まるおの雑記帳  - 加藤薫(日本語・日本文化論)のブログ - -26ページ目
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「事実上の強制」を認めた画期的な判決 その1(自治会裁判とPTA(3)) 

PTAの何が許せないかと言って、それは、役職の無理強い。
かねてより役職の理強いは「人権侵害」であり、違憲・違法の疑いが濃厚であると考え、2ちゃんねるでもそう主張してきた。
昨春、最高裁において、自治会費(滋賀県甲賀市希望ヶ丘自治会)への募金の上乗せ徴収をめぐって画期的な判決が下っている。この判決は、前回取り上げた、退会の自由をめぐって争われて住民側が逆転勝訴した埼玉県営住宅本多第二団地訴訟と共に、PTA問題を考える上で極めて重要な判決だと思う。


<裁判に至るまでの経緯>
(高裁判決(平成18年(ネ)第3446号)による。以下、同じ。)
その自治会では、それまでは組長等が各家を回って募金・寄付金(地元の小学校、中学校、赤い羽根共同募金会、地元社会福祉協議会、地元緑化推進委員会、日本赤十字社及び地元共同募金会等への)を徴収していたのだが、会員の高齢化があったり、支払いを拒否する人もいたり、留守の人もいたりで、会費を徴収することが大変な負担になってきた。その結果として、負担の重い組長になるのを避けるために休会する人も出てきた。そこで、募金回収の負担を解消するため、募金に回す分の各家2000円分を従来の年会費の6000円に上乗せし、徴収することにした。
決定に際しては、一定の話し合いの期間を置いた上、総会により、多数決にて決定した。

この自治会の決定に対して、一部の住民(5名)が、自治会側の決定は憲法で保障されている思想信条の自由を侵害し、民法90条の公序良俗違反であると訴えた。


<自治会側の一審勝訴>
この裁判、一審(大津地裁)では、自治会の行いには「合理性、必要性が認められる」などとして(「思想信条への影響は抽象的。上乗せ徴収には必要性、合理性がある」)、自治会側が勝訴したのであった。


<自治会側の主張>
自治会側の行いに「合理性、必要性がある」ってどういうこと? と思う方も多いかもしれないが、自治会は次のような主張をしていたのだ。

自治会の主張1
寄付する相手が特定の政党や宗教ならともかく、いずれも公共性の高い団体であり、それらへの募金は「地域の助け合い」をめざす自治会の目的に沿うものだ。(合目的性)

自治会の主張2
役員の負担の解消のためにはやむを得なかったのだ。(必要性)

自治会の主張3
十分な話し合いの末、総会において「民主主義のルール」に基づいて決定されたものだ。(合理性)

これは要するに、「自治会の決定は『みんな』のためになり、『みんな』で決めたことなのだ! だから、われわれは間違っていない。」という理屈ですね。この「『みんな』の論理」が、一審では認められたと言っていいだろう。


<原告住民の主張>
それに対する原告住民の主張は、次のようなものだ。
*****
寄付をするか否かは、本来個人の自由な意思に委ねられるべきものであり、その決定は、思想及び良心の自由として憲法19条により保障されているところ、本件決議は、本来任意に行われるべき寄付を、支払いを義務付けられる会費とすることにより、強制するものであるから、控訴人らの思想及び良心の自由を侵害し違法である。(p.3)
*****


<高裁の判断>
で、大阪高裁の判断はどうだったかと言うと…。

*****
 そうすると、本件決議に基づく増額会費名目の募金及び寄付金の徴収は、募金及び寄付金に応じるか否か、どの団体等になすべきか等について、会員の任意の態度、決定を十分尊重すべきであるにもかかわらず、会員の生活上不可欠な存在である地縁団体により、会員の意思、決定とは関係なく一律に、事実上の強制をもってなされるものであり、その強制は社会的に許容される限度を超えるものというべきである。
 したがって、このような内容を有する本件決議は、被控訴人の会員の思想、信条の自由を侵害するものであって、公序良俗に反し無効というべきである。(p.9)
*****
と、原告住民の主張の核心部分を全面的に認めたものだった。
自治会は上告したものの、棄却され、2008年4月、自治会側の敗訴が確定した。


