日本人の食生活 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

下関の北浦海岸の農家は今でこそ肉食の洋風な生活をエンジョイしているが、50年前以前、親の代は肉食は無く、米、野菜は自家製で、魚は漁師の婦人の訪問販売から購入して食していた。味噌、醤油、豆腐、酒は店から購入していたが、自家でも製造していた。あと、自分の山に山菜採りに出かけ、山芋、筍、蕨、茸を食していた。蛋白質の摂取源について、牛馬は農耕用であり食するものでは無く、精々、鶏の卵、豆腐、魚であった。猪、豚、鹿、川魚は東日本では食されていた様だが、当地では基本的に常食とはしていなかった。

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邪馬台国時代から変わらない生活が二千年近く続き、急激な食生活の変化は日本人の体には合わない!改めて、邪馬台国時代の生活に戻ることが大切ですね!


参考

魏志倭人伝での倭人の食生活を覗くと、「漁師も好んで水にもぐって魚や蛤を捕る。稲、紵麻(からむし)を植えている。牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)はいない。土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。薑(きょう、ショウガ)・橘(きつ、タチバナ)・椒(しょう、サンショウ)・蘘何(じょうか、ミョウガ)があるが、美味しいのを知らない。人々は酒が好きである。」とある(wikiより)。

もちろん、米は弥生時代から、穀類は縄文時代以前からあった。

さらに、奈良時代の九州の鴻臚館のトイレ遺構の寄生虫卵分析により、豚や猪を常食する外国人のトイレと日本人のトイレが別々に設けられていたことが判明している(wikiより)。ただし、トイレを分けるのは検疫のためで日本に無い寄生虫や病原菌を阻止する為であるが、この例から肉食の有無が分かる。




現在のものにつながる味噌、醤油、豆腐の始まりは大体、8世紀初頭前後らしい!すなわち、つい最近まで(50年前まで)の約1200年間、これらを調味料やタンパク源にして、米(穀類)、野菜、魚を食べる生活を続けたことになる。


① 味噌の歴史


日本の味噌の原型は歴史が古く、弥生時代だとする説がある。日本においては縄文時代から製塩が行われ、醤などの塩蔵食品が作られていたと見られる。縄文時代後期から弥生時代かけて遺跡から穀物を塩蔵していた形跡が見つかっている。古墳時代からは麹発酵の技術を加えたものとなった(wikiより)。


中国からの伝来説では、その歴史は飛鳥時代から始まり、味噌の起源は古代中国の大豆塩蔵食品の「醤(しょう・ひしお)」だと言われています。醤になる前の熟成途中のものがとてもおいしかったので、これが独立し味噌という食品に発展したのです。このことから、未だ醤にならざるもの、すなわち「未醤(みしょう)」と名付けられ、みしょう→みしょ→みそと変化したと推定されています(参考)。


② 醤油の歴史


日本における最古の歴史は弥生時代とされている。肉醤、魚醤、草醤であり、中国から伝わったものは唐醤と呼んだ。文献上で日本の「醤」の歴史をたどると、701年(大宝元年)の『大宝律令』には、醤を扱う「主醤」という官職名が見える。また923年(延長元年)公布の『延喜式』には大豆3石から醤1石5斗が得られることが記されており、この時代、京都には醤を製造・販売する者がいたことが分かっている。また『和名類聚抄』では、「醢」の項目にて「肉比志保」「之々比之保」(ししひしほ)についてふれており、「醤」の項目では豆を使って作る「豆醢」についても解説している(wikiより)。


③ 豆腐の歴史


古くは奈良時代(710~784年)に、中国に渡った遣唐使の僧侶等によって伝えられたとされていますが、明確な記録はありません。豆腐が記録として登場したのは、寿永2年(1183年)、奈良春日大社の神主の日記に、お供物として「春近唐符一種」の記載があり、この「唐符」が最初の記録といわれています。いずれにしてもわが国で豆腐が造られたのは、奈良・平安時代からといえそうです(参考)。


一般に豆腐は中国から日本へ伝えられたとされるが、空海によるという説、鎌倉時代の帰化僧によるとする説もあるなど様々な説がありはっきりとしていない(wikiより)。