攘夷とか国防とは夷狄の侵入よりも、伝染病の侵入を恐れたのでは! | 日本の歴史と日本人のルーツ

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基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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幕末、徳川幕府は開国した。これと同時にコレラが大流行して江戸や長州の萩もコレラで多くの人が亡くなったとか!江戸時代の鎖国の間、長崎の出島が唯一の窓口であったのは侵入する伝染病対策でもあった。オランダ商館長やシーボルトなど出島を出て下関など経由して江戸まで船旅をしているが、検疫期間後なら長崎の出島を出て良いことを示唆している。

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古代、外国の窓口を九州に限ったのは、例え伝染病が九州に上陸して拡散しても、関門海峡で隔てられた本州にまでは上陸させない意味も考えられる。

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政治経済の発展、自由な往来が可能となった現在の密航は古代と事情は異なるが、日本の事がよく知られた現在、北九州沿岸のほか、山口県の北浦海岸から山陰海岸に外国人の上陸がよく見られる。


参考

① コレラ(Cholera、日: 虎列剌)は、コレラ菌(Vibrio cholerae)を病原体とする経口感染症の一つ。アジア型は古い時代から存在していたにもかかわらず、不思議なことに、世界的な流行(パンデミック)を示したのは19世紀に入ってからである。コレラの原発地はインドのガンジス川下流のベンガルからバングラデシュかけての地方と考えられる。最も古いコレラの記録は紀元前300年頃のものである。その後は、7世紀の中国、17世紀のジャワにコレラと思われる悪疫の記録があるが、世界的大流行は1817年に始まる(wikiより)。






④ 長崎オランダ商館の医者だったシーボルトは、1826年、江戸に参府するとき、関門海峡の美しい風景を目にし、この海峡を「ファン・デル・カペレン海峡」と命名しています(参考)。赤間関(下関)の佐甲本陣でシーボルトらを接待した(参考)。

関門海峡
1826年の下関(シーボルト『NIPPON』より)

⑤ ペストの日本初上陸は、1899年(明治32年)神戸外国人居留地から感染が拡がった可能性は高いです。死者は600名。政府はネズミをペスト菌媒介の元凶とし、1匹5銭で買い上げるなどして感染を防ごうとしています。ちなみにこの頃のソバ1杯は2銭、米1升10銭(ヤフー知恵袋より)。

⑥ 人類と天然痘の戦いは記録にある限りでも紀元前12世紀までさかのぼる。その当時のものだとされているエジプトのミイラには、皮膚の組織から膿疱の痕が発見されている。また、日本国内をさかのぼると、古くは552年には天然痘が伝来していたという記録が『日本書紀』の中で綴られている。そして同書では、聖武天皇が奈良の大仏ほか日本各地に国分寺などを建立したのも、天然痘を怨霊の仕業として封じ込めようとしたという理由があったと語られている(参考)。