足立山妙見宮、北九州市小倉北区妙見町 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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弓削の道鏡の天皇就任を阻止のために宇佐神宮の託宣を確認した和気清麻呂は足の筋を切られ大隈国に流される途中、救出されて宇佐神宮のお告げで小倉の足立山に行って、足の治療をして、さらに足立山頂で天皇の安泰を願ったら、その通り叶えられたので神社を創建したとか!

和気清麻呂が、秦氏の氏神である宇佐神宮のお告げで、北九州市八幡区(高天原)を中心とする秦氏が元々、信仰する足立山を頼って来たことで、この地域の秦氏の力で天皇の安泰が実現したのであろう。ちなみに、時代はニ、三百年程度遡るが、足立山頂の西隣、上宮のある妙見山頂は北九州市八幡の高天原の真東に位置している。真北には、下関市梅ケ峠の高天原があった。秦氏の軍事的勢力が維持されていたのであろう。また、山麓には今でも寺社が集まっている。

2015年6月6日追加

さらに、最北端には向津具半島があるが、ここは古事記によると伊邪那岐命が住まわれているところであり、約百年前には天智天皇の宮があった。和気清麻呂公の時代には古代の歴史がまだ明瞭に記憶されていたのであろう!

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和気清麻呂公の庵跡の葛原八幡神社、真北が向津具半島の先端(俵島、オノゴロ島)


参考




妙見宮上宮、元々の妙見神社があったところで、現在は妙見神社上宮となっています。標高519mの妙見山の山頂に位置し、風除けの為か、山頂を一段掘下げて祠などを配置しています。(原文のまま)

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背面が嘆きの壁(秦氏系神社の特徴)

足立山妙見宮、小倉北区妙見町
祭神 主祭神 
    天御中主神、高皇産霊神
    神皇産霊神
    鐸石別命 和気清麿命
由緒 宝亀元年(770年)和気清麿が創祀した全国唯一の神社で、全国妙見神社の総本宮となっています。また、和気清麿の足が立った御神徳が受け継がれ足の神様として厚く信仰されています。清麿は、宝亀元年四男磐梨為綱(出家して妙運)を造化天神降臨の地、足立山に送り、足立山妙見宮を創建。 772年、国司大伴百世の助けを得て、足立に下宮足立山平癒寺を建立。817年、清麿の三男参議真網卿が、宇佐の帰り、下宮に清麿公と祖先の神霊を祀る。853年、太政大 臣藤原良房(804~872)が、虚空蔵、釈迦、薬師、阿弥陀の仏像四体を妙見宮へ寄進。1520年頃、後柏原天皇より、全国神社の紋章としては妙見宮だけのものである「うら菊」を授かる。この紋は、和気氏の流れ、和気明親が後柏原天皇(1501~1526)から、和気氏の家紋として授かったものです。1601年、細川忠興が、眼病平癒を祈願し、この成就により妙見宮を下宮として現在地に移す。 その時、日向から取り寄せた松を植樹。1870年頃、平癒寺を御祖(みおや)神社と改称。1945年、足立山妙見宮を再称。


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境内は他の秦氏系神社と同じ形式で山に食い込んでいる。

和気清麻呂伝説
奈良時代の神護景雲3年(769年)、太宰府の神司(かんづかさ)である中臣阿曽麻呂(あそまろ)は、女帝称徳天皇に「弓削道鏡を天皇にさせなかったら、天下は納まらない。」という宇佐神宮の神託があったことを報告しました。これを聞いた天皇は、後継者問題で頭を悩ましていたが、道鏡の間柄は都中に知れ渡っていたので、宮廷貴族達を納得させるには、父聖武天皇の信仰厚かった宇佐神宮の神託を再度確かめるいがいにないと考え、和気清麻呂を宇佐神宮へ派遣した。しかし、神託は、「道鏡を天皇の位につけてはなりません。」ということで、道鏡の天皇即位の望みを断たれた天皇は、清麻呂が嘘の報告をしたと言うことで、足の筋を切り、大隈(鹿児島県)へ島流しにした。大隈への途中、宇佐の海辺の村にたどり着いた清麻呂のもとに、200頭ばかりの猪が突然現れ、彼を宇佐神宮まで連れて行ったところ「企救郡(小倉南区)の山の下の温泉に入りなさい。」という神託があったので、その通りにすると足の傷は治りました。そして、近くの山に登り、造化神北辰尊星妙見に天皇の安泰と反逆者がいなくなることを祈ったところ、造化の天神が現れ『汝の願い聴きいる』という神託をうけた。 この後、この山を「足立山」と呼ぶようになったと伝えられています。また、この時入った温泉は、足立山の麓に、今も「湯川(小倉南区)」の呼び名で残っています。

足立山は、もとは竹和(ちくわ)山と呼ばれていたと云われています。また、現在上宮のある妙見山と足立山は別々の峰として取り扱われています。



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葛原八幡神社(北九州市小倉南区葛原)


同様に、和気公は足が治ったのは八幡神のお陰であると感謝して、この近くの山裾の蜂々坂(八幡坂の訛り)に庵を結んで住み、八幡神を奉斎した。これが当社の起こりで、延暦十八年、公の没後村人が公の神霊を当社に合せ祀った。ついで、弘仁八年、子の真綱が宇佐八幡宮の勅使の帰途蜂々坂に立ち寄り、当社を現在地に移し、応神天皇を正殿、神功皇后と和気公を相殿として合祀した。

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元の跡地は安倍山公園として整備され、大正十一年、この高台に和気公の石像を建立。昭和三年、この下に「葛原八幡旧跡」碑が建てられた。 和気公神霊への正一位護王大明神の追贈の二年後、嘉永六年当社に対してこの神号と御幣が授けられ、この御幣と公の肖像は神宝として所蔵されている。このあたりは今も池が多く、霊泉の伝説にふさわしい。



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艫綱石  和気清麻呂公が上陸された時に船をつなぎとめた石で、後に菅原道真公が一時上陸された時もこの石を使われたとか(参考)!