『名将言行録の太田資正(三楽斎) ①」、「『名将言行録の太田資正(三楽斎) ②」の続きです。

以下の5つの逸話について、感想を書いてみました。

6.永禄四年の上杉謙信に対する支援
7.直江兼続との対話
8.国府台合戦で九死に一生を得る
9.上田安獨斎の童子との戦い
10.氏康、信玄、謙信、信長、家康を論じる



6.永禄四年の上杉謙信に対する支援

永禄四年の上杉謙信の関東入りの際、これを妨げようとする動きが関東の国人・国衆側にあったものを、資正が謀によって謙信有利に導いた、というエピソード。
初めて読みました。
上杉謙信の関東入りの際に、「太田資正は活躍した」とよく書かれていますが、その中身がよくわからんと思っていました。
関東の外からやって来る謙信のために、関東の内の反発を封じておく、というのは、関東にいる資正だからできる支援です。
真偽は分かりませんが、とても納得感があります。


7.直江兼続との対話

初めて読んだエピソードです。

上杉謙信・景勝に仕えた直江兼続は、太田資正を慕っていたようです。
永禄6年、資正は三年前に奪い取った武州松山城を北条氏康・武田信玄連合軍に奪い返されてしまいます。越後から救援に向かった謙信も間に合わず、資正は謙信から、「儂が着くまで何故持ちこたえられなかったのだ」と激しい叱咤を浴びせられます。
謙信は、北条・武田連合軍にやられてばかりにはいかない、と、近くにあった北条方の拠点・騎西城を攻め落とします。この時の上杉勢の勢いは凄まじく、北条氏康も武田信玄も、騎西城の救援に向かうことを躊躇したと言います。

【関連】
この時の謙信の怒濤の進軍については「太田資正の失敗⑥」を参照。

直江兼続が資正に尋ねたのは、この時の氏康と信玄の判断について。「謙信と戦うべきであった」と後悔した氏康と、「武田・北条連合で、単独の上杉を攻めたら笑い者になる」と不戦を良しとした信玄。兼続は、氏康、信玄の真意を自分なりに推測し、氏康の考えを指示します。
資正は、兼続の考え方を褒めつつも、信玄の真意への理解も示します。

若き英才兼続と、既にベテランの域に達していた資正が、名将達の判断を分析し合う様子が興味深い逸話です。
互いを認め合う資正と兼続の関係性も、素敵です。


8.国府台合戦で九死に一生を得る

本文中では「鴻の台」と表記されていますが、「国府台合戦」の話です。
戦い疲れ、ついに敵方の若武者に抑えつけりた資正。若武者は、太田資正の首が取れると緊張し、喉輪を外さぬまま首を掻こうとして上手くいきません。
それを見て、「喉輪を外せ」と教える資正。生死を賭けて戦う戦国の武士故の死に直面して堂々と振る舞う価値観が、まざまざと顕れているエピソードです。

ちなみにこの若武者は、教え通り資正の喉輪をはずそうとしますが、却って手こずってしまい、焦ったところを資正の家臣に討たれてしまいます。
資正は、九死に一生を得るわけですが、死を覚悟し命を捨てると決めると意外に死ねない、という興味深い逸話です。


9.上田安獨斎の童子との戦い

武州松山城を守る上田安獨斎(上田朝直)の童子と、資正の戦いの顛末、、、を描いているようなのですが。私の古文読解力では、意味が掴めないところが多く、理解できませんでした。


10.氏康、信玄、謙信、信長、家康を論じる

上杉謙信の家臣に請われ、北条氏康、武田信玄、上杉謙信、織田信長、徳川家康の誰が天下を取るかとの問いに、資正が己の見解を述べた。というエピソード。
氏康、信玄、謙信、信長、家康のその後があまりに的確に予言されているので、後世の創作という気がします。
ただし、江戸時代には「神君」であった家康を、「底意にすこしひねくりて」と評しているのは興味深いところです。

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