八百万の神は元は瀬織津姫だった? | 日本の歴史と日本人のルーツ

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神々の中に瀬織津姫が顔をチラつかせる。

国家統一が完了し弥生時代から古墳時代に入った時点の前後の唯一神は卑弥呼、すなわち瀬織津姫であったのであろう!

大和朝廷が確立し、神々の体系を整備して古事記、日本書紀などに記載する段階で、無理矢理、地方の神社に神様を割り当て、元々の唯一神の瀬織津姫を隠したことが、混乱の元になったのであろうか!

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瀬織津姫

古墳時代の始まりは崇神天皇、瀬織津姫のイリ系渡来王朝からで、古墳時代中期の古墳が巨大化する応神天皇のワケ系王朝から秦氏が大挙して渡来し、神々の体系を整備して行き、記紀が刊行された段階で瀬織津姫は隠されたのであろう。記紀の編集者は天皇家を含む渡来人、秦氏であり、秦氏が元々信仰する宗教の教義(八幡信仰)に合わせたのであろう。秦氏そのものの存在が目立たないのは、大和政権そのものだった為である。

しかし、瀬織津姫、すなわち卑弥呼の巫女的な神への信仰を消すことは出来なかったので、瀬織津姫を祓戸の神にして祝詞の中だけの神にし、崇神天皇、すなわち天照大神を女神にしたとも考えられる。また、持統天皇や神功皇后など女帝の正当化の為に天照大神を女神化する必要もあった(下記、参考URLから)。

貴船大明神(参考)、稲荷大明神や豊受大神も瀬織津姫であった(参考)。すなわち、伊勢神宮の内宮、外宮の神も瀬織津姫の化身だった(参考)。

現在の宗像大社の宗像三女神も記紀の記述そのものとなっているが、陰に置かれた瀬織津姫辺津宮と中津宮のそれぞれの境内社の祓方神社に、織姫は中津宮の織姫神社にそれぞれ祀られている。また、末社の皐月神社や、津屋崎の波折神社にも瀬織津姫が見出せる。さらに宗像三女神の一神・湍津姫と同体ともされる瀬織津姫、宗像大宮司が特に「私祭」していた。玄界灘の中海の大嶋(大島・中津宮)にいる(宗像)神は「厳重之奇瑞」が多く、これを湍津姫と名づけ奉る (参考)。



参考
瀬戸内海の海人族の信仰について、厳島神社は市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命(宗像三女神)を祀り、大山祇神社には大山積命そして、タカオカミノ神、イカヅチノ神を祀ります。どちらも、瀬織津姫の代わりに祀られた神様です(参考)。また、大山積命の娘、木花咲耶姫は瀬織津姫であった(参考)。天孫、邇邇芸命の嫁となった。すなわち、宗像三女神は叔母神である。木花咲耶姫は宗像氏と同族の阿多隼人の娘であり、また、瀬戸内海に入った阿多隼人族の氏神が大山積命であった(参考1参考2)。

大神神社の末社の祓戸神社瀬織津姫を祀り、穢れを祓うために真っ先に拝む神となされている。


参考URL抜粋

日本の各地には、天照に先行して、瀬織津姫神の足跡が、ほとんど日本全国に均等にあります。数ある日本の古文書の中で唯一、秀真伝にしか登場しない瀬織津姫の名は、全国各地の約500の神社に祭神名として残り、中臣氏が作成した大祓祝詞にも登場するので、少なくとも7世紀までは中央の祭祀掌握者には勿論、 庶民の間にも瀬織津姫については何らかの情報があり、信仰の対象であったといえます。しかし、その直後,712年と720年に完成した記紀には一切登場しておらず、意図的に除外されたことが十分にうかがえるのです。瀬織津姫を縄文のアラハバキ神と結びつけて考える人もいますが、アラハバキ神社は、三重県以東にかたまることを見ても、少し性格が違うような気がしますね。

日本の場合、征服者は必ずしも被征服者の崇める神を抹殺せず、主神と客神を入れ替えることで、被征服者の神をも取り込んでいるものですが、瀬織津姫は、大祓祝詞の中に、もろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流す神として残るのみです。水に関する神であることから、移動する古代の水銀採集民である壬生の民や製鉄民の神であった可能性もありますが、

秀真伝「ホツマツタエ」というのは、景行天皇56年(126)に三輪臣オオタタネコノによって三輪系の伝承が編纂されたものです。要するに「天孫」の伊勢神宮と「国神」が分祀されるという時代の時の話です。

記紀との一番の違いは、アマテラスが男神であるという点です。いわく、イサナミの父トヨケ(伊勢外宮祭神・豊受大神)は第六代天神のオモタルとカシコネの両神に世嗣の皇子が無いので、自分の娘のイサコを先祖の遠戚に当たるタカヒトと結婚させ、七代目の皇位を嗣がせることに決めた。イサコはヒタカミの国(日高見=陸奥)、タカヒトはネの国(北陸)で育ったので、言葉や習慣に違いがあり、合意形成に時かかったが、イサコの慣れ住んだヒタカミと、 タカヒトの育ったネの国から、互いに歩み寄ったツクバ(筑波)に二人のために新宮を建てることになった。この宮はイサ川(桜川)から少し離れた台地に造られ、イサ宮の離宮と呼ばれた。この日以来、タカヒトはイサナギ、イサコはイサナミと名乗り七代目の天神となった。

記紀はアマテラスを女神とするが、『秀真伝』は瀬織律姫をイザナギ、イザナミの皇子であるアマテラスの正妃で、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(ムカツ姫)は瀬織律姫のことだとしている。東国の話ですね。アマテラスが、卑弥呼や神功、持統の影響で女性の太陽神になったとも考えられ、 この神話体系自体が、先住の東夷の物語の上に、天孫という征服者によって上書きされた可能性は、実は、あるのではないか。伊勢神宮の、「斎宮」
制とか、女性しか触れない「心の御柱」のありようを考えるとき、古いアマテラスが男神であった可能性は、捨てがたい魅力です(参考)


注意

元々、縄文時代から弥生時代は一神教、例えば自然の恵、水の神、すなわち瀬織津姫に相当する神があった。また、山、海、川と多くの神々が例えあっても、原始的であり、一神と見なしても特段矛盾は無かった。卑弥呼の時代、すなわち弥生時代末期から古墳時代初期に崇神天皇(イリ系王朝)が太陽神(日巫女)を瀬織津姫に上書きして全国を統一した。さらに応神天皇(ワケ系王朝)の時代から八幡の神の体系(八百万の神々、例えば旧約聖書の中の人物)に移行させたと、、考えてはどうだろうか!

記紀の中の造化三神、安曇三神、住吉三神、宗像三女神の他、多くの神々が不思議にも三兄弟になっているが、旧約聖書の中の人物に三兄弟の例が多く見られると言う(参考wikiなど)。