播種(前編) | まつすぐな道でさみしい (改)

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ジョーサン道の正統後継者。

師匠は訳あって終身刑で服役中…

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大相撲協会非公認応援blog

1904年 牛島辰熊 誕生(熊本県横手町)

1913年 エリオ グレイシー 誕生
、、、、、(ブラジル パラー州ベレン

1914年 前田光世 渡伯

1917年 木村政彦 誕生(熊本県飽田郡)
1922年 大山倍達(崔 永宜) 誕生(朝鮮全羅北道)
1924年 力道山 (金 信洛) 誕生(朝鮮・咸鏡南道)

1932 エリオ グレイシー 公開他流試合

1935年 木村政彦 拓殖大学予科進学

1936 木村政彦 済寧館武道大会
、、、、、、、、、阿部謙四郎に敗北

1936~37 全國高専柔道優勝大會
、、、、、拓殖大学予科連覇大将木村)
1937~39年 全日本選 木村政彦三連覇

1938年 馬場正平 誕生(新潟県三条市)

1939年 第二次世界大戦開戦

1940年
2 金 信洛(力道山)二所の関部屋入門
6月20日 第3回 紀元二千六百年奉祝
、、、、、、天覧武道大会 木村政彦優勝


1945年 第二次世界大戦終結

1949年 全日本選手 木村政彦優勝

1950年
3月2日 プロ柔道国際柔道協会発足
6月25日 朝鮮戦争開戦
911日 力道山 大相撲廃業

1951年
1月27日 木村政彦 渡米(ハワイ
4月22日 木村政彦 山口利夫
、、、、、プロレスデビューハワイ
7月25日 木村政彦 渡伯
9月30日朝鮮戦争在日国連軍慰問
、、、、 プロレス大会」第1回大会開催
10月23日 マラカランの屈辱
10月28日 第4回大会
、、、 力道山 遠藤幸吉プロレスデビュー
、、、、、、、、、、、、、、、(日本)

1952年
2月3日 力道山 渡米(ハワイ
6月10日 力道山 米本上陸
、、、、、、(サンフランシスコ)

1953年
7月3日 日本プロ・レスリング協会発足
7月27日 朝鮮戦争休戦


1955~59年 馬場正平 巨人軍入団









葛藤に苛まれる中、「週刊ゴング」の編集長に就任した1999年の出来事。1.4東京ドームから始まった大国・新日本プロレスの綻び。大仁田厚の新日本マット初参戦、橋本VS.小川のセメント事件、そして、度重なる猪木の強権発動から狂い始めた新日本マットの磁場。次々と総合格闘技のリングに送り込まれるプロレスラーたち。それに耐える者、去った者。あの時代、新日本はもがき苦しみながら、それでも運命に逆らうことができずに転落の道を歩み始めた。

GK金沢克彦・子殺し、
………猪木と新日本プロレスの10年戦争)







少し長くなりましたが、さるかに合戦もこの第3部でお終いになります。

このお話は3部構成でひとつの話になっておりますので、少し間が空いてしまいましたが、さるかに合戦1~3部で1話とお考え下さい。

(参照 巨人 ⑲ おとぎ話 第二話 さるかに合戦第1部 移民)

(参照 巨人 ⑲ おとぎ話 第二話 さるかに合戦 第2部 めばえ)



私たちがハワイを巡業している頃だった。流行歌手の東海林太郎がハワイにきているということをきいた。なんでもブラジルへ行ってその帰りによったものだということだった。

これをきくと、早稲田出身の山口六段は、東海林太郎の先輩にあたるというので、さっそくたずねていった。ところが、そこでたいへんな話をきいてきたのである。

東海林太郎は、このときブラジルにいって、靴三十足をもらったが、そんなに持てないのでみんな荷造りして送ったとか、飛行機の上から見えるだけの土地をやるといわれたという話である。

そこで、私たちもブラジルへいこうではないかということになった。

折も折り、ブラジルのサンパウロの日系新聞社の社長から、「一度こちらへきてみないか」と手紙をもらった。私たちは山口利夫の話をきいたあとだったので、むろん、二つ返事で引きうけた。

