神社の創建時期、実際には8世紀初期の記紀編纂と同時期 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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古代の原始祭祀の時代から神社の体制を整えた創建時期は、大体8世紀初期からであろう。もっとも古い神社は宗像大社や出雲大社で、それでも7世紀中頃の創建であろう。


創建年代を追うと、大化改新の遂行結果と結論付けられる。すなわち、大化改新(たいかのかいしん)は、飛鳥時代の孝徳天皇2年(大化2年)春正月甲子朔(西暦646年)に発布された改新の詔に基づく政治的改革。中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足(後の藤原鎌足)らが蘇我入鹿を暗殺し蘇我氏本宗家を滅ぼした乙巳の変の後に行われたとされる(この暗殺事件もまとめて大化の改新と呼ぶこともある)。天皇の宮(首都)を飛鳥から難波宮(現在の大阪市中央区)に移し、蘇我氏など飛鳥の豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと移り変わったとされる。また大化は日本最初の元号である(wikiより)。


この時期からの情勢として663年、白村江の戦いに敗れ、新羅が朝鮮半島を統一してしまったこと、また、白鳳地震(7世紀末の南海トラフ巨大地震)の影響も、否応無く日本の体制を変える節目になったであろう。



参考


① 宗像大社、646年


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大化改新の詔、大化2年(646年)によって国郡の制が敷かれると、宗像一郡が神領として与えられ、宗像氏が神主として神社に奉仕し神郡の行政も司ることになった(wikiより)。



② 出雲大社、659年


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659年(斉明天皇5年)、出雲国造に命じて「神之宮」を修造させた(『日本書紀』)。社伝においては、垂仁天皇の時が第1回、斉明天皇の時が第2回の造営とされている(wikiより)が、第2回目が確実な記録と考えられる。


③ 一神教から多神教へ、669年


太陽神・卑弥呼の一神教から、太陽神・天照大神を中心とする多神教への移行が669年に為されている(参考)。



④ 伊勢神宮、690年以降


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『日本書紀』は十一代天皇の御代(三世紀後半)に伊勢神宮が建てられたと書いているが、持統天皇の伊勢行幸(六九二)とこの歌(六九六)から、この時点では、伊勢神宮はまだ存在していなかったと考えられる。文武天皇紀(四二代 在位六九七ー七〇七)から、伊勢神宮に関する、それも具体的な記事が急に増えてくる。(『続日本紀』)それまでの『日本書紀』の伊勢神宮に関する記事と比べると圧倒的に多い。伊勢神宮は、本当は文武元年(六九七)以降に立てられたと思われる(参考)。


内宮:垂仁天皇26年 BC4年
外宮:雄略天皇22年 478年


記録によれば神宮式年遷宮は飛鳥時代の天武天皇が定め、持統天皇4年(690年)に第1回が行われた(wikiによる)。



⑤ 大宝律令(たいほうりつりょう)は、701年(大宝1年)に制定された。「律」6巻・「令」11巻の全17巻。日本史上初めて律と令が揃って成立した(wikiより)。



⑥ 大宝律令で、新しい国名「日本(ヤマト、ニッポン)」を制定した(wikiより)。



⑦ 国家体制の確立、710年


平城京に遷都する(694年に藤原京への遷都が一時期あったが、遷都は685年の南海トラフ巨大地震の後の復興公共工事の色彩も考えられる)。



⑧ 正史の編纂、720年


712年の古事記、720年の日本書紀の神話の体系は新国家の体制の確立を正当化させるものである(参考)。



⑨ 宇佐神宮、725年


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社伝等によれば、欽明天皇32年(571年?)、宇佐郡厩峯と菱形池の間に鍛冶翁(かじおう)降り立ち、大神比義(おおがのひき)が祈ると三才童児となり、「我は、譽田天皇廣幡八幡麻呂、護国霊験の大菩薩」と託宣があったとある。崇峻天皇年間(588? - 592年?)に鷹居社(.たかいしゃ)が建てられた(wikiより)。


一の御殿:八幡大神 --聖武天皇・神亀2年(725)創建・遷座

二の御殿:比売大神 --聖武天皇・天平6年(734)創建・勧請
三の御殿:神功皇后 --嵯峨天皇・弘仁11年(780)創建・勧進 (参考)



香椎宮、忌宮神社それぞれ724年、728年に、3社ある住吉神社は724年から749年の間に創建した。



京都の秦氏系の神社、例えば、松尾大社、日吉大社、賀茂神社、八坂神社、伏見稲荷神社も全て、この時期までに創建された。



大化改新(645年)から大宝元年(701年)あたりまでの天皇と都



注:


延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)とは、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十のことで、当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧である(wikiより)。これに記載された神社を式内社と呼び、正当な由緒ある神社とされる。



感想


海人族の神社について宗像系、住吉系に対し安曇系(蘇我氏)の影が薄い理由が見えてきた。国歌、君が代の歌詞は安曇磯良を讃える神楽歌であったものを天皇家が受け継いだものとも考えられる。


渡来人を受け入れることでの国つくりの時代は終わりに近づいて来たと考えられる。白村江の戦いの敗戦も最後の渡来人の引き取りであり、意図的なフィナーレであったろうか(参考)!


東大寺の建立と大仏の造立も一連の流れか!


671年に天智天皇が急死すると、壬申の乱が起こる。これに勝利した大海人皇子は、天武天皇(生年不詳~686年)として即位した。天皇は唐よりむしろ新羅と交流し、唐に対抗した。しかし、天武天皇没(686年)後は両国の関係が次第に悪化した。内政面では、天武天皇の死後もその専制的統治路線は持統天皇によって継承され、701年、それまでの倭国(ヤマト王権)は「日本」という国家へと改名した。「日本」の枠組みがほぼ完成した702年以後は、文武天皇によって遣唐使が再開された(wikiより)。


久留米市の高良大社は673年ころが社殿の創建時期か!