福岡県福岡市の博多のルーツかもしれない。ここ安来市伯太町あたりに渡来した秦氏はさらに近畿に移住し、白村江の戦いの敗戦後に、壬申の乱に負けた一族が責任を取って北九州に移住したかもしれない。
参考
母の里と書いて、母里。この地名を初めて知った時、いつか訪れてみたいと願っていた。字面一つをとっても、母親の慈愛に包まれるようなぬくもりが感じられるのだ。
古事記・日本書紀とならび、諸国の歴史を記した出雲風土記(天平3年/733年編纂)によると、母里の名は、オオアナモチノミコト(大国主命)が、越の国(越前、越後)を平定されてお帰りになったとき、伯太川の水源・長江山(永江山)に坐し、「自分が国造りした他の国は天神の子孫に譲るが、八雲立つ出雲国だけは、自分が鎮座する国として垣根のように青い山で取り囲み、玉を愛するごとく、愛し正して守ろう」と宣言したことに由来する。また、古くは文理と呼んでいたが、神亀3年(726年)に「母理」と改められた事も記載されている。
ここで記された母理郷は、現在の安田・母里・井尻・赤屋からなる伯太町全域を指し、古くから人々に愛されてきた土地であることを物語っている(参考)。
安来市伯太町(参考)
② 比婆山久米神社、島根県安来市伯太町横屋844-1
祭神
伊邪那美命
古事記において「かれその神避りし伊弉那美の神は、出雲の国と伯伎の国(伯耆の国)の堺、比婆の山に葬りき」と記されている通り、国生みの母神は現在の島根県安来市伯太町横屋にある比婆山の山頂に埋葬され、現在も御神陵と言い伝えられる古い塚がある。 現在は、山頂に奥ノ宮、山麓に下ノ宮の社殿が建てられている。雲伯国境、山陽への要路に位置する要害の地であり、多くの受難の歴史に耐えた山でもある(wikiより)。
③ 出雲氏族は秦氏です。大阪府和泉市博多(伯太)神社は「はた」と読みます(神名帳)。出雲の米子市には宗像・安曇・八幡、安来市には伯太町の地名が並んであります(参考)。
和泉市伯太町と柏原市の間に土師氏ゆかりの名前(赤点)を発見した。
④ 関東の毛野氏は百済系と何らかの関係があったのではないだろうか。少なくともあとに述べるように、百済系田辺氏と結びついていることは史実で、田辺史氏は上毛野氏と同祖としている。
群馬県藤岡市本郷塚原の土師(どし)神社近くでは登り窯跡が今も保存され、土師(はじ)部集団の定住地であったことが知られる。土師氏の伝承によれば古墳築造や葬送儀礼や埴輪政策にかかわる人々であり、その最初の統率者は出雲に縁の相撲のルーツ野見宿禰だとしている。土師氏は上毛野以外にも武蔵・上総・常陸に足跡が確認できる(参考)。
⑤ さらに、大阪府和泉市伯太町から福岡市の博多に移住した。