吉田松陰と僧侶、釈月性 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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松陰先生の松下村塾と浄土真宗僧侶、釈月性の青狂草堂の違い

この青狂草堂の門下生である世良修蔵や赤祢武人、諸隊の脱隊騒動の首謀者とされる大楽源太郎、入江石泉、天地哲雄、浪山真成、土屋恭平、和真道、富樫文周・・・と、皆不遇の生涯の閉じ方をしていますが、松下村塾の栄光と、清狂草堂の陰影の分岐点は、何っだたのでしょうか?

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それは派閥争い的な要素があると思います。萩本藩の中心勢力と地方勢力では、地方が劣勢になるのは道理ですよね!世羅修蔵は危険な最前線に送り込まれたというか、完全な汚れ役ですね!赤根も生粋の松下村塾生でないために信頼されてなかったのでしょう!松下村塾派は尊皇攘夷、青狂草堂派は倒幕攘夷で、朝廷と幕府の扱いにも微妙な差があり、不信感が互いにあったと思います。

この差が「諸隊の中での身分区別の厳守、明治期の諸隊の脱隊騒動、武士の扱い、徴兵制、萩の乱、西南戦争など」につながる考え方の差の源流であったと推測される。即ち、浄土真宗本願寺派の僧侶である月性の派閥、青狂草堂が主張する倒幕を推進すると戦国時代に織田信長が心配したのと同じ、武士による百姓支配の否定に直結することになるからである。結論からすれば、松陰先生も最終的には草莽崛起による倒幕を決心するが、松下村塾門下生もまた薄々、そのことに気がついていたのであろう。松陰先生の自決(老中暗殺告白による刑死)も、未来の武士の行く末を予見してのお詫びだったかも知れない。

松陰先生の有名な句「かくすればかくなるものと知りながら已むに已まれぬ大和魂」の意味もより正確に理解出来る。

マクロな話しでは、松陰先生が萩にお生まれになったのが先生の最大の幸運で、先覚者の皆さんが松陰先生のところを訪れるのはそのためでしょう!逆に、萩に松陰先生が良いタイミングで生まれて下さったことが、長州、ひいては日本の幸運でした。

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月性さんグループの青狂草堂は不遇かもしれませんが、重要な役割を果たして歴史に名を残したと思います。私の地区の農家の今の暮らしは、松陰先生と言うより、月性さんのおかげと言っても過言ではありません。何故、私の地区から百姓が元気良く坊主隊、朝市隊、吾往隊、盤石隊として出て行ったかが良く理解出来る。

松陰先生の流れも長州閥の連なりになれた人は良かったですが、それ以外はリストラにあった訳で、、、同じことは、長府の集童場出身者にも言え、桂弥一一将功成りて万骨枯るにちなんて万骨塔を功山寺のとなりの長府博物館に作っています。

派閥の優劣は別として、月性や、宇都宮黙霖、谷三山らとの交流・示唆が無かったら、後の松陰の思想は方向性が違っていたでしょう。そういう意味でも月性の存在は大きなものでした。吉田家の菩提寺である萩の泉福寺の住職・大敬は月性の叔父であり、密接な関係があったのでしょう。

最後になるが、月性派、青狂草堂の輝ける人材は大洲鉄然であろう!月性の門人である僧侶「大洲鉄然」は木戸孝允らとは倒幕の同志で、木戸孝允が晩年、西本願寺の別荘で息を引き取ったときには、大洲鉄然が死に水をとった。大洲鉄然は月性派のため、奇兵隊を共同創設したにもかかわらず別に第二奇兵隊や僧侶隊を作った実績がある。また、木戸孝允は萩では明倫館は出たが松下村塾門下生ではなく、彼らと一線を画しており、月性派と言える。


参考

本願寺門主に召されて京へ上り、「護法意見封事」(後に「仏法護国論」として全国の本願寺派一万寺に配布)を上程したり、また長州藩主にも「意見封事」「内海杞憂」を建白した。





宇都宮黙霖と吉田松陰の往復書簡
黙霖が公武合体では無く倒幕を主張し、松陰先生を説得している。見えなければブラウザを切り替えてください。


注意

何故、薩摩藩では草莽崛起が無かったのか?それは、幕末まで禁教令が敷かれ、百姓は抑圧されていた為である。信仰の自由は明治維新以降、西南戦争後である。