さいたま市岩槻(岩付)の戦国領主・太田資正(三楽斎)家臣たちに関する備忘録
その14.三戸駿河守と妻「としやう」
~上杉謙信と兄・資正の仲を取り持った笑顔の妹とその夫~

※「としやう」については材料が多すぎて、書き始めてみると思わぬ“大作”になってしまいました。


・資正の妹「としやう」は、扇谷上杉氏の宿老として岩付太田氏、上田氏に次ぐ存在だった三戸氏の当主・駿河守の妻。
・としやうの夫であった三戸駿河守の実名は『高野山竜泉院過去帳』より、「四郎興義」であることが近年判明。
・夫婦の法名は、夫の駿河守興義は「栄誉元同」、妻の「としやう」は「笑室守胎尼」。
(黒田基樹(2013)「岩付太田氏の系譜と動向」、『論集 戦国大名と国衆12 岩付太田氏』)

「としやう」は、上杉謙信と太田資正の不和の時代に、その間を取り持つ役割を果たしたことが『三戸文書』(後述)により知られている。
「笑室守胎尼」という微笑ましい法名を後に名乗ったこの資正の妹は、謙信と資正の緊張関係を解くほぐす朗らかな性格の持ち主だったのかもしれない。


以下、杉山博(1978)「上杉輝虎(謙信)と太田資正(道誉) -三戸文書の再検討-」、『論集 戦国大名と国衆12 岩付太田氏』に基づき、『三戸文書』を中心に「としやう」と夫・駿河守興義の動向を整理。

【三戸文書・資正 岩付城入城期】
・天文十六年、関東管領・山内上杉憲政は三戸四郎を平柳蔵人祐の指南役とする。
天文十六年十二月十四日の上杉憲政の書状より)

この書状は、平柳蔵人の項でも紹介。
上杉憲政に従う立場だった太田資正が、兄・資顕の死を聞き、松山城から岩付城に入城したのが同年十二月九日。岩付が、上杉憲政側の勢力下に入ったとして、発給されたものか。
この段階では、三戸氏はあくまでも上杉氏に仕える立場で、岩付太田氏とは立場上対等の関係にあったことが伺われる。


【三戸文書・資正 岩付城主時代】
・永禄五年、太田資正、「瀬田谷御一跡」を三戸駿河守に安堵
永禄五年五月十五日の太田資正書状より)

この書状は、舎人孫四郎と野本与次郎の項でも紹介。
この時点になると、三戸氏が事実上、岩付太田氏の被官となっていることが分かる。


・永禄六年、太田資正、三戸駿河の妻「としやう」に代山、寺山、たい野の地を安堵
永禄六年十一月二十四日の太田資正書状より)

「としやう」宛書状の初出。
代山・寺山は、今日のさいたま市緑区(埼玉スタジアム2002の周辺の地域)。
夫・駿河守への所領とは別に、妻「としやう」が独自に所領を有していたことが分かる。
なお、書状の文面には難しい漢字は使用されておらず、例えば「美濃守資正」は「みのゝ守すけ正」と表記されている。謙信や家臣・山吉豊守の「としやう」宛書状も同様であり、女性宛の書状はかな文字中心というスタイルが一般的であったことが分かる。

【寺山・代山の位置】




・永禄六年、太田資正、三戸駿河守の息子伊勢寿丸に、知行分の地の不入を確認し、上杉謙信への忠信を要求
永禄六年十二月三日の太田資正書状より)

杉山博氏は、三戸駿河守の息子・伊勢寿丸(駿河)が資正の妹「としやう」の夫であったと比定しているが、上掲の『高野山竜泉院過去帳』に従えば、「としやう」の夫は三戸駿河守であり、伊勢寿丸は「としやう」の息子に該当することになる(黒田基樹氏もこの立場)。
この時期の太田資正は、同年二月に武州松山城を失い、北条氏による岩付領への直接的な圧力にさらされた危機的な状況にあった。


