ヤマトの鏡は宗像の海北道中、瀬戸内海経由で朝鮮半島の楽浪郡からヤマト纒向にもたらさられた。伊都国経由ではなかった。
勝浦峯ノ畑古墳、津屋崎:5世紀中頃
石室内からは画文帯神獣鏡(がもんたいしんじゅうきょう)、連弧文鏡(れんこもんきょう)、珠文鏡(しゅもんきょう)など7面の鏡、六角装大刀(ろっかくそうたち)40点、短甲(たんこう)、10,000点以上のガラス玉など多量の遺物が出土しています。これらの副葬品は沖ノ島7、8号遺跡にも対比できる内容であり、この古墳の被葬者と沖ノ島祭祀との関わりをうかがわせる(参考)。
画文帯同行式神獣鏡など、特に瀬戸内以東の日本列島と楽浪郡でのみ確認される特異な一連の鏡群は「楽浪鏡」と定義されています。それには画文帯同向式神獣鏡の他、飛禽鏡、「上方作」銘獣帯鏡、そして斜縁二神二獣鏡がそれに当たるとされています。そのなかでも斜縁二神二獣鏡は三角縁神獣鏡に最も類縁性の近い鏡として知られており、この鏡種にも「吾作」銘のあるものが多く存在しているのは偶然ではないと考えています。斜縁二神二獣鏡は神人龍虎画像鏡を母体により成立した鏡種であると言われていますが、神人龍虎画像鏡は長江下流域の浙江省北部の海岸地域で集中して発見される呉系の鏡とのこと、すなわち楽浪鏡の成立には呉系の鏡工人が深く関わっていたことが明確に示された訳です。一方北部九州地方では、弥生時代に大量の方角規矩鏡や内行花文鏡などの漢式鏡が出土したにも関わらず、画文帯神獣鏡などの楽浪鏡の出土はほとんど認められません。特にそれまでの鏡文化の中心であった伊都国の領域では、3世紀初期に位置づけられる平原墳丘墓を最後に鏡の埋納は終焉してしまいます。平原墳丘墓では、内行花文鏡と方格規矩鏡が出土していますが、この組み合わせが北部九州では一般的であったのに対し、やや遅れて造営されたホケノ山古墳では、内行花文鏡と画文帯神獣鏡の組み合わせに変化しています。すなわち瀬戸内以東では後漢鏡に加え楽浪鏡が墳墓に埋納され始めたのです。この背景には畿内を中心として興隆した新興勢力が、伊都国を経由しない独自の経路で、朝鮮半島や中国大陸と直接交流し始めたことを示しているのではないでしょうか。
http://ketsuyukai.digi2.jp/shiten3yamatai.htm
三角縁神獣鏡は楽浪鏡に多い斜縁二神二獣鏡によく似ていること、三角縁は紹興に多く、文様などは洛陽鏡にもみられること、またヤマトを中心に大量に出土していることなどを考えると、九州倭国への経路ではなく、ヤマトへの直接経路「九州北部東岸→瀬戸内→ヤマト」で渡来した斜縁二神二獣鏡が、それまでの紹興、洛陽の鏡式と融合して成立したもの、それが三角縁神獣鏡である、という思いを強くする。
http://www.ne.jp/asahi/isshun/original/note41.html