豊浦町の長門城推定地の調査 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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豊浦町史
 昭和54年12月、P121

鬼ヶ城山系防衛線とみられるものは、室津湊をなかば囲むように、南からやや東に偏した北方に、
鬼ヶ城  620メートル
唐櫃山  579メートル
フシツク山  416メートル
それより低い岩滑尾根と連なり、石畑峠に至る間の直線距離3.5キロメートル(延長距離約6キロメートル) におよぶ延々たる構造のようである。その間、高度300メートルあたりに施設の跡がみられる。とはいっても、個々の構造物は永い年月の間に、緒々に手が加えられているので、分析を要し判定も容易ではない。 狩猟のための施設、砂防工事、また、それらを炭焼窯や倉庫づくりに利用してもいる。 また、中世に砦に利用した軍記物もある。
それと覚しき若干の石垣、土塁の下積石塊の線、馬路、広場などがある。石垣は前記山系の谷部、標高300メートルを標準に並んでいる。

ただ自然石のみを用いているので、大野や椽の城にみられるような、古代石垣の技術、特色が薄い。防塁としては、鬼ヶ城と唐櫃山の中間の谷に、土塁の下積と思われる石塊線が、等高線にそってみられる。この小さい線は各所にみられるが、土は流出している。土塁と馬路は、百済城のひとつの特色でもあるが、石畑峠の谷、フシツク山腹に馬路がみられる。

広場は、フシツク山頂と石畑峠の南真上の背稜線にみられる。フシツク山頂のものは約200平方メートルであるが、その辺縁部の湾に向いた線に、石を並べた形跡が3か所みられる。石畑峠南肩部にある広場は尾根を切り広げたもので、自然にできるものではない。 短辺50~60メートル、長辺は80~90メートルあり、石畑峠が要所であるだけ、この広場の意味は大きい。

天智城によくみられる水門構造は、今までのところ見当らない。水は唐櫃山の中腹に泉があるが、大量となると鬼ヶ城の内日側の山裾の入野である。多少古い構造も残っているが、大部分が破壊されて大きい堰堤がつくられて、昔のさまを知るすべもない。いまひとつ、水の要所である石畑峠南東の谷にもそれらしい所があるが、新しい堰堤がつくられている。天智城の特色といわれる倉庫群は、発見されていない。前記の広場を入念に探索すれば、あるいは発見されるかもしれない。


参考



基本的に本州にある長門城は百済遺民の渡海目標であり、亡命が完了した後は不要になった。その他の施設も一時的なもので、唐からの攻撃の恐れが薄れた後は不要になった。北九州の大宰府あたりの防衛施設は唐軍をおびき寄せる囮としての機能があり、本州の施設より堅固に作られ、長く維持された。