<高裁判決の根拠>
高裁は判決の根拠として、以下の三つの論点を示している。
判決の論拠1
募金・寄付金は、各人の属性や社会的・経済的状態等を踏まえた個人の思想信条に基づき本人の自由意志によりなされるべきものである。しかるに、支払い義務のある会費に募金・寄付金を上乗せして徴収することは、個人の権利として認められている任意の意思決定の機会を奪うもの(「事実上の強制」)となる。

判決の論拠2
脱会すれば、会費を支払う必要はなくなり、自動的に募金・寄付金を支払う必要もなくなる。しかしながら、対象地域の88.6パーセント弱が加入する地縁団体であり、その活動は、公共機関からの配布物の配布、ゴミ災害時等の協力、ごみステーションの管理、提供等広範囲に及んでおり、地域住民が日常生活を送る上で欠かせない存在であること等から考えると、会員の脱退の自由は事実上制限されているものと言わざるを得ない。(自治会未加入者には「配布物を配布しない」、「災害、不幸等があっても協力は一切しない」、「ごみステーションを使わせない」等の決定を自治会がしていることも考慮されている。)

判決の論拠3
自治会は「会費の不納付者に対しても脱退を求めず、会員として扱っているのだから、強制とはいえない。」と主張するが、総会において、募金・寄付金を会費と共に納めることは会員の義務とされていることからして、脱退を余儀なくされるおそれがないとはいえない。
(つづく)

かつて退会は「条理上許されないもの」だった! (自治会裁判とPTA(2)) 

埼玉県新座市の自治会の「退会の自由」をめぐる裁判を取り上げる。

<一、二審の判決>
この裁判、一審、二審では、「退会は認められない」とする自治会側が勝訴しているのだ。
一、二審ではどのような判断の下、自治会側に軍配を上げたのだろうか。最高裁の判決文中に紹介されている原審(二審)の判断の概要を見てみよう。

原審では、その自治会を「公共の利害にかかわる事項等の適切な処理を図ることを目的として設立された」ものと位置づけた上で、次のような判断が下されている。
*****
このような被上告人(=自治会)の設立の趣旨、目的、団体としての公共的性格等に照らして考えれば、被上告人の会員が、①被上告人の組織の運営等が法秩序に著しく違反し、②もって当該会員の個人としての権利を著しく侵害し、③かつ、その違反状態を排除することを自立規範にゆだね難いなどの特段の事情がある場合に被上告人に対して退会を申し入れることは許されうるとしても、特定の思想、信条や個人的な感情から被上告人に対して退会を申し入れることは条理上許されないものというべきである。
 したがって、本件退会の申入れは無効であり、上告人(=一部住民)は、被上告人の請求に係る共益費及び自治会費の支払い義務を免れないというべきである。
(〇数字と(  )内の注記は引用者。)
*****

恐ろしいことに、最高裁において逆転判決が出るまでは、上のような考え方が、日本の「規範」だったのだ。退会が許される「特段の事情」(①②③)って、「どんだけ特段なんだよ!?」って、思いませんか?
公共的な性格を持つ団体を抜けることは、①その組織がよっぽどの無法なことをしていて、②さらにその無法状態が会員の人権をひどく侵害し、③なおかつ自分達だけではその無法状態から立ち直れないような場合でない限りは、まかりならぬ(=「条理上許されない」)なんて!

