二つの高天原の間の島、藍島 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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下関市の梅ケ峠にある高天原と北九州市八幡の高天原の間にある藍島は現在、漁師の島であるが江戸時代初期より前までは無人島であった。唯一、応神天皇が誕生する頃以降の古墳時代の古墳と遺跡が作られたのみである。二つの高天原を結ぶ響灘の中間の島である藍島は、大陸から日本に渡海中に亡くなった秦氏の人びとや、渡海を助けた海人族を葬ったのであろう。高天原に死者を上陸させないと言う、穢れを嫌っているとも考えられる。

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梅ケ峠と八幡の中間に藍島(赤斜線の右下)


参考




4   小倉北区藍島の歴史

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元和4年(1618年)、長門国向津浦の海士であった両羽十右衛門が、小倉藩主細川忠興に領内での海士業を願い出て、その許可を得て当時無人島であった藍島へ入島し、漁場を開拓したのが始まりと云われています。それ以前の入島の記録は無く、またこれまでの調査では古墳時代の古墳や遺跡は発見されていますが、それ以前の縄文・弥生時代の遺跡や以降の古代・中世の遺跡も発見されていません。このことから、古墳時代の6世紀前半から後半にかけてのわずか数十年間、突如人々が住んだかと思うと、その後約千年間は無人のままであったことになります。

古墳時代のこの付近を表したものに「日本書紀」があります。その中の、仲哀天皇八年の条に「春正月己卯朔壬午、幸筑紫。時岡縣主祖熊鰐、聞天皇之車駕、豫拔取五百枝賢木、以立九尋船之舳、而上枝掛白銅鏡、中枝掛十握劒、下枝掛八尺瓊、參迎于周芳沙麼之浦而獻魚鹽地。因以奏言、自穴門至向津野大濟爲東門、以名籠屋大濟爲西門。限沒利嶋・阿閉嶋爲御筥、割柴嶋爲御甑。」と仲哀天皇が神功皇后と共に、筑紫に向かわれたとき、崗県主(おかあがたぬし)の熊鰐が、五枝(いお)枝の賢木(さかき)をとって、船の舳先に立て、迎えに出て魚塩(なしお)の地を献上したとあります。この献上した魚塩(なしお)の地の中に沒利嶋、阿閉嶋、柴嶋と書かれているのが、現在の六連島、藍島、柴島になります。また、神功皇后紀秋九月の条に「皇后曰、必神心焉、則立大三輪社以奉刀矛矣、軍衆自聚、於是使吾瓮海人烏摩呂出於西海、令察有國耶、還曰、國不見也。又遣磯鹿海人名草而令睹、數日還之曰、西北有山、帯雲橫?、蓋有國乎、爰卜吉日、而臨發有日」と神功皇后が新羅出兵に際し、最初に吾瓮海人烏摩呂(あへのあまおまろ)を使って、渡航させたが、「国は見えません」と失敗したため、磯鹿海人名草を派遣して宿願を果たしたとあります。この吾瓮海人烏摩呂こそ、吾瓮島に拠点を置く海人「烏摩呂」の意味でで、藍島の海人と推定されています。書紀の記載内容の真実は別にしても、藍島に多くの古墳が築かれている事実から見て、そこに書かれている地名、人名は何らかの真実を反映させているのではないでしょうか。また、6世紀の一時期にのみ人々が住んだのは、複雑な朝鮮半島情勢に対応した大和朝廷の政治的かつ軍事的必要性からの生じたものだったのでしょう。

藍島の古墳群         
計45基
  1   貝島古墳群        13基
  2   千畳敷古墳群       2基
  3   深江良古墳          1基
  4   竹浦古墳群       15基
  5   寺屋敷古墳          1基
  6   馬のてら古墳群   5基
  7   前浜古墳群          2基
  8   荒神社裏古墳       1基
  9   西が鼻古墳          1基
  10 採石場古墳群       2基
  11 瀬ヶ崎古墳群       2基


