宗像市鐘崎の伝説と沖ノ島の祭祀 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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海北道中を経由して鐘を朝鮮半島から輸送中に津波か何かで沈んだ伝説、沖ノ島の海底遺跡との関連を考えている。沖ノ島の海底遺跡は桟橋の類いが津波(西暦679年の筑紫地震か、684年の南海トラフ巨大地震(白鳳地震))などで破壊されたと考えている。

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沖ノ島、海底遺跡

祭祀そのものは継続されるが、この時期から岩陰から露天に広がっている。奉納品も国外品から国内品に移り変わっている。

この時期の情勢は、日本は白村江の戦いに敗れ、新羅が朝鮮半島を統一してしまった時期にあたり、また大和朝廷が確立され、710年に平城京に遷都することになる。

7世紀末の南海トラフ巨大地震の影響は沖ノ島の海底遺跡に関係が有ろうと無かろうと、日本の体制を変える節目になったであろう。712年の古事記、720年の日本書紀の神話の体系は正に、これらの情勢の変化を節目とすると推測される。

ちなみに、太陽神・卑弥呼の一神教から、太陽神・天照大神を中心とする多神教への移行が669年に為されている(参考)。


参考

1  宗像市鐘崎の伝説(参考)

竜蛇と鐘をめぐる伝説の本丸はやはり九州だろうか。殊に鐘崎の鐘ノ岬は『万葉集』にすでに「金(鐘)の岬」とうたわれており、あるいはもう伝説があったのかもしれない。さらに、『大系』の同稿には九州の沈鐘伝説が類話として集められており、目がまるくなる。併せて掲載しよう。

鐘崎:要約
昔三韓から二丈八尺の大鐘を船にのせ運んできたが、竜神が鐘を欲し、風波が起って鐘は船もろともに海の底に沈んだと伝わる。晴天の日には海の底にその鐘を見ることができたそうな。
文明五年に宗像大宮司興氏がこれを引き上げようとしたが、風波のために果たせなかった。また、慶長九年には黒田長政が引き上げようとした。諸臣は竜神が惜しむからと言って諌めたが、「我が領内の物を竜神といえども障げるはずはない」と言って千人力で引き、少し動きかけた時にわかに風波が起って、船は砕け綱は切れ、人も大半は溺死した。
さらに三四代目の国主は、髪の毛を寄り合わせた大綱を鐘の竜頭に結びつけ引き上げようとしたが、少し動いた際に天地が鳴動し、船も人も微塵となった。鐘は竜頭も砕けて海底深く横に倒れ、大浪は陸に上り田畑や民家を害した。
その時翁の面が浮き上がったが、稀代の名作であったので宗像宮に納めた。沈んだ鐘を引き上げる時火の雨が降り火の風が吹いたので、里人が隠れたという洞穴が岬村の湯川山の麓にある。(『筑前の伝説』)

みずうみ書房『日本伝説大系13』より要約

実はこの「鐘」大正時代にも嘉穂郡穂波町の実業家、山本菊次郎により引き上げられている。しかし、鐘と思われていたのは大岩だったそうで、今その大岩は織幡神社(参考1参考2)の境内にあり、碑が建てられている。

そして鐘は海に沈み龍神(りゅうじん)に守られて、風が強く波が騒ぐ日は澄んだよい音を響かせました。 それで鐘崎の東の海を響灘(ひびきなだ)というようになったそうです(参考)。


2  筑紫地震は飛鳥時代後期(白鳳時代)に九州北部で発生した大地震である。『日本書紀』に記述されており、震源域がほぼ判明しているものとしては日本最古の歴史地震である。日本書紀には筑紫地震前後から地震の記述がしばしば登場し、本地震の約6年後には南海トラフ巨大地震である白鳳地震が発生している。

天武天皇7年12月中(ユリウス暦679年1月18日 - 2月15日、グレゴリオ暦679年1月21日 - 2月18日の間)に筑紫国を中心に大地震が発生した。地震の発生日は不明である。巾2丈(約6m)、長さ3000丈余(約10km)の地割れが生成し村々の民家が多数破壊され、また丘が崩れ、その上にあった家は移動したが破壊されることなく家人は丘の崩壊に気付かず、夜明後に知り驚いたという(wikiより)。


3  沖ノ島祭祀が、岩陰祭祀から露天祭祀へと移行する過渡的段階にあたるのが半岩陰・半露天祭祀です。7世紀後半になると、それまで巨岩の直下にあった祭場が拡大して岩陰の外まで及ぶようになり、祭場の大部分が露天となりました。従って、この段階は祭場が次第に岩から離れていく時期、すなわち、巨岩祭祀から露天祭祀への転換期とされています(参考)。