土師氏と応神天皇 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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応神天皇の両親である仲哀天皇、神功皇后が穴門国の豊浦宮(後の長門国の長府、忌宮神社)にお住まいし、神功皇后が三韓征伐からご帰国後に応神天皇がご誕生されました。その後、母、神功皇后と共に大和の国に上られる。死後、河内国の古市古墳群の中のご自分の古墳にお眠りになられるが、墳の造営や埴輪の作成に関わった土師氏(はじし)は、この古市古墳群の周りに住んで、古墳のメンテナンスを行った。

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道明寺天満宮

この土師氏には2系統あったようだ。北群の古墳群に関わった土師氏は、河内国志紀郡土師郷に本拠をおいた一族である。 この土師氏は氏寺として土師寺(=道明寺、後の道明寺天満宮)を建立している。この地は、菅原氏・土師氏の祖先に当たる野見宿禰の所領地と伝え、野見宿禰の遠祖である天穂日命を祀る土師神社があった。仏教伝来後、土師氏の氏寺である土師寺が建立された。伝承では聖徳太子の発願により土師八島がその邸を寄進して寺としたという。南群の古墳群に関わった土師氏は丹比郡土師郷を本拠とした一族のようだ。

平安時代、土師寺には菅原道真公のおばに当たる覚寿尼公が住んでおり、道真公も時々この寺を訪れ、この寺のことを「故郷」と詠んだ詩もある。延喜元年(昌泰4年、901年)、太宰府に左遷される途中にも立ち寄って、覚寿尼公との別れを惜しんだ。道真公遺愛の品と伝える硯、鏡等が神宝として伝わり、6点が国宝の指定を受けている。天歴元年(947年)、道真自刻と伝える十一面観音像を祀り、土師寺を道明寺に改称した。


参考

1   古市古墳群   応神天皇稜、仲哀天皇稜などがある。近くに道明寺天満宮がある(参考)。

2   誉田御廟山古墳 (こんだごびょうやまこふん、誉田山古墳、応神天皇稜)は、大阪府羽曳野市にある前方後円墳。古市古墳群の中心となる古墳で、約420メートルという墳丘長は百舌鳥古墳群の大仙稜古墳に次ぐ全国2位の規模である

3   菅原道真公が左遷された昌泰4年(901年)頃、応神天皇の故郷である長門国は菅原氏や土師氏が支配していた。鋳銭所が長門国の長府から周防国に移されたのに伴い、長門国の土師氏は長府から周防国に移動してきた。

4   仲哀天皇、神功皇后、応神天皇の時代、穴門国の豊浦宮(長門国府、下関市長府、忌宮神社)を基地とした熊襲征伐と三韓征伐を行った。


6   日本書紀によれば、応神天皇やお子の仁徳天皇の時代に、秦氏が大挙して来日している。日本で二位、一位の巨大な応神天皇陵や仁徳天皇陵も秦氏の土木技術の粋をあつめて造営されたと云われ、百舌鳥古墳群・古市古墳群一体に本拠地をおく土師氏は実は秦氏の末裔であった。秦氏と土師氏、応神天皇、宇佐八幡宮、忌宮神社の関係から、後世、道真公が左遷された昌泰4年(901年)頃、防長二州が土師氏に支配され、日本で初めて唯一の鋳銭所を経営出来たことが容易に理解できる。

7  最古の天満宮である防府天満宮は土師氏の氏神であり、天神山麓に食い込む境内を持ち、土師は実は秦氏であることを物語っている。道明寺天満宮は元は土師寺であるため平地に鎮座している。