「特定の思想、信条や個人的な感情から被上告人に対して退会を申し入れることは条理上許されないものというべきである。」
この結論は、「公共」の前では、思想、信条の自由や、個人の考えは制限されるのもやむを得ないという「価値観」を含み持っているように思われる。

こういう考えが、ついほんの少し前までまかり通っていたわけだ。クワバラクワバラ。


<最高裁の判決>
で、最高裁では、どのような逆転判決が下されたかと言えば ― 。

団体の性格がどのようなものであれ、強制加入団体でもなく、退会を制限する規定がないのだから、退会はできる。

という極めてシンプルかつ正当な判断。

判決を以下に引用する。
*****
被上告人は、①会員相互の親ぼくを図ること、②快適な環境の維持管理及び共同の利害に対処すること、③会員相互の福祉・助け合いを行うことを目的として設立された権利能力のない社団であり、いわゆる強制加入団体でもなく、その規約において会員の退会を制限する規定を設けていないのであるから、被上告人の会員は、いつでも被上告人に対する一方的意思表示により被上告人を退会することができると解するのが相当であり、本件退会の申入れは有効であるというべきである。被上告人の設立の趣旨、目的、団体としての性格等(①②③)は、この結論を左右しない。
(〇数字と(   )内の注記は引用者。)
*****

引用部分末尾にある「被上告人の設立の趣旨、目的、団体としての性格等は、この結論を左右しない。」との一文にしびれる。なぜこんなことをわざわざ断わるのか? それは、原審へのアンチテーゼなのだ。最高裁の判決は、たとえ「公共」的な性質を持ったものであっても、個人の思想、信条に基づく選択の自由は制限されてはならない、としたものと考えられる。

「公共」の前では、よっぽどの特別な事情のない限り、個人の思想、信条や個人の判断は制限されてもやむを得ないとする立場に立つ原審の判断と、個人の思想、信条や個人の判断は基本的に制限されるべきではないという立場に立つ最高裁の判断。

そこには、判決文を見る限り、適用される法令が変わったとかという専門的、技術的変化があったわけではない。

パラダイム転換としか言いようのない変化が原審と最高裁の判決との間には認められるように思うのだが、いかがなものでしょう?

今回紹介した判決は2005年春に下ったもの。次回は、2008年に確定した、滋賀の自治会における「寄付金の上乗せ徴収」の是非をめぐる裁判を取り上げる。そこでは、パラダイム転換がより鮮明な形で現われているように思われるのだ。

日本社会におけるパラダイム転換 (自治会裁判とPTA(1)) 

子どもの通う中学のPTA改革に関わったのがもう4,5年ほど前になる。
その中学はご多聞に漏れず事実上の強制加入で、会費も学校が校長名で教材費といっしょくたに徴収していた。それが、任意加入であることが示された上で入会の意思確認が取られるようになり、PTA会費は教材費とは切り離され、徴収に学校は関わらないようになった。
かなり強い抵抗もあったのだが、声をあげることができ、最終的には受け入れられたのは、ちょうどその頃から、「個人の尊重」(確かその中学校の指導目標だった!)とか、「コンプライアンス(法令遵守)」とか、「インフォームドコンセント」とかの概念が社会に浸透し始めたこととも関係していると思っている。
PTA内部の話し合いで、それらの概念を「臆面もなく」持ち出し強調したものだった。幸い、うなづいてくれる人も結構いた。

その頃から(21世紀以降?)、「まずはじめに組織ありき」の旧来型の価値観から、個人が尊重される価値観へと変わり始めたような気がする。(小泉劇場はその流れの結果でもあり原因でもあると、私は思っている。)おもしろいことに、「PTA問題仲間達」が問題意識を持ち、声をあげ始めたのもほぼ同じような時期である気がする。
 ※もっとも最近はこの価値観の転換への反動の動きも認められるようだが、それはまた別の機会に。  

日本社会における「組織重視」から「個人重視」への価値観の転換を示すものとして、自治会に関わる二つの裁判を取り上げたい。一つは、埼玉県の自治会での「退会の自由」をめぐる裁判。もう一つは、滋賀の自治会における「寄付金の上乗せ徴収の違法性の有無」をめぐる裁判。

この二つの裁判は、いずれも下級審においては「組織側」が勝訴しているのに対して、上級審では「個人の側」が逆転勝訴しているのが興味深い。
埼玉の自治会裁判で最高裁において「退会の自由」が認められたのが2005年4月、滋賀の裁判において住民側の勝訴が確定したのが2008年4月。
私は、そこに日本社会における価値観の変動の芽生えを読み取ることができるのではないかと思っている。

次回、まずは「退会の自由」をめぐって争われた埼玉の裁判を取り上げる。
一審と二審では、「退会の自由」が認められていなかったのに驚くのは私だけではないだろう。が、それが、ほんの少し前までの日本の規範であったのかもしれない…。

では、病院のお手伝いはなぜしない?