(木村政彦自伝『鬼の柔道



天皇帰一説
1951年 7月20日 力道山が政財界の大物を後ろ盾に付けプロ・レスリングの団体を旗揚げしようと画策し走り回っている頃、木村政彦率いる桃太郎一行は新たな鬼退治の旅に出掛けます。


こちらの鬼ヶ島はハワイとは少々事情が異なり、敗戦から既に6年もの歳月が経ったにも拘らず、25万人といわれる日系コロニアの中では日本はまだ戦争に負けていないと信じる勝ち組と呼ばれる人々と、日本が戦争に負けたという事実を素直に受け入れようと主張する負け組の2派に分かれ、時には天誅と称して日系人同士で殺し合いに発展するという深刻な事態に陥っていました。

この背景には、敵国日本との国交を断絶していたブラジルでは戦中から戦後に掛けて憲法により日本語の使用、日系人の集会、日系人による新聞発行などが禁止されており、全体の2割ほどの知識層以外の日系人はポルトガル語を読むことが出来ず、情報が遮断されていたという事情が有りました。


1946年 この事態をなんとか収めるには邦字新聞の発行が不可欠だと考えた水元光任はブラジル外務省新聞情報局に何度も直談判を繰り返し、その結果憲法審議会本会議で日本人入国禁止条項が審議に掛けられることになります。この審議は99対100という一票差で条項廃止が決まり、移民の再受け入れと邦字新聞の発行許可が認められたのです。


同年10月 この決議を受けて、水元は念願のサンパウロ新聞を創刊します。

最初は学級新聞のガラ刷りのようなものだったようですが、8割がポルトガル語を読めないという状況の日系コロニアでこの邦字新聞は一気に部数を伸ばし、社屋も拡張し紙面も徐々に本来の新聞らしいものになって行くのですが、状況はそううかうかもしていられるものでは有りませんでした。

サンパウロ新聞の後を追う様に、戦争により発行を中止されたいた他の新聞社も次々と復刊、更には新規参入の新聞も創刊され、25万人の日系人に対して合計8社もの新聞社が部数を食い合うという戦後時代に突入して行きます。


ここで各紙がもっとも頭を悩ませるのが、社説であり、その方針です。勝ち組に付くのか負け組に付くのか、それによって大きく販売部数が変わってきます。

当然、売り上げを伸ばすには全体の8割を占める勝組寄りの記事を書くしかないのですが、日系コロニアに正しい情報を流すことで事態を鎮静化させようと政府に掛け合い、新聞の発行を認めさせた程の気骨の持ち主である水元にとって、販売部数確保の為に嘘の情報を流すなどジャーナリストとしてはあるまじき行為です。

水元は、日本は戦争に負けたのだ … そう紙面で必死に訴え、勝組につく8割の日系人の啓蒙に努めますがまったく効果はなく、反対に勝ち組の人達に社屋を襲撃される事になり、「サンパウロ新聞は従業員が全員ピストルを携帯している」という偽の情報を日系コロニア内に流すことでようやくこれを抑えました。

遠く日本の地を離れ地球の裏側で奴隷のような扱いを受ける日系人にとって、自分は大国ロシアをも打ち負かした大日本帝国の出身である。ということが唯一の心の拠り所であり、日本が戦争に負けたなどとは受け入れがたい事実だったのです。そんな状況下で勝ち組の思想はある意味新興宗教のような物だったのかも知れません。


そんな状況を打破する為に水元が考えたのが「天皇帰一説」でした。

「勝ち組やら負け組やらの争いは愚かなことだ。日本は負けたのだ。しかし本国日本に天皇陛下がおられるかぎり日本は不滅である」

勝ち組と負け組の双方を納得させ、再びコロニアをまとめるには天皇制を謳うしかないないと考えたのです。インテリの多い負け組のなかには冷笑する者もいましたが、8割を占める勝ち組の中にはこれを支持する者も現れ出しました。

