長登銅山、山口県美祢市長登の銅が東大寺の大仏鋳造につかわれていた。成分分析でも立証されている。
秋吉台の東
近くの大田・絵堂では、慶応元年(1865)正月、長州藩俗論派と正義派、高杉晋作が率いる諸隊が約10日間の戦いを展開した。明治維新発祥の地と呼ばれている。金麗社は、諸隊が本陣を置いた。
長登銅山は今のところ7世紀末から8世紀にかけて発見され、稼動が開始されたのではと考えられている。長登銅山から見て秋吉台の反対側の旧秋芳町にある中村遺跡と国秀遺跡では、7世紀の遺跡から銅鉱石や銅塊が検出されており、7世紀には長登鉱山近隣で銅の採掘と製錬が始まっていたことが明らかになっている。
また国秀遺跡からは新羅製の土器が検出されており、銅山の開発には渡来人の持つ技術が活用されたと考えられている。
東大寺の文書から、奈良時代の東大寺の大仏建立に用いられていた銅は、長門から運ばれていたことが知られていた。正倉院文章の中に、造東大寺司が長門国司に対して送付した文書の文面が残っており、これによると約18トンの銅を20名で、片道20日かけて長門から平城京まで運んだことがわかる(wikiより)。
豊前国の香春町も、8世紀に編纂された文書「風土紀」に初めて公式文書に登場し、香春銅山の銅も渡来人により開発され奈良の大仏に使われた。町名の由来は古代朝鮮語にあり、朝鮮半島にゆかりがあったとされ、かかわる地名も残っている(wikiより)。
百済(新羅?)の銅の技術者が538年に渡来した(参考)。
製鉄のルーツはトルコあたりのヒッタイト帝国、タタラの渡来ルート、タタラは中国には残らず、現在、日本のみの技術とか!古墳時代中期以降に鉄の自給が始まった。すなわち、製鉄の民は古墳時代中期以降に皆、日本に渡来したことになる。