【三戸文書・資正 放浪期間】
・永禄八年七月、梶原政景は三戸十郎(駿河)と妻「としやう」の所領を安堵
永禄八年七月二日の梶原政景の書状より)

太田資正の嫡男・氏資が、父・資正を岩付城から追放したのは、前年の永禄七年七月。一年後の永禄八年七月時点では、資正と次男・梶原政景は、下野国・宇都宮氏を頼り、牢人状態であった。
岩付から追放された牢人状態にあっても、資正・政景親子は、岩付領内の領主への遠隔支配を試みており、この書状もその一つ(他には高麗豊後守への安堵状等)。

安堵状には「細谷刑部左衛門抱之地」を三戸十郎と「としやう」に与えるとする記述も。
細谷刑部左衛門は、資正の家臣であったが岩付追放後は氏資に従っていた模様(天正五年の北条家朱印状では岩付衆の奉行として現れる)。その領地を三戸十郎と「としやう」に与えるとしたのは、敵となった嫡男・氏資側の領主に対する牽制か。


・永禄八年七月、上杉輝虎(謙信)、三戸駿河の妻「としやう」に兄・資正に岩付城奪還を促すよう依頼
永禄八年七月八日の上杉謙信の書状より)

上杉謙信の「としやう」宛書状の初出。
反北条勢力の太田資正が岩付領を押さえていることは、上杉謙信の関東経営にとっては必要不可欠な条件であった。そのため謙信は、資正の岩付追放を重く見て、一刻も早い資正による岩付城奪還を望んでいた。
資正の妹である「としやう」に書状を送り、資正の岩付城奪還を促したのは、当時まだ岩付領に残っていた親・資正勢力と宇都宮や忍を流浪していた資正との連携を促す狙いがあったのだろう。

女性である「としやう」宛の書状で、かな文字を多用したのは、上杉謙信も同様。
「美濃守父子」を「みのゝカミふし」、「輝虎」を「てる虎」としているのが微笑ましい。

しかし、謙信が「としやう」といつ頃面識をもったかは定かではない。
武州松山城への後詰に間に合わなかった謙信は、永禄六年二月に岩付城に入城・滞在している。この時、資正配下の被官たちが集まった中に、三戸駿河守とその妻「としやう」もいたと考えるのが妥当か。


・永禄八年七月、上杉輝虎(謙信)、三戸駿河にも太田資正に岩付城奪還を促すよう依頼
永禄八年七月十六日の上杉謙信の書状より)

謙信は「としやう」宛書状の八日後に、ほぼ同じ内容の書状を夫の三戸駿河に送っている。
資正に意見する存在として、謙信が、義弟・三戸駿河よりも実妹「としやう」に期待をかけていたことが伺われる。


・永禄八年十二月、梶原政景は三戸駿河(十郎)の妻「としやう」の所領を安堵
永禄八年十二月十八日の梶原政景の書状より)


【三戸文書・資正 片野城主時代】
・永禄十年、上杉謙信は、三戸駿河の妻「としやう」に再度書状を送り、太田資正に意見し岩付城奪還を促すよう依頼
永禄十年九月二十七日の上杉謙信の書状より)

岩付追放後、北関東の領主らの元を流転していた資正だったが、永禄九年に佐竹義重の誘いを受け、常陸国・片野城に入る。これ以降、資正は佐竹氏の客将として活躍することになり、徐々にそれまでの「上杉謙信の関東での片腕」としての性格を失っていく。
同年(永禄十年)正月に、上杉謙信は、越山し関東入りして佐野を攻めた際、佐竹義重と太田資正親子に参陣を要請する。しかし、佐竹義重も資正親子も、小田氏治攻めに忙しいを理由に要請を無視し、謙信を怒らせている。
己の片腕だと思っていた資正の参陣拒否は、謙信にとって大きな衝撃であった。この書状は、“やはり資正にはまた岩付城に戻ってもらわねば困る”という謙信側の焦りから「としやう」に送られたものと考えられる。