以前に、2ちゃんねるで、PTA活動に積極的に参加すべきだと言う人が、


「学校のお世話になっているのだし、今の先生達は本当に忙しいのだ。だから、私たちがすこしはお手伝いしなくては。」


てなことを言っていた。


それを言われた時は、「う~む」と釈然としないものを感じながら、何も言い返せないでいた。

そんな時、ナイスな切り返しをする人がいた。


いわく、

「じゃあ、あなたは家族が世話になっていたら、病院や老人施設のお手伝いをするのか? 家族が世話になっている人にはお手伝いをする責任があると言うのか?」

と。


そうなのだ。

忙しいというなら、産婦人科のお医者さんを持ち出すまでもなく、医者も看護師も福祉関係者も相当なものですよね。

しかし、われわれは、家族がそれらの施設のお世話になっていても、職員がどんなに忙しかろうと、「お世話になってる家族の会」なるものを作って、お手伝いをすることなど、ふつうない。


では、どうしてPTAはあるのか?

これは、岩竹論文に指摘されているように、市民を「国民化」しようとする国家の思惑もあるようだし、子どもの評価を上げたいというか、不当に下げられたくないという親心も大きいかなと考えている。

あとは、PTAって、町内会と同様、お上の末端としての性質を持っていると思うのだが、そのお上の一員になれることの「おいしさ」も無視できないと思っている。

(岩竹論文については、「PTAよ成仏してくれ!」参照。)


皆さんは、どうお考えでしょうか?


日本的な全員参加型のPTAは、世界的に珍しいようだ。(←これ、違ってたらご指摘を。)そして、日本の中で考えても、上に見たようにPTAって特殊な存在だと思う。

こんな二重の意味で特殊な「PTA」を存続させているものはなんなのか?

引き続き考えていきたいと思っている。

PTA活動に積極的に参加するのが保護者の責任だって!?

<YOMIURI ONLINE教育ルネサンス>「(13)住民の授業診断 定着」(2008.12.18) http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/renai/20081218-OYT8T00251.htm を読んでの感想。

足立区の五反野小学校は、全国で最初にコミュニティースクールに指定されたそうである。同小学校では、ふつうは「学校運営協議会」と呼ばれる、地域住民等が参画して学校運営の方針を決める機関を、私立学校のように最も権限の強い印象がある「学校理事会」と呼んでいるそうだ。
今年の4月、同小理事会理事長名で、次のような「家庭が守るべきマナー、モラル、ルール6項目」が示されたとのこと。

 五反野小の「マ(マナー)モ(モラル)ル(ルール)」を守る
〈1〉登校時間を守る
〈2〉忘れ物がないよう親がチェック
〈3〉礼儀やあいさつは親の指導が基本
〈4〉基礎学習定着の宿題は家庭でやる
〈5〉子どもの話だけを信じて学校に文句を言う前に状況判断をする
〈6〉PTA活動などに積極的に参加し保護者としての責任を果たす

私とて、家庭が子どもの教育にかかわることは当然だと思っているし、学校と協力・連携するのも保護者の努めだと思っている。だから、この6項目のうちの<5>までは、「ふんふん、ふん。そうだよな~。」と納得しながら読んだ。
しかし、最後の<6>は、思わずお膳をひっくり返しそうになった。
(ノ-_-)ノ・・・~~┻━┻
<6>は、「PTA活動に積極的に参加しない親は、保護者としての責任を果たしていない」と言わんばかりだからである。

