蓋井島の八幡宮の由緒 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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蓋井島の八幡宮

祭神
応神天皇 神功皇后
住吉荒魂大神 (境内社)
水波能売神 (水ノ明神社 - 俗に若宮社ともいう)

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創建は後小松天皇の応永2年3月といわれる。創立前は岩戸(住吉荒魂神鎮祭の所) で氏神として、現在の八幡宮の社地に当る所から拝していた。

例祭 11月22日

山の神の祭 (7年に1度 辰と戌の12月に行う)
辰年、戌年の12月の辰日と戌日から4日間に亘って、各戸はその所属する一の山、二の山、三の山、四の山から枯木を集め、一願半余にきり、円錐形に立てる。 中に75本の幣を立て75尋の縄で結ぶ。それより前お供えの古壺一ケ(口経 4寸、胴経 1尺余、高さ 1尺3寸) ― 俗に山の神の霊という ― と、朴木の割膳75に、75種の供物、75重の鏡餅、生魚一掛(現在は生海老をサザエの殻に入れる) と共に沢山の人形を供える。一の山から順次秘祭が行われ、第4日目の祭事が終ると、島中の人は宮の下に集り餅撒きをして終る。祭事は一切無言、各山の神迎えをして神座(腰俵) を作りその上にひもろぎを立てる。

この起源は新羅の鬼が4つのモツクリコツクリから渡って国土を窺ったが毒酒に酔って3つは森脇に倒れ、残る一つは高野の田ノ頭に行って果てたのでその魂魄が祟りをして島民を悩ました。そこで山の神と祝い祭るという。また異敵の渡来したのを誅したものともいう。しかし水神、山神、川神、海神等の農耕神を祀り、国土の守護を祀るという説が正しいらしい。

宝物
祝部大甕 (高さ3尺4寸 胴周3尺7寸)
祝部平甕 (直径7寸)
神像 (立像1尺4寸)
仏像 (立像7寸 足利時代の作)


万葉集にいう沖津借島はこの島といわれ、浮き津軽島、又は苅島とも異名が多い。

島の南海辺に「真名井」 という神井があり一ノ宮の祭祀はこの水を供えた。のち石楠の槽(ふね) によってこの水を山田村に移し「双水井」(そうすいのいど) の真名井という。のち神水に石蓋を覆うて一般の汲取を許さなかったので自来「蓋覆い」 と呼び後世蓋井島の名を呼ばれた。蓋をしたのは天平宝字年間で、その上に社を建て水の明神を祀った。のち豊浦藩は流人の島とした。

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☆八幡宮の麓の鳥居の右手の清水

水の明神社雨乞
毎年8月15日、明神様祭が行われる。これは雨乞の祭りで昔は小願一週間、中願一週間として祈禱が行われた。これで降らぬ時はさらに大願一週間の祈禱が行われたという。

下関神社誌
   P73 ~ 74 
山口県神社庁 下関支部
昭和33年1月25日発行

より

※ 蓋井島に「岩戸」 という地名場所がある。


参考



② 住吉荒魂神とは戦闘状態の住吉神で、一宮の住吉神社と同じ神


③ 『防長地下上申』3巻 P347、蓋井島の金ヶ﨑―「浮津かる嶋」