そしてこの路線をさらに推し進める為に水元が考えたのが、天覧試合を制した天皇制大日本帝国の象徴である木村政彦を本国日本から呼ぶことでした。
(参照 巨人 ⑱ おとぎ話 第一話 鬼ヶ島)

戦中は不敗の柔道王として皇軍進撃の宣揚に利用され、また師匠牛島辰熊の東條英機暗殺に利用されそうになるなど、常に思想家に利用されて来た木村は、戦争が終わったこの時になっても時差をもって戦争の続くブラジルで利用されることになるのですが …

当の本人はまったく思想などを持たずに生きている為、利用されていることすら気付いておりません。


ここで水元の誘いを承諾した一行は、「俺はハワイで柔道を普及したい。プロ柔道はもうごめんだ」と繰り返す坂部保幸をハワイに残し、木村政彦(七段)山口利夫(六段)に、サンパウロ新聞の代理人が急遽日本で調達した加藤幸夫(五段)を新メンバーとして加えた新生桃太郎一座として7月20日 一路ブラジルに向かいます。


ブラジルでの事情を知らない桃太郎一行は、靴三十足をもらったとか、飛行機の上から見えるだけの土地をやると言われた。などの話に乗せられて、二つ返事で地球の裏側まで遠征することを決めてしまうのですが …

この当時の革靴が大変高価なものだったとの想像は出来ます。しかし、未開のジャングルの土地をいくら貰ったところで、何の役にも立たないという所までは考えが回らないのでしょう。

まさに、成り行き任せの行き当たりバッタリ … トンパチ野郎の本領発揮です





楽園
1951年 7月25日 欧州航路ロンドン経由でリオデジャネイロに入り、そこからプロペラ機に乗り換え 26日 サンパウロに到着した桃太郎一行はこの地でハワイ以上の熱烈歓迎を受けるのだが、木村たちは早速この地の勝組・負組論争に巻き込まれることになる。


一行が到着してすぐに開かれた歓迎会の酒宴の席のこと。

「なあ教えてくれ、日本は戦争に負けてはいないんだろ?」

「いえ、戦争には負けましたよ」

「そんなことがある筈ないだろう! 嘘をつくんじゃない!」

何も知らされずにやって来た木村たちは、戦争が終ってもう何年も経つのにいまさら何を言ってるのだろうと面食らってしまう。しかし、どちらと言っても誰かが怒り出すという命の危険すら感じさせるような状況が続き、次第に木村たちは「戦争はまだ終わっていません」「結果は知りません」と、答えるようになっていた。

これには多少の罪悪感を感じずにはいられなかったが、それさえ気にしなければ快適な遠征だといえた。


ブラジルでも木村の人気は凄まじく、来伯時点からブラジル全土から対戦要望が届き、1日おきに興行が組まれ程の盛況ぶりで、主催のサンパウロ日報は興行収益と販売部数増大で、後に自社ビルを建てるほど潤い、木村たちのギャラも3倍に跳ね上がり毎晩酒と女が充てがわれた。

興行のない日は道場を回り稽古をつけてやる傍ら、看板や扁額を書いてくれとせがまれ、その度に50万円程の謝礼を受け取っていたというから木村の相当な人気だったのだろう。


そのうち調子に乗った木村は、紅白試合をやらせ段位認定をして金を稼ぐようになる。これには講道館から猛クレームが付くのかだが、もう今更アマチュア柔道に戻る気などない木村からすれば、そんなことは知ったことではない。

木村が地球上で唯一恐れるのが鬼の師匠牛島辰熊であり、牛島の目の届かないブラジル地で、木村は毎晩のように大酒を浴び、女を抱きながら段位を売るという、お気楽な日々をすごしながら、この遠征で現在の紙幣価値に換算して約6億円を稼いだといわれる。ここは木村にとってまさに天国のような場所であった。
(参照 巨人 国士無双 (外伝)② 鬼と鬼)





