古代の検疫所、鴻臚館、福岡 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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国際交流、渡来人の受け入れで心配なのは伝染病、幕末に開国して大問題となったことの一つにコレラの大流行があった。検疫所が必要で、めったやたらの場所で入国出来ない。江戸時代の平戸や長崎出島など、限られた入り口を作った理由の一つであろう。推古天皇が隋の使者、裴世清を飛鳥に招くにも、鴻臚館、難波館などに滞在させており、直行させていない。


参考


7世紀から11世紀にかけては、国際交流が盛んになり、665年には筑紫館(つくしのむろつみ、つくしのたち)が建設され、これが後に太宰府の迎賓館となる鴻臚館(こうろかん)となった。外国からの使節の接待、遣唐使などの送別といった迎賓館としての機能に加えて、貿易事務所、検疫所的
な役割も果たしていたらしい。鴻臚館遺跡は1988年に当時の平和台野球場の外野席の土盛りの下から発見され、市民を驚かせた。奈良時代は目の前が海岸であり、使節の船は沖がかりして小舟で上陸した。

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鴻臚館遺跡

鴻臚館(こうろかん)は、京都の平安京、大坂の難波、福岡の3か所に設けられ、その場所が特定されているのは福岡の鴻臚館だけです。福岡の鴻臚館の前身は、日本書紀の中に書かれた筑紫館(つくしのむろつみ)と考えられ、その時代を含め鴻臚館は、7世紀後半から11世紀前半までの約400年間、大陸との対外交渉、文化交流の窓口として重要な役割を担った(参考)。

海外使節はまず鴻臚館に入館して大宰府や都へ上ることとなっており、当時の帰国の手続は、まず、使節団一行が無事帰国したことを都へ知らせ、朝廷から発行された沙汰書をもらい、それを持って都へ向かうことになっていました(参考)商人は到着から通商までの3か月から半年間を鴻臚館内で滞在。宿泊所や食事は鴻臚館側が供出した(wikiより)。

奈良時代のトイレ遺構の寄生虫卵分析により、豚や猪を常食する外国人のトイレと日本人のトイレが別々に設けられていたことが判明している。さらに、男女別のトイレであり、トイレットペーパーには籌木(ちゅうぎ)という棒きれが使われていたことが判明している(wikiより、筆者の幼少期の見聞きからの想像であるが、トイレの区別は、通常は糞便を貯めて肥料として田畑に撒くが、外国人の便は使わずに埋めてしまうなどの防疫対策があったのであろう!つい最近(50年前)まで田畑に購入した糞便を撒いていており、回虫や蟯虫などの寄生虫が普通に存在したが、コレラなどの流行時は糞便の購入・運搬を止めるなどの処置を行っていた)。

大阪の難波館に、推古16年(608年)4月に煬帝帝の使者裴世清が来訪するにあたって、まず筑紫に滞在させ、その間に「高麗館(こまのむろつみ)の上に新館を造る」(『日本書紀』)ことで歓迎の準備を整えている(wikiより)。すなわち、訪京途中、何箇所かに滞在させて伝染病の発病の有無を確認する検疫が行われていることを示唆する。

京都の平安京の施設は渤海使の為で、この場合、福井県に松原客館を設けた。919年(延喜19)若狭国丹生浦に来た渤海使の一行をここに遷送したのをはじめとする渤海使の接遇や,その後の宋商の来航に際してしばしばこれが利用された(コトバンクより)。


 渡来人の受け入れ施設の高天原も検疫所の機能があったであろう