<1>~<4>は、確かに家庭のなすべきことだろう。また、<5>などもまったく同感する。
そのような意味で、<1>~<5>が家庭の「マ・モ・ル」であるのは納得できる。
一方、PTA活動に参加することは、それらとはまったく次元の違うことであろう。

<1>~<5>はそれを守らなければだれの目にも明らかな不都合が生じると言える(<3>については意見が分かれるかもしれないが)。しかし、PTA活動に積極的に参加しなかったとしていったいどういう不都合、問題が生じると言うのだろうか?
ぜひ五反野小学校の理事会理事長には、ご説明願いたいものだ。

どんな不都合が生じるかを詰めることなく、人を安易に「無責任な保護者」呼ばわりするとするなら、「そちらこそ、どういうモラルをしているのか!」と、問い詰めたい気がしている。

「してあげたい病」

PTA改革派の中には、形式的・儀式的なものは縮小し、「子ども達のため」という目的に徹すればPTAは再生すると考える向きもあるようだ。
しかし、私の連れ合いもそうなのだが、「いろいろなことをしてあげる」ということに対して否定的な保護者もいることを分かってほしいと思うのだ。
そのような観点から、ちょっと「辛らつ」な意見も紹介したい。「校長先生、ちょっと」というブログに出ている。ブログ主は、関西の方の現役の校長先生。
題して、「今の世の中に蔓延する『してあげたい病』」(http://blog.goo.ne.jp/belbetring/e/b37c1a3104cc6e85557eb7c4fbcaeca1 )

*****
子どもの数は減り、老人が増える。増えた老人は生き甲斐を求めるのか流行なのか、様々な地域活動を通じて子どもとかかわろうとする。その結果、子どもは祭りやイベントで30分で忘れてしまうようなおもちゃを数限りなく手に入れ、飽食の時代を象徴するがごとく食べ物を手に入れる。
若い親は、子どもに何かをしてあげていないと不憫だと感じる回路が敏感で常に何かをしてあげないと気がすまなくなる。時には、教師にもそういったひとを求めてくる。
(中略)
子どもには本来子どもだけの世界があったはずである。本当の子どもには「トトロ」が見えたのである。
しかし、増えすぎた老人が地域活動と称して子どもにかかわり過ぎ、過保護の親がまたまた子どもにかかわりすぎて、本来の子どもらしさや子どもの仲間作りを阻害したのである。
*****

私自身、この校長先生の考えに全面的に賛同するわけではない。まったく賛同できない人もいるだろう。
ただ、これだけは言えると思う。この校長先生のような考え方は一つのスタンスとして認められるべきだ、ということ。

「子ども達のために何かをしてあげる」というスローガンも、全員参加型のPTAを正当化する旗印にはなり得ないのである。

PTAがなくても学校はやっていける

「PTAはなくても学校はやっていける。」と発言するのは、カワバタさんのPTA連載でも紹介されている元校長のtoshi先生。先生のブログ「教育の窓・ある退職校長の想い」の中でPTAについて精力的に発言されている。

今回は、「PTAと学校(11) PTAの未来像は、にひひ」の内容の一部を紹介させていただく。まだお読みでない方は、ぜひ元記事も読んでほしい。

http://blog.livedoor.jp/rve83253/archives/cat_31496.html




先生は、


*****

『自由にすれば、活動しない。』ではなく、『自由にすれば、やりたい人がやり、その輪は広がり、充実していく。』のです。

*****


と、PTAの可能性を大いに認めてもいるのだが、一方で次のようにも述べている。



*****

 やりたい人が、やりたい活動をやる。やりたいという人がいない活動はしない。これは、PTA活動の自主性、任意性、多様性を認めるということである。
 学校としては、『PTAをあてにした学校経営は古い。』と認識すべきである。任意性が高いから、今年行われた活動が来年も継続するとは限らない。そう腹をくくるべきである。