5  藍島の古墳群からの出土品について北九州市の報告から抜粋するが、鉄器、須恵器の使用が注目される。
1号墳
、、、副葬品は、玄室から剣・刀子等の鉄製武具、銛頭・釣り針等の鉄製漁労具、土玉・耳環等の装身具、そして前庭部から大甕・杯等の須恵器が出土しました。なお、前庭部からの須恵器は、全て祀られた後に打ち割られていました。
貝山古墳群
石室は、玄室へ至る羨道部の形骸化、略式化が顕著で、また玄室の高さが極めて低いのが特徴で、築造年代は6世紀前半から後半と考えられています。このことから、日本書紀に記載されている「吾瓮海人烏麻呂(あへのあまをまろ)」と関係した藍島の海人族の墓と推定されています。また、出土した豊富な銛頭・釣り針等の鉄製漁労具は、全国的も珍しく注目すべき遺物となっています。さらに、これらの海人族は、古代日本の外交や軍事に深く関わっていたと考えられています。

日本書紀・古事記が伝えるところによると,応神天皇期が最初の大規模な渡来とされているが,このころ朝鮮半島では大きな動乱が起きていた。これに応じて日本に渡来し,製鉄の技術や鉄製の農具,灌漑(かんがい)技術などを伝えた人たちがいた。すなわち秦氏が渡来し、もたらした道具や技術によって、それまでの生産方法や労働形態を一変させる一大改革が起こったのであろう。また、秦氏が日本に須恵器をもたらした。古墳時代に作られた素焼きの土器である土師器とこの須恵器は時期が一致しており、用途を別にして共存していた。須恵器は破損しにくく、容器としては高性能であるが特殊な技術が必要なため、初めは日曜品には使われず、神へのお供え物などの祭事に使われたようだ。これら二種類の土器の製造に、ともに秦氏が関わったと思われる。さらに桑を植え、蚕を養い、絹を織る技術を伝えた。

6   彼らの鉄器、須恵器が藍島から出土したことも注目に値する、これは正に秦氏の渡来でもあろう。となりの六連島で生産される生活用途の土師器などが出土しないのは、この島が祭祀のためだけにあったのであろう。逆に土師器と須恵器が同時に出土することが蓋井島、室津で見出されることは、秦氏のこの地域への渡来時期が5世紀ころまで遡る可能性がある。

7   藍島内にある神社は三社程度あり、その内、二社は住吉系であり江戸期に入植した住吉海人族の氏神としての神社と思われる。しかし、本殿背後に崖又は山などがあり、秦氏の渡来を助けた住吉海人族の伝承として様式を覚えていたものか、また荒神社は島外からの参拝があったと云われており、秦氏の尊崇があったかもしれない。さらに荒神社にある猿田彦が渡来人(天孫)と地元民(国津神)の仲を取り持ったとか!猿田彦については左のURLから。

7-1 俉社神社宮
祭神  住吉三神、品蛇和気命、息長帯姫命
例祭 6月25日
由緒 不詳
藍島は、もともと蒲生神社の氏子となっていますが、島神としては伍社宮を氏神と称しています。また、旧暦の6月25日には、蒲生神社の神官が来島し、神事を行っています。また、この日は霊の入った玉を御輿に入れ、青年団が担いで家々を回って厄払いをしています。

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7-2 荒神社
祭神 住吉荒魂神、素戔嗚尊
例祭 6月26日
由緒 不詳
大泊集落の高台にあり、由緒は不明ですが昔は島外からもかなりの人が参拝に訪れていたと云われています。なお、境内に猿田彦の碑が今でも大切に祀られていました。建造年は、砂岩で造られている為風化が激しく読み取ることは出来ませんでした。

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12 神功皇后を案内して藍島を紹介した岡県主の熊鰐は安曇族(秦氏)であり、古墳群は安曇族の墓かもしれない。ちなみに、宮地嶽神社の近くの相島(読みが同じ、あいのしま)は安曇族の墓であった。