「『名将言行録』の太田資正(三楽斎) 」シリーズ(既にと続きました)の締めの回です。



11.資正父子、小田城を奪う

資正が岩付(岩槻)から追放され、常陸国の佐竹氏の客将として片野に居した時の逸話。異本小田原記からの引用のようです。

この頃から資正は、法名「三楽斎」を名乗ります。そこで、本稿でも以降は、三楽斎と表記することにします。

片野城に入った三楽斎にとって、当面の敵は、常陸国小田城の小田氏治。佐竹氏が三楽斎を客将として迎えたのも、小田氏との抗争に使うためだったと言います。
佐竹氏の期待通りに小田城を攻めた三楽斎ですが、小田氏治も反撃に。氏治は、三千の兵を率いて三楽斎の片野城を攻めます。入ったのは片野城を見下ろす佛乗寺山という天然の要害。対する資正の手勢は六百。地の利なく、しかも多勢に無勢。

危機に陥った三楽斎ですが、奇策によって窮地を打開します。なんと、片野城を捨ててて、小田氏治の居城・小田城を攻めたのです。氏治が「三楽斎が逃げたぞ」と喜んでいる隙に、息子・梶原政景と二手に別れて“樵道”を進み、小田城を攻め落とした三楽斎。
以降、小田氏治は、大幅に勢力を削がれたといいます。

この逸話を、異本小田原記は「三楽六百の小勢にて、三千の敵の城を取る。ためし少き次第なり」と絶賛して締め括っていますが、残念なことに名将言行録は、この部分は採用していません。
リズムもいいし、削る必要などなかったのに。


12.直江兼続、資正を誉める

これは、原文をそのまま味わうのが一番でしょう。
「直江兼続曰く、方今日本に於て大身小身の名将多くある中に、撰みて主人にせん時は、太田三楽と我君謙信公に若くはなし」

三楽斎ファンには、誇らしい逸話です。


13.小田原での秀吉との絡み

日本中の大名を動員して小田原を攻めた、豊臣秀吉の“北条征伐”。この一大イベントには、「片野の三楽」こと、太田三楽斎資正も参加しています。そして、秀吉と絡む三つの逸話を残しています。

その1。

なかなか落ちない小田原城の堅守に疲れた秀吉が、もし今年中に落城しなければ一旦陣を払い来年再度小田原を攻めたい、三楽斎はどう思う?と投げかけた時の逸話。
三楽斎は、小田原城の内部に広がる兵達の疲れや主の北条氏を忌む気分を読み取り、「御計略も候はんに、何條御上京とは仰せらるるにや、況て力攻杯にては左右なく、落城仕間敷」と秀吉の小田原攻めのやり方そのものにダメ出しをします。
ただ小田原城を包囲するだけの秀吉に、「城内は追い詰められているのだから、もっと計略を使うべし」とダメ出しをしたのですから、戦上手・計略上手を自認する秀吉は怒ります。

気分を害した秀吉は三楽斎を臆病者となじり、その場を去らます。三楽斎も腹に据えかねたか、引いたはしたものの、秀吉に聞こえるように「敵に背中を見せたことなど無い。小田原城は堅城だ。計略無で落ちるはずがなく、仮に落ちたなら儂を殺してもらって結構」(大意)と、大声を発したそうです。

ちなみに直江兼続も、秀吉から同じ相談を持ち掛けられましたが、こちらは、秀吉の“年内に落城せねば京に帰る”発言は本心ではないと見破ります。秀吉の小田原城攻めを称えた上で、もうあと一息で城は落ちます、と献策したそうです。長陣に飽く上方勢の雰囲気を変えた兼続の言葉に秀吉は大層悦びし、兼続を褒めちぎったとか。(名将言行録の直江兼続の章)。

同じ内容でも、伝え方が違えば相手の反応が異なるもの。
直江兼続の如才無さと、三楽斎の武骨ぶりが好対照をなす逸話ですが、私は三楽斎には秀吉の機嫌を取るつもりは初めから無かったのではないか、と見ています。

己が生涯の敵と定めた関東の覇者・北条氏が、秀吉の力の前に手も足も出せない。その様を見て、三楽斎は苛立ちを覚えていたのではなかったか。武の本場たる関東の覇者が、上方武士の圧倒的なロジスティックスの前に屈しようとする中で、三楽斎は、「関東の武士の智と勇を侮るな」と叫びたかったのではなかったか。

そんな想いに駆られた三楽斎だったからこそ、天下人秀吉の機嫌を取ることせず、己の智恵をぶつけたような気がしてなりません。

最後の「後果たして資正の言の如く力攻めには成り難く、扱にて城落けり」の締めは、三楽斎ファンには痛快です。

【関連】
太田三楽斎、天下人秀吉を怒らせる~「奥羽永慶軍記」から~


その2。

その1との関係性は今一つ分からないのですが、こちらは秀吉が北条方・松田憲秀を調略したことを三楽斎が見抜き、秀吉が感嘆したという逸話です。
三楽斎ほどの智がありながら一国も取れない不思議、匹夫より身を起こした自分が天下を取る不思議。そう秀吉が家康に語ったのは、この時です。
こちらの逸話では、秀吉も天下人らしい余裕を見せています。


その3。

これは、その2の逸話の別伝でしょう。
秀吉が三楽斎に対して、「其方は智仁勇を兼ねたる良将なり、去れども小身なり、我は一徳もなし、天下を取ることが得手なり」と語ったという話。
三楽斎には、秀吉の中のある種のコンプレックスをくすぐるところがあったのかもしれません。ある部分で似た者同士だったのかも。
三楽斎を称えながらも、俺の方が上なのだと、分かりきったことを敢えて言い含める秀吉。妙に小さいというか、可愛さを感じます。


14.資正の合戦歴と戦場訓

最後は三楽斎の合戦歴を振り返り、彼の哲学としての戦場訓で締めとなります。

合戦歴は、大小合わせて七十九度、一番槍が二十三度、組打は三十四度。まさに戦に生きた男と言えます。

戦場訓が、面白いと感じます。
いくつか引用します。
・槍は太く短きが善し。
・衣類は麻木綿善し。
・食事は大食悪しし、餅四つ五つ持参するが善し。鰹節も持参あるべし。
・人馬の薬種々あれども是も無用なり。
・寒中火にあたり申すまじ。
・暑中水飲申まじ。
・梅干の黒焼は持参すべし。

幾多の戦をくぐり抜けた武士が語る教えは、まさに質実剛健。しかし、鰹節や梅干の黒焼を奨めているあたりに、優しさと心配りを感じます。

【関連】
太田資正の戦場訓

本稿は、これにて終了です。


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