*****



そして、もしもいやな経験をする人が多く、なり手がいなくなれば、PTAを廃止すればいいではないかとも言う。

「なくなっても大丈夫か?」という不安に対しては、新設校でPTAのない学校の校長先生の次のような話を紹介している。


*****

「いやあ。初めっからないのだから、別にこまることはありません。ただ、授業参観と学級懇談会があるだけです。もっと幅広く連携を図ろうとする動きもないわけではないです

が、その必要はないという考えの方ももいらして、今のところはまとまっていません。」

*****


そしてtoshi先生は言うのである。

「まあなくてもやっていけるということだ。」と。


授業参観や保護者会があれば、学校運営上「別にこまることはない」。これは前々からの自説であったが、経験豊かな現場の先生の口から聞けて、まさにわが意を得たりであった。




お互い様と言うなら余計なことはしないでくれ!

PTAは「公益団体」なのだろうか? 「互助団体」なのだろうか?

もし日本のPTAが、アメリカのPTAのように学校を舞台に活動する「公益団体」であるなら、なにも文句はない。学校側と連携をとりつつ、大いに頑張ってほしいと思う。わが子の通う学校でのことなら、私も参加するかもしれないし、参加しない場合も基本的に感謝の気持ちは持つだろう。(ちなみに、うちの子どもは来春高校を卒業するので、まったくの仮定の話になるが。)

ところが、PTAが「互助団体」だとするならば、話は全然違ってくる。
一言で言えば、「余計なことはしてくれるな」ということになる。

私にはPTAがやっていることで「これはどうしても必要だ」と思えることはない。であるのに、「互助」(お互い様)である以上は、誰かが何かをすれば自分も何かをしなくてはいけなくなってしまう。
私とて、「必要だと思うけど、自分はやりたくない。他の人がやればいい。」というのは、単なるわがままだと思う。しかし、自分には必要だと思えないことを誰かがやって、「はい次はお前がやれ」と言われても、納得などできない。
ところが、現在の日本のPTAは、必要かどうかの確認もなしに勝手に何かをやっておいて、「はい、次はお前がやれ!」が常態化している。

寛大な人がいて、「出来る範囲でやればいいですよ」と言ったところで、それは本質的に【お目こぼし】に過ぎない。だから、ごく普通の人からは「お前はずるい。子どもが嫌な目にあっても知らないよ。」などと毒づかれることになる。
なんともはやではあるが、PTAが「公益団体」ならぬ「互助団体」なら、「何もしないお前はずるい」という考え方はある意味筋が通っている。

ただ、ここで考えたいのは、PTAが「互助」団体だとしたら、いったいだれがどのような「助け」を求めているのか? ということだ。
私は今の今まで「これはあなたやあなたのお子さんにとって『助け』になりますか?」と確認されたことなどないし、「助け」を求めたこともない。

前稿にも述べたように、学校との連携は「保護者会」がきちんと機能すれば十分にできると思っている。PTAはなくてもかまわない。
また、PTA主催のクリスマスパーティーとか、運動会での景品の配布等々。
別になくてもかまわないと思うのだ。
学校行事として、運動会もあれば、遠足もあり、「社会科見学」という名のバス旅行もある。
いったい何の不足があると言うのだろう?

「互助」の押し売りは、勘弁してほしいと思うのだ。

PTAよ成仏してくれ!

まずは、お腹にある思いを吐き出しますので、納得の行かないところなどあれば、ぜひご指摘を<(_ _)>。


「PTA」、なかりせば。

これが私の原点だ。


「はじめに」にも書いたように、私が子どもの学校に関わるようになったのは、家内がPTA問題で「不登校」になってしまったからだ。

家内が何でトラブったかと言えば、お定まりの役員選出をめぐって…。

くじやポイント制により、本人の意思を無視する形で責任の重い役職を押し付けることが、家内にはどうにも許せなかったようだ。

当時の私は、あろうことか、「PTAごときで・・・?、もう少しうまくやれんのか!? 」だった。しかし、そのときの本当に参ってしまった家内の姿は、今でも目に焼きついている。