しかし、うまいことばかりがいつまでも続くわけはない、このブラジル遠征に水をさす男があらわれた。柔道六段エリオ・グラッシーである

木村政彦『鬼の柔道




エリオ・グレイシー
大勢の関係者や記者達が集まる中、木村が「俺と対戦する選手は一体どこにいるんだ?」と聞くと、すぐ横にいたひとりの小柄な男をみんな指差した。この男こそ木村の対戦選手エリオ・グレイシーだった
「こんな小さな奴が俺と?」と笑う木村に対し、エリオの頭の中はもう木村との戦いで一杯だった。

ここで木村はエリオにもうひとつの挑戦状を叩きつける。木村と戦う前にエリオが今回の戦いにふさわしい相手なのか、まず加藤と戦ってからその判断を下すという。

しばらくやりとりしたが埒はあかず、しかたなくエリオは加藤と戦うことになった。エリオは「加藤を倒せば木村を引っぱり出せる」と闘志を燃やし、逆に木村は自分が出るまでもないだろうと、たかをくくっていた。


加藤は当時22歳、体格は160cm70kgと小柄ながら全日本選手権出場レベルの実力を持ち、20歳で5段にスピード昇段したほどの猛者で、階級分けが確立した現在であれば、オリンピック代表候補に入ると思われる実力の持ち主。


しかしこのエリオという男は、木村が考えるほど与し易い相手ではなかった。


1932年 エリオが初めて公開他流試合を戦ったのは、まだ18歳の時だ。

相手は1928年レスリング世界選手権95キロ級2位のフレット・エバート。ルールは打撃なしでタップか失神のみで決着をつけるものだったが、この時は午前零時から試合を始め、午後2時に警察にストップされるまで延々2時間10分を戦って引き分けた。その後すぐプロボクサーのアントニオ・ポルトガルとバーリトゥードルールで戦い、これを裸締めで下している。

その後バーリトゥードを中心に、幾多の異種格闘技戦をこなしながら腕を磨いていったエリオは、この頃10年間無敗の男としてブラジルでは英雄視される格闘家であった。


地元の新聞は、ブラジルの英雄であるエリオが負けるはずがない! と書きたて、邦字新聞もまけずに、エリオ・グラシエはずる賢い戦術を使うが日本の名誉を掛け加藤が必ず勝利する と煽る。この一戦はさながら国同士の威信を掛けた戦争の様相を呈していた。





抗議文
1951年 9月6日 午後9時 加藤とエリオの対戦は、マラカニアンスタジアムの横にある室内競技場で行われた。

会場は1万人以上の観客で埋め尽くされ、VIP席では州知事、市長代理、米国大使らが見守る中、この試合は10分3R、投げ技の一本なし、押さえ込み30秒による一本もなし、ポイントなしの絞め落とすかタップのみで勝負を決する完全決着ルールで行なわれた。


この試合、第1Rは加藤の優勢で進んでいる。

エリオと組み合った加藤は、袖釣り腰や得意の大内刈りで豪快に投げ飛ばす。立ち技では圧倒的に加藤の方が上手で、防戦一方のエリオは加藤に必死にしがみついて凌ごうとするが、これに業を煮やした加藤はエリオを抱え場外に投げ落としまう。

これにはブラジル人の観客からスージョ! スージョ!(汚いぞ)とのブーイングが飛び交い、リングには石やレンガなどが投げ込まれた。


第2Rも加藤の投げを必死にしがみついて凌ぐエリオが何とかグラウンド持ち込み寝技で攻めようとすらと、今度は加藤が場外にエスケープという展開で、立ち技の加藤と寝技のエリオの試合は全く噛み合わないまま第3Rまでもつれ込み、最後は猪木・アリ状態で両者とも決め手に欠け、決着の付かぬまま時間切れ引き分けに終ってしまうのだが、この試合内容が大問題になってしまう。


この試合に対してブラジル人でなく日系人の間で抗議が相次ぎ、リオ市在住の日系人の連盟で『意見書』がマスコミ各社に送られたのだが、この文面が日系人すべての怒りを代弁している。