資正が片野に入ってからは、三戸駿河守も妻「としやう」も岩付領内の所領を捨て、片野に入ったと言われている。この時期は、既に片野に移っていた頃であろうか。


・元亀元年、上杉謙信の家臣・山吉豊守は、三戸駿河の妻としように書状を送り、上杉謙信と太田資正の不和解消のために動いてほしいと依頼
元亀元年四月二十四日の山吉豊守の書状より)

元亀元年は、関東の戦国領主にとって大事件であった「越相一和」(上杉-北条同盟)が成った永禄十二年の翌年。
関東の反北条勢力は、北条氏と戦ってくれるからこそ上杉謙信に従っていたのであり、その謙信が北条氏と同盟するとなれば、謙信に従う理由はなくなる。
この時期から、北関東の領主らは“もはや謙信は頼れぬ”と佐竹氏を中心とした“御一統”形成に動くことになる。
謙信は、太田資正・政景親子を再度取り込むため、「越相一和」の条件に、岩付領・松山領の資正への返還、という破格の条件を織り込んだが、資正はこれに飛びつかず、むしろ“御一統”形成の中心的役割を果たしていく。

この書状は、謙信が、資正親子の取り込みが上手くいかないことに焦り、再度「としやう」に仲介を頼んだものと思われる。


・元亀二年十二月、上杉謙信は三戸駿河守に書状を送り、資正が参陣しなかったことを諌めるよう依頼
元亀二年十二月五日の上杉謙信書状より)

・元亀二年八月、上杉謙信は三戸駿河守の妻「としやう」に書状を送り、太田資正との関係改善への助力を求める。
元亀二年八月八日の上杉謙信書状より)

・元亀三年三月、上杉謙信は三戸駿河守の妻「としやう」に書状を送り、越山の予定を告げ、太田資正との関係改善への助力を求める。
元亀三年三月十五日の上杉謙信書状より)

元亀二年に「越相一和」は崩壊。謙信は太田資正父子・佐竹氏・里見氏と絶縁したことを後悔し、関係修復に乗り出す。
上の書状はこの関係修復期のもの。

「としやう」の取り次ぎが奏効してか、元亀三年八月に、太田資正は謙信に返信の書状を返している。謙信は更に返信しているが文面の「先忠を失わず懇ろの心がけ」からは彼の喜びが伝わる。
資正が謙信に返信した背後には、「としやう」の働きかけがあったと考えたいところ。


【その他史料から】
・『異本原小田記』は、三戸駿河守が太田下野守とならび、資正から岩付千騎の三分の一の指揮を任された「武者大将」の一人であったと伝えている。
(『異本小田原記』の「岩付の家に三人の武者大将あり。一人は三戸駿河守、一人は太田下野守とて、武州本郷の城主」との記述から)

しかし、残念ながら三戸駿河守の合戦での働きを伺わせる記録は残されていない。


<「としやう」と三戸駿河守のイメージ>

水魚の交わりを地で行く関係であった上杉謙信と太田資正。
謙信は、関東の親上杉派の戦国領主の中でも随一の戦上手だった資正を、関東における己の片腕とした。
資正もまた軍神・上杉謙信を、仕え甲斐のある“戦える”主君として忠勤した。
相思相愛の関係だったと言える。

しかし、絶妙なコンビとして一時は関東を席巻した謙信と資正だったが、謙信の帰国後、資正が北条氏の反転攻勢を防ぎきれなかったことから運命が流転する。

北条氏の怒濤の反撃の前に劣勢に追い込まれた資正は、息子氏資に裏切られ、岩付を追放されてしまう。これを機に、謙信と資正の関係は決定的に変化していった。

国を失った資正を、城を与えてまでして迎え入れたのは常陸国の佐竹氏の若き当主・義重(当時22歳)。資正は、義重の心意気に感じ、以降、佐竹氏の客将・三楽斎道誉として奮戦し、佐竹氏を中核とした反北条氏連盟“御一統”の形成に尽力する。

