高杉晋作は慶応2年(1866)6月からの四境戦争(第二次長州征伐)で、奇兵隊などの諸隊を率いて幕府軍を小倉口で撃退しましたが、この戦いで持病の結核が悪化し、桜山神社の近くのこの地に小さな家を建てて、10月下旬、東行庵(とうぎょうあん)または捫虱所(もんしつしょ 『捫虱』はシラミを潰すいう意味)と名づけ、野村望東尼(のむらもとに)、愛人おうのの看病による療養生活を送りました。
翌慶応3年(1867)3月、正妻のマサが看病のため萩から訪れたことを機に、新地の林算九郎(はやし さんくろう)邸の離れに移りました。
参考
① 終焉の地
④ 晋作とおうのの住まい(参考)
⑤ 療養に入る前の4年前からの年表
元治元年7月、禁門の変後、木戸が出石に潜伏、9月下旬から幾松たちは越荷方の筋向いの紅屋に逗留していた。
晋作とおうのは、慶応元年閏5月頃、四国亡命から帰ると田中町6-1の入江家で同棲を始め、紅屋に住まいを移す。この頃、伊藤博文は梅子と知り合い、紅屋に潜伏した。
慶応2年2月23日、白石正一郎に妻・雅子、母・道子、嫡子・梅太郎、井上某を預ける。今まで住んでいた紅屋におうのを住まわせ、白石正一郎宅に、母と妻と居候することになった。4月1日萩に帰る。
慶応2年5月19日白石正一郎の世話で新地西町9におうのを住まわせる。
慶応2年6月14日大島から帰った晋作とおうのが紅屋に投宿
慶応2年6月17日報国隊を小倉口に進める。8月26日白石家で木戸の見舞いを受ける。白石家、紅屋などに泊まっていたが、入江家の茶室で療養生活に入り、10月下旬、桜山の東行庵に隠遁した。