高天原から初めて筑紫の日向に降臨した瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が薨去され葬られた筑紫の日向の可愛の山陵(ちくしのひむかいのエイノオのみささぎ)の場所を検討する。
『日本書紀』に「可愛」と書いて「エノ」「エノー」「エイノオ」と読んでいる。海に泳ぐエイの尻尾のことであろうか?また、「可愛」は「可美」や「善」とも書き、「美しい」とか、「立派な」、「好ましい」などの意である(参考)。
福岡県福津市津屋崎のある渡半島を見て欲しい。渡のあたりがエイの頭で、勝浦海岸から東の田園は元は入海であり、北に向かって尾が伸びて宗像の草崎にいたる。まさに海の中道であり、立派なエイの尾である。
左下が津屋崎のある渡半島、右上の海岸線が草崎に接続する勝浦浜。長い尾とヒレを動かせて泳ぐ躍動感あるエイに見える。
尾の先端あたりに勝浦古墳群が広がっている。この中にニニギノミコトの墓があるのであろう。特に勝浦峯の畑古墳に5世紀中頃の100m級の前方後円墳がある(参考)。
石室の中央に2本の石柱が立って天井を支えています。このように石室内に石柱をもつ古墳は国内には他にありません。朝鮮半島北部にあった高句麗(こうくり)の古墳に類例があり、海を介して宗像地域と高句麗の文化交流があったことをうかがえます(参考)。また、石室内からは画文帯神獣鏡(がもんたいしんじゅうきょう)、連弧文鏡(れんこもんきょう)、珠文鏡(しゅもんきょう)など7面の鏡、六角装大刀(ろっかくそうたち)40点、短甲(たんこう)、10,000点以上のガラス玉など多量の遺物が出土しています。これらの副葬品は沖ノ島7、8号遺跡にも対比できる内容であり、この古墳の被葬者と沖ノ島祭祀とのかかわりをうかがわせます(参考)。
沖ノ島に残る祭祀遺跡は番号がふられていますが、巨岩上の21号遺跡の祭祀を勝浦峯ノ畑古墳の被葬者が行っていたことが確認できるというのです。勝浦峯ノ畑古墳は5世紀中頃に築造された古墳と推定されるのですが、同古墳出土の舶載鏡「八乳獣帯鏡」片と同形鏡が21号遺跡でも数点確認されています。勝浦峯ノ畑古墳の被葬者は、当時、宗像地域の王だったと考えられるわけですが、沖ノ島21号遺跡の祭祀を行っていたのは彼だと推測されるわけです(参考)。
参考
宮地嶽神社は高天原であった
宮地嶽神社は筑紫の日向であった
渡来人は文化ももたらした
渡来人は馬ももたらした
天照大御神と弟、素戔嗚尊の誓約で宗像三女神が生まれたが、素戔嗚尊の子が武内宿禰(海人族安曇氏の祖・安曇磯良=事代主命=五十猛命)であり、海人族住吉氏は海人族安曇氏の支族であったこと。武内宿禰と神功皇后は同族で秦氏であることから、記紀の天照皇大神の神話は西は北九州から東は出雲付近の初期秦王国(4ヶ所の高天原を含む)が舞台と考えて差し支え無い。
ミササギ(陵、墳墓)とはヘブライ語でムトウサガ(死者を閉ざす)と言う意味である。(参考)
○4世紀末ー5世紀前半の沖ノ島21号と5世紀前半―中ごろの宗像の海辺の正三位社前遺跡の小形鉄鋌は 奈良県の大和6号墳の鉄鋌に似ている(端部が撥型に開く形)。大和6号墳は大和王権中枢における鉄素材の集積管理場所で大型鉄鋌282枚、小型鉄鋌590枚が出ている。