反北条という点では志を共にする上杉謙信と佐竹義重であったが、実際にはその利害は一致しないことが多かった。

西関東を中心に北条本隊と戦った謙信と、東関東を舞台に地元の親北条勢と戦った佐竹氏。
謙信は自身の戦いのために佐竹氏にたびたび参陣を要求した。しかし、佐竹氏にとって、謙信の合戦に参加するのは労多くして益が少ない。謙信のたびたびの参陣要請に資正(三楽斎道誉)と佐竹義重が応えなかったことをきっかけに、謙信との資正の関係は疎遠になっていく。

資正(三楽斎道誉)の振る舞いに激怒した謙信は、書状で資正を大いに責めた。その文面からは、愛情が転じて憎しみとなった複雑な感情が漂ってくる。
(元亀元年の上杉輝虎書状には「偏美濃守事者、天罰者ニ而候、今日迄者、頼敷思候つるが、此末者覚悟不被知候」とある。資正を「天罰者」であると糾弾し「今日までは頼もしい者と思っていたが、今後は一切知らず」と突き放している)

しかし、謙信と資正の絶縁を決定づけた「越相一和」(上杉-北条同盟)が元亀二年に崩壊。謙信は関東の味方衆である佐竹・里見・三楽斎と絶縁したことを後悔。彼らとの復縁を画策する。

資正の妹「としやう」が、謙信と資正の不和の調整に働いたのは、謙信と資正が疎遠になった時期と、謙信が資正との復縁を画策した時期にあたる。
上杉謙信の「としやう」宛の書状は、かな文字を多用し、彼女に暖かい言葉を投げ掛けるところから始まる。そして「としやう」の兄・資正の以前の忠義ぶりを改めて称えた上で、最近の資正の振る舞いに失望していること、「としやう」から資正に諫言を行って欲しいことがしたためられている。

謙信の書状からは、謙信の意外な繊細ぶりが伝わると同時に、謙信が「としやう」の人物を見込んで頼み込んでいる姿も浮ぶ。
謙信の書状が、複数残されていることを考えると、「としやう」による仲介には一定の手応えがあったのであろう。

後に「笑室守胎尼」という法名を愉快な名乗る「としやう」は、物怖じせず兄・資正に諫言ができ、それでいて笑顔を絶やさず恨み辛みを残さない、明るく朗らかな性格の持ち主だったのではないか。

軍神、名将として後世称えられることになる謙信と資正であるが、その両者がその不和の時代の仲を「としやう」のような女性に取り持ってもらっていたのは、微笑ましい。

しかし、「としやう」の働きの甲斐あって天正三年に復縁を果たしたした謙信と資正であったが、謙信は天正六年に急死。二人の対北条氏の共闘は遂に再現されることはなかった。

「としやう」は、その後の豊臣・徳川の時代も生き、天寿を全うしたという。

晩年も、「笑室守胎尼」の法名にふさわしい、笑顔の絶えない元気で朗らかな老尼だったに違いない。


夫の三戸駿河守については、妻「としやう」の陰になり、その働きはよく見えない。
三戸氏は、岩付太田氏と並ぶ名門の家柄であったが、資正の時代には岩付太田氏の事実上の家臣となっていた。
主君である資正の妹「としやう」を妻に迎えたこともあり、三戸駿河守の人生は、基本的には資正と「としやう」に従うものであったかもしれない。

当時の男としてはやや悲しい人生を送ったようにも聞こえるが、笑室守胎尼「としやう」と過ごす人生は、殺伐とした乱世の中にあって楽しく心に潤いのあるものだったのではないだろうか。


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「としやう」についてもう少し語ってみました。→「資正の妹「としやう」のこと、もう少し


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