意見書
九月六日の国際柔道試合の加藤五段の態度に反省を促す次第である。いかに職業選手とはいえ、その態度には吾々リオ市在住同胞の名誉に関するものとして同氏に警告書を送るの段に至れるものであります。そもそも柔道の根源は武士道也、武士道を売り物にするにも程があり、試合中リングより二回も逃げ出したるは卑怯千万の態度で内外人を問わず心ある者をして誠に見苦しき態度なりきの誹りを蒙るに至りしは、同氏の人格の程が疑わるる次第である。勝負は時の運であり、正しく戦うの精神が即ち武道の目的であるはずだ。(中略)よくよく反省を以って再度かかる態度無きを望む
(バリスタ新聞9月24日付)

ま~要するに、てめぇ~柔道舐めてんのかコラ! プロレスじゃねんだから場外エスケープなんぞしてんじゃねぇよ、勝っても負けても正々堂々と戦えうのが武士道ってもんだろう!  と言いたいのだろう。この試合によって桃太郎一座の人気も暴落し、加藤は何がなんでもエリオを倒さなければならない状況に追い込まれる。





実戦を忘れた戦後柔道
9月29日 バカエンブ室内競技場。

実力的には段違いです。今回はきっちり勝ちますから見ていて下さい。

邦字新聞の取材に自信満々で答える加藤の隣で、木村と山口は懐疑的な視線を送っている。

戦前派の柔道家である二人から見ると、加藤の柔道は些かキレイ過ぎるということが懸念材料だった。


試合前、三人は小一時間も作戦会議を行っている。

「寝技勝負に行ったら危ない。相手はかなり寝技をしっている。手足の長いああいうタイプは要注意だ」

「前回を見てもらえば力の違いがあるのはわかるじゃないですか?」

前回のエリオ戦同様、このオッサン達と若者の会話もまったく噛み合わない。


戦前と戦後というのは、決してただ時間が経過しただけの地続きではない。

日本はあの敗戦によってそれまでの価値観が1度リセットされ、急激な変革を迎えており、柔道もその例に漏れず戦前と戦後では別の物となってしまっていた。


戦前派の木村や山口にとっての柔道とは武道であり、相手を仕留め完全決着をつけるものだった。

極端な話をすれば、木村や山口の過ごした戦前、戦中の日本は軍事国家であり、学生の柔道とは軍事訓練の一環という意味合いも持ち、その先には命のやり取りをも見越していた。

しかし戦後の柔道は講道館によるスポーツ化により、その本来持っていた実戦性が忘れ去られてしまっていることにこのオッサン達は危機感を持っているのだが、これを戦前の柔道と変わってしまったなどといくら言われたところで、戦後派の加藤にとっての柔道とは最初からスポーツ柔道のことであり、オッサン達に危険だ気を付けろといくら注意された所で理解出来ないことだ。

結局、この話し合いは何の結論の出ないまま加藤はリングに上がることになる。


完全決着
序盤の加藤は、前回のようにいきなり投げには行かず慎重にエリオの出方を伺っている。

試合中盤、ようやく加藤が思い切って左袖釣り込み腰を仕掛ける。エリオの体は大きく弧を描くのだが、長い脚がロープに掛かり反動で跳ね返った為ダメージは無い。加藤は寝技には行かず、エリオを突き放し立って再び組み合う展開に持っていく。

エリオは右足払い、左小外、右跳ね腰などを仕掛けるもまったく効かない。やはり立ち技ではレベルの違いは明らかで、勝利をを確信した加藤は一気に背負い投げ、さらに立ち上がったエリオを掴み背負いから払腰、大外刈りと投げつける。通常の柔道の試合ならば完全に加藤の一本勝ちである。

しかし、この試合は投げ技一本も押され込み30秒での勝利も無い。ギブアップか失神のみで勝敗を決する完全決着ルール。


この時エリオは受け身を取り、攻撃のダメージを最小限に抑えながらずっとチャンスをうかがっている。


一方、投げ疲れて息の上がった来た加藤
は観客に攻めろ!攻めろ!と囃し立てられ、このママでは埒が明かないと勝負に出る。

左袖釣り込み腰から払い腰のように変化しながらロープ際に押し込み、上から寝技勝負に持ち込む。

左袖釣り込み腰から払い腰のように変化しながらロープ際に押し込み、上から寝技勝負に持ち込むと、下になったエリオはオープンガードで隙間を作り、奥襟に右手を差し込んだところでガードポジションに移行して下からの前十字絞めに行くが、加藤も負けじと上からの前十字で締め上げる。

エリオの上半身がロープ外にはみ出している状態での我慢比べの展開にレフリーは屈み込んで趨勢を見守っている。


2分、3分 ...


