額田氏のルーツは応神天皇、穴門国の出身であった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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額田(ヌカタ)氏は応神天皇の第一皇子が祖であった。すなわち、推古天皇(額田部皇女)や万葉歌人額田王は額田氏の血筋の可能性が大きい。また額田氏の居住した地域に額田や豊浦の地名が存在している。

応神天皇の両親、すなわち仲哀天皇と神功皇后が結婚生活を送って、皇后が応神天皇をお腹に身篭られた地が穴門国の豊浦宮(トユラノミヤ)である。推古天皇(額田部皇女)が飛鳥の豊浦宮(トユラノミヤ)で政治を執られ、万葉歌人額田王が下関市大字蒲生野(穴門国の山田邑付近)で天智天皇と歌を作られた。

すなわち応神天皇、推古天皇、万葉歌人額田王は額田氏の血縁で、穴門国の出身と言える。


参考

東大阪市の額田の地名:

古代氏族額田氏がここに住んでいたことによる。生駒山麓に「額田神社」と呼ばれる神社があった。祭神は、応神天皇の第一皇子の額田大仲日子命。

明治5年10月に枚岡神社の末社天神地祗社へ近在の多数の神社と合わせて合祀された。もと境内には、式部位子従六位下額田首皆人を祀っていた小祠、それと聖武天皇の宝祚の長久を祈るために明経博士額田首千足が詔を奉じて天照大日靈尊・天児屋根神・八幡大神を祀ったと伝わる棟高明神祠があったが、合祀の際に同時に廃祀された。

立花町の旧鎮座地には建物が建ち、何も残されていません。立花町の一画、五曜星の紋章を掲げて妙見像を祀る「鎮宅霊符神社」の社殿の北側には「高木入姫尊」と刻んだ石玉垣内に古い五輪塔・石祠などがあり、ここがその鎮座地であったようだ。

日下と共に額田の地も共に河内の大王家とつながる重要な場所。弥生町は弥生式土器が多数発掘されたことからつけられた。

筑前の国早良郡に額田郷、奈良の平群郡に額田郷があり、饒速日尊の縁の地か。


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枚岡神社

「ヒラオカ」はエミシ語で「崖に住む所」。平岡、枚岡の漢字を当てたのは、河内一の宮、元春日といわれている枚岡神社の社名による。枚岡神社は、中臣氏の祖の天種子命(あめのたねこのみこと)が、神津嶽の頂に祖神の天児屋根命を祀ったのに始まると伝えられている。神津嶽の頂が平らな丘であったことから「平岡(枚岡)」の社名が生まれたという。中臣氏の一族平岡連の氏神として信仰された。白雉2年(650)平岡連によって山頂から中腹の現在地に移された。神津嶽山頂には現在も奥宮がある。(参考)


応神天皇の系譜:


父  仲哀天皇 応神は仲哀の第4皇子

母  神功皇后(氣長足姫尊)

皇后 仲姫 景行天皇の子、五百城入彦皇子の息子、品陀真若王の娘

・荒田皇女 記に木之荒田郎女。紀伊国郡賀郡に荒田神社あり。

・仁徳天皇(大鷦鷯天皇) 応神天皇の第4子とある。

・根鳥皇子  大田君の始祖。義妹、淡路御原皇女を娶す。

先妃 高城入姫 皇后の姉

額田大中彦皇子 大和国平群郡額田郷、又は河内国河内郡額田郷

・大山守皇子 土形君、榛原君、二族の始祖。王位継承を争い滅ぼされる。

・去來眞稚皇子(いざのまわか) 深河別の始祖

・大原皇女 「先代旧事本紀」には弟姫命所生とある

・澇來田皇女(こむくた) 河内国石川郡紺口郷(河内郡河南町)

 以下、省略(参考)。



長門国豊浦郡の額田一族の歴史:


額田部広麻呂(ぬかたべの-ひろまろ)、奈良時代の官吏。長門(ながと)(山口県)豊浦郡の郡司をつとめ,天平(てんぴょう)12年(740)の藤原広嗣(ひろつぐ)の乱では兵40人をひきいて九州にわたった(コトバンク)。

『続日本紀』によれば、天平神護3年(757年)4月には長門国豊浦団毅外正七位上の額田部直塞守が銭と稲を献じて外従五位下を授かり、豊浦郡の大領に任命された。毅は定員500人以下の軍団の長である(wikiより)。



穴門国造(長門) あなとのくにのみやつこ:

穴門国造は穴門国(現・山口県西部、下関市周辺)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると景行天皇(12代)の時代、櫻井田部連(さくらゐのたべのむらじ)と同祖の邇伎都美命(にきつみのみこと)の4世孫である速都鳥命(はやつとりのみこと)が国造に任じられたことに始まるとされる。凡河内氏と同祖の天津彦根命(あまつひこねのみこと)の裔孫との説もあるが、孫の践立(ほむたち)が穴門直(あなとのあたい)を賜姓され、国造家を世襲し、後に穴戸直・額田部直・神田直・賀田直等に繋がり、賀田直の後裔は長門住吉荒魂神社祠官家として奉祭し山田姓となったという。

日本神話に穴戸神が登場するように古く関門海峡付近は穴門(穴戸)と呼ばれ、穴門・阿武国造の領域を合わせて穴戸国となった。豊浦郡にあった国府は、古事記・日本書紀では穴門の豊浦宮と記されている。下関市の仁馬山古墳は県下3番目の規模であり、被葬者は地域最大の首長級、又は践立や近親の者と推定されている(参考)。


近畿の地名との関係:

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仲哀天皇ゆかりの穴門の豊浦宮(あなとの とゆらのみや)、山口県下関市長府宮の内町の忌宮神社が伝承地(wikiより)。

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592年12月、額田部皇女が明日香の豊浦宮(あすかの とゆらのみや)で即位し推古天皇となる(参考)。

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東大阪市の元春日神社とよばれる枚岡神社の近くに、豊浦や額田などの地名がある(参考)。

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大和郡山市には豊浦と額田部の地名がある

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尼崎市域の東部に額田の地名が残されている。「新撰姓氏録」の摂津国神別の項に、額田部宿禰〔すくね〕およびその同族の額田部がみえる。宿禰は天武天皇の時代に定められた姓〔かばね〕で、連〔むらじ〕の姓をもつ氏族に与えられたものである。連は、一定の職業をもって朝廷に仕える有力な氏族に与えられる姓であり、額田部氏も隷属民の額田部を率いて朝廷に仕えたのであろう。額田部は、屯倉〔みやけ〕を耕作する田部の一種と思われるが、756年(天平勝宝8)に孝謙天皇によって東大寺に旋入された猪名荘は、もとの屯倉の地であった可能性が強く、尼崎地域における額田部、あるいはそれを管理する額田部宿禰の存在を裏づけるものではなかと考えられる(参考)。


●「古代地名語源辞典によりますと、昔の備中国哲多郡(現在の新見市)、長門国豊浦郡(現在の山口県下関市)、上野国甘楽郡(かんらぐん)(現在の群馬県藤岡あたり)に「額部(ぬかたべ)」という地名があったそうです。ここは明らかに古代の氏姓の一つである「額田部」にまつわるところのようです。」

●「万葉歌人の額田王(ぬかたのおおきみ)でよく知られている「額田部」氏は、推古天皇の時代には外交で活躍した一族です。応神天皇の子であった額田大中彦の名代であるという説や天津彦根命の末裔だという説などいろいろありますが、まあ古代大和の豪族で朝廷を支えた一族であったことは間違いないでしょう。彼らの居城がぬかるんで湿った土地、つまり額田にあったので、「額田」という氏になったというのが正しいようです。」(参考)。