たぶん、と言うよりも、間違いなく、PTAなんていうものがなかったら、いやたとえPTAがあったとしても役職の無理強いがなかったなら、家内はず~っと、ふつうに学校に出向いていたはずだ。そして、学校での子どもの姿も見られていたはずだ。

しかし、PTAとのトラブルにより、家内は学校に行けなくなってしまった。

PTAが、家内と学校との間の「障壁」になったわけである。

このPTAへのうらみというかわだかまりは、たぶん一生消えないと思います。

私は、この二年間ほど、ほぼ毎日「2ちゃん」のPTA関連スレをのぞいているが、PTAのせいで学校に顔を出せなくなったり、出しにくくなってしまっているお母さんはた~くさんいる。我が家だけの問題ではないのである。



岩竹美加子氏の「国家の装置としてのPTA」(『国立歴史民俗博物館研究報告・第132集』2006年)は、PTA問題を考える者にとって必読の文献だが、その中で、「会員同士の会話でもしばしば耳にする意見」として、PTAのアンケートに答えたある保護者の声が紹介されている。


「私が学校に望んでいるのは、『安心して静かに学べる場』です。それすら危ぶまれているのに、町会とのつきあいのもちつきなどなくてもけっこうです。町ぐるみ運動会、バスハイクも歩こう会もラジオ体操も講演会もいりません。しっかりとした授業があり年1-2回の遠足があり、休み時間に子供達が仲良く遊べればいいのではないでしょうか。なぜそれ以上母親が時間をけずってPTAの仕事をしなければならないのかわかりません」。


ここには、「なくてはならないもの」を見失い、母親をいたずらに痛めつけているPTAの姿がきっちりと述べられていると思うのだ。

私はこのお母さんのコメントに全面的に賛成する。

と言うか、(部分的なものであってもよいので)反対の人がいたら、ぜひお考えを聞いてみたいと思っている。(いや、皮肉でなく、マジで。)



学校と保護者の連携は、確かに必要だろう。しかし、それは学校主催の保護者会を適宜開けば(現にどこの学校でも開かれている)、十分に可能である。「保護者会」で必要に応じ保護者と学校が話し合い、保護者同士のある程度の親睦も行えばよい。そしてそれ以上の「保護者同士の触れ合い」とか、「学校の支援」とか、「親としての学び合い」等を行いたい人がいれば、そういう人は、アメリカ型の本来の「PTA」活動にあくまでも有志として参加すればいい。そういうPTA活動なら、もちろん何の文句もない。お願いしたいのは、みんなを巻き込むのはやめてほしい、ということなのだ。


言うまでもなく、PTAへの参加は法的に義務付けられているわけではないのだから、PTA活動に励むもよし、励まないもよし、だ。 

お互い、守るべきルールを守りさえすれば、後はそれぞれの意思で行動していいはずだ。個人の意思は尊重されるべきであり、「選択の自由」は当然認められるべきだ。



ミニマムとオプショナルの区別を付けず、みんなを巻き込み、学校現場にいたずらな混乱を招いている責任が日本のPTAにはあると思う。

そんなPTAに、私は一日も早く、本来あるべき、自由参加の純粋なボランティアとしてのPTAになってほしいと思っている。

はじめに

大学に入りたての頃、サークルの先輩達の連発する「だから」と「やはり」に衝撃を覚え日本語研究を志し、現在、日本語教育、日本語研究を生業としています。


家内がPTA問題でつまづき子どもの学校に出入りできなくなったのが、子どもの小学校の最終学年の頃。小学校の卒業式から家内に成り代わり学校に出入りするようになりました。

そして、PTAとの衝撃の出会い(笑)。二年役員を務め、それなりの改革をした自負があります。

PTAと出会ってからはや6年、今でもしぶとく食い付いています。


なぜ日本語とPTAなのか?

これはおいおい語っていきたいと思いますが、それらはともに日本及び日本人の「特殊な姿」と深く関わっているように思われるのです。


PTA問題と日本語の問題をマイペースではありますが、しぶとく考えていきたいと思っています。

よろしくお願い申し上げます。

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