最初に気付いたのはエリオだった。何度もレフリーにアピールしているが、上から攻めている加藤が優勢だと思っているレフリーは取り合わない。


「ストップ!」


異変に気づいた木村がタオルを投げ込み、ようやくゴングが打ち鳴らされた。

エリオが加藤の下から抜け出て立ち上がると、ブラジル紙のカメラマンたちが邦字新聞のカメラマンを押しのけて、絞め落とされた加藤の蒼白の顔に向けて遠慮なくフラッシュを焚く。

参考動画 加藤vs.エリオ



これは加藤が弱かったという単純な話では無い。

牛島辰熊が警告を発し続けた通り、戦後日本の柔道は本来持っていたはずの実戦性を失い、この地球の裏側には戦前の武道としての柔道が化石のように残っていた。

そしてこの完全決着ルールの前では相手を完全に仕留めるという部分で、加藤の学んだスポーツとしての柔道と、エリオの武道としての柔道との差が決定的な違いとして現れしまう結果となってしまった。







暴動
翌日のブラジルの新聞各紙には、絞め落とされて眼球が裏返り、口を開いた加藤幸夫の写真が一面トップに掲載され、その中には締め落とされた黄色人種という人種差別丸出しの大見出しをつける物もあった。


エリオの弟子たちは市内を棺桶を担いで練り歩いては「この中には日本の柔道家加藤幸夫の死体が入っている。我々の先生エリオ・グレイシーが倒したのだ。柔術名人エリオにご声援を」とがなっている。

観客とはいつの時代も実に勝手なものだ。前回の対戦で引き分けた時は、勝負は時の運であり、正しく戦うの精神が即ち武道の目的であるはずだ。などと抜かしていたくせに実際に負けてしまえ、木村たちが宿泊するホテルに日系人が毎日何千人と押し掛けてきて「このままでは我々はブラジルで生きていけない!」と泣いて責め立て、そのうち「日本人の恥だ!」「加藤を出せ!」「焼き討ちするぞ!」「国外追放だ!」「殺すぞ!」とまくし立てた。

毎晩遅くまで窓の下で喚かれ、木村たちはまったく外に出ることができなくなってしまう。

怒りを持った群集というのは本当に手が付けられない。後日、木村は「今まで生きてきて最も怖ろしい体験だった」と語っている。


こうなってしまうと、もう負け組・勝ち組などと論争している場合ではない。日本人の威信に掛けてエリオを倒さなければ収拾が付かないと、堪りかねたサンパウロ新聞社の水元社長が山口利夫に懇願した。


「山口さん、今度こそエリオを殺してやってください」


しかし、加藤と違って山口は慎重だった。


立ち技ならば簡単に投げることができる。押さえ込むこともできるかもしれない。山口利夫の実力は加藤幸夫を大きく上回るし、体重は120キロもあり、エリオとは圧倒的な体格差があった。

だが、それでも山口は肯かず「一晩考えさせてくれ」と言う。


加藤と違い戦前の柔道を体験してきた山口には、この完全決着ルールでエリオからタップを奪うことは困難だとわかっていた。エリオは加藤戦同様、山口が投げ疲れるのを待って寝技にくるだろう。そうなると間違いなく自分が不利になる。


そんな困惑した山口を横目に木村は、



「よし、俺が挑戦を受けよう」




 ・・・




「そのかわりお前これから一週間  ”女禁” な!」

















こんな大変な事態なのに …
そんな中学生みたいなノリで
本当に大丈夫なのかしら?  

そんな明子の不安をよそに、
物語は後編に続く。