蓋井島、下関市 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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蓋井島
吉母の西の離島の名前の由来
(その1)
神功皇后が朝鮮半島からの帰り道、この島に立ち寄られたときのことです。大きな石の壷にたまっていた湧き水を神功皇后が飲まれた。そのとき「たいへんおいしい水」だとほめられたそうです。そしてそのあと石の壷を蓋で覆われた。そうした故事から蓋井島と名づけられた。
(その2)  下関市水道サービス公社
また別の伝えでは、その水が湧くところ、「水の池」と「火の池」ふたつの井戸があり、それを蓋で覆った。つまり「ふたつの井戸」に由来しているという説もある。
(その3)
住吉神社に供える御水は、沖つ借島(蓋井島)にある井戸の水を毎日楠船で運んでいたが、天平宝字年間(七五七~七六四)時の大宮司山田息麿は海の荒れる日、神供出来ないことを憂い、神気を伺い、御井を山田邑(現在地)に移した。以降、井戸に蓋をしたため。

筏石にある
祭神:   応神天皇、神功皇后、住吉荒魂大神 (境内社)、水波能売神(末社、水ノ明神社)
創建は後小松天皇の応永2年3月といわれる。創建前は岩戸(住吉荒魂大神鎮祭の所) で、氏神として現在の八幡宮の社地に当る所から拝していた。島の南海辺に「真名井」 という神井があり住吉神社の祭祀はこの水を供えた。のち石楠の槽(ふね) によってこの水を山田邑(現在地)に移し「双水井」(そうすいのいど) の真名井という。後、神水に石蓋を覆うて一般の汲取を許さなかったので自来「蓋覆い」 と呼び後世蓋井島の名を呼ばれた。蓋をしたのは天平宝字年間で、その上に社を建て水の明神を祀った。

鞠庭、乞月
神功皇后が三韓征伐から凱旋され、蹴鞠のお遊びをされたところが“鞠の庭”そのとき、日が暮れて真っ暗になったので、山に登られ、月を乞われたところ、たちまち満月になったというところから“乞月山”というようになりました。

見付の瀬
神功皇后が宗像三女神に先勝祈願した後、帰りにこの島を見つけたことから

幕の紋、酒の瀬
皇后が宴を催されたことから

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蓋井島

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蓋井島、乞月山

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蓋井島、八幡宮下
真名井か?神功皇后が飲まれた水か?


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住吉神社、舟楠、長門一宮町
蓋井島からの水を運ぶ船を放置したら、成長して大楠になりました。場所は住吉神社の境外、南東、中国自動車道沿い、ここからさらに30メートルほど南に清水をたたえた覆い屋が 真名井「双水井」で、湧水が涸れることなく、いまも毎日、神前にそなえられているそうです。

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中国自動車道の下にある真名井


参考

① 応神天皇は下関市大字吉母で誕生した(参考)


② 『防長地下上申』3巻 P347、蓋井島の金ヶ﨑―「浮津かる嶋」


③ 山ノ神