ヤマトの鏡、画文帯神獣鏡 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

ヤマトの鏡は宗像の海北道中、瀬戸内海経由で朝鮮半島の楽浪郡からヤマト纒向にもたらさられた。伊都国経由ではなかった。


注目するヤマトの鏡は画文帯神獣鏡、3世紀ころに制作され、中国からも出土し、出土点数が少なく、早くから埋納されることなく大事に伝世されて5世紀後半ころの古墳から出土することもあるのが特徴である。これがヤマト近辺のみならず、沖ノ島の祭祀遺跡や津屋崎古墳群の中から出土している。

この3世紀の鏡「画文帯神獣鏡」を魏志倭人伝にある「卑弥呼の鏡」とする見方もある(参考)。

参考

画文帯神獣鏡 - 三角縁神獣鏡とおなじく神獣鏡の一種。内区(内側の部分)に、神仏思想をあらわす神仏や、竜、虎などの霊獣を、 半肉彫で描き出した文様をもつ鏡。縁の部分が、厚く平らになっている(平縁)。三角縁神獣鏡のように、縁が上にとがっておらず、上が平らである。

平縁部分に、画文帯と呼ぶ絵画的な文様帯をもつ。内区と縁との境界に、半円形と方形とを交互に配置した半円方形帯をもつものや、乳(円錐形の小突起)が神獣文の一部として環 状に表現された環状乳神獣鏡も、この鏡式に含まれる。画文帯神獣鏡のなかまに、画文帯仏獣鏡がある(参考)。


ホケノ山古墳は、奈良県桜井市大字箸中字ホケノ山に所在する古墳時代前期初頭の纒向型といわれるホタテ貝型の前方後円墳である。築造は中国史書に記された邪馬台国の時代にちょうど重なると推測されている。出土品は、画紋帯同向式神獣鏡(がもんたいどうこうしきしんじゅうきょう)1面、画紋帯神獣鏡かと考えられる銅鏡片2個体分、内行花文鏡片など(wikiより)。


日本、中国でも多数出土する。中国で3世紀に製作されたと思われるが、日本では5世紀後半の古墳から出土することがある。日本からは約60面出土している。畿内地域を中心に出土することや2世紀の末頃北部九州の銅矛、畿内や東海地域の銅鐸が姿を消し、画文帯神獣鏡が現れるのが特徴である(wikiより)。

{7D3CA238-EDCA-4193-8C73-86067B4A2C40:01}
画文帯神獣鏡(参考)

勝浦峯ノ畑古墳、津屋崎:5世紀中頃

石室内からは画文帯神獣鏡(がもんたいしんじゅうきょう)、連弧文鏡(れんこもんきょう)、珠文鏡(しゅもんきょう)など7面の鏡、六角装大刀(ろっかくそうたち)40点、短甲(たんこう)、10,000点以上のガラス玉など多量の遺物が出土しています。これらの副葬品は沖ノ島7、8号遺跡にも対比できる内容であり、この古墳の被葬者と沖ノ島祭祀との関わりをうかがわせる(参考)。


{6CFE0BC7-254F-42F2-AB5C-77BE55B6B895:01}



以下引用

画文帯同行式神獣鏡など、特に瀬戸内以東の日本列島と楽浪郡でのみ確認される特異な一連の鏡群は「楽浪鏡」と定義されています。それには画文帯同向式神獣鏡の他、飛禽鏡、「上方作」銘獣帯鏡、そして斜縁二神二獣鏡がそれに当たるとされています。そのなかでも斜縁二神二獣鏡は三角縁神獣鏡に最も類縁性の近い鏡として知られており、この鏡種にも「吾作」銘のあるものが多く存在しているのは偶然ではないと考えています。斜縁二神二獣鏡は神人龍虎画像鏡を母体により成立した鏡種であると言われていますが、神人龍虎画像鏡は長江下流域の浙江省北部の海岸地域で集中して発見される呉系の鏡とのこと、すなわち楽浪鏡の成立には呉系の鏡工人が深く関わっていたことが明確に示された訳です。一方北部九州地方では、弥生時代に大量の方角規矩鏡や内行花文鏡などの漢式鏡が出土したにも関わらず、画文帯神獣鏡などの楽浪鏡の出土はほとんど認められません。特にそれまでの鏡文化の中心であった伊都国の領域では、3世紀初期に位置づけられる平原墳丘墓を最後に鏡の埋納は終焉してしまいます。平原墳丘墓では、内行花文鏡と方格規矩鏡が出土していますが、この組み合わせが北部九州では一般的であったのに対し、やや遅れて造営されたホケノ山古墳では、内行花文鏡と画文帯神獣鏡の組み合わせに変化しています。すなわち瀬戸内以東では後漢鏡に加え楽浪鏡が墳墓に埋納され始めたのです。この背景には畿内を中心として興隆した新興勢力が、伊都国を経由しない独自の経路で、朝鮮半島や中国大陸と直接交流し始めたことを示しているのではないでしょうか。

http://ketsuyukai.digi2.jp/shiten3yamatai.htm


三角縁神獣鏡は楽浪鏡に多い斜縁二神二獣鏡によく似ていること、三角縁は紹興に多く、文様などは洛陽鏡にもみられること、またヤマトを中心に大量に出土していることなどを考えると、九州倭国への経路ではなく、ヤマトへの直接経路「九州北部東岸→瀬戸内→ヤマト」で渡来した斜縁二神二獣鏡が、それまでの紹興、洛陽の鏡式と融合して成立したもの、それが三角縁神獣鏡である、という思いを強くする。

http://www.ne.jp/asahi/isshun/original/note41.html


渡来人秦氏の居住地分布


三角縁神獣鏡が洛陽で発見される


沖ノ島の三角縁神獣鏡は舶載鏡


三種の神器