下関市長府町の古地名、豊浦の語源 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

下関市長府町は長門国の国府があったので長府と呼ばれるが、さらに古くは、仲哀天皇が熊襲征伐の為に一時住まわれた行宮(あんぐう)を穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや)から、豊浦(とゆら)と呼ばれた。ここで気になったのは、「とゆら」と読むことである。豊(トヨ)と浦(ウラ)を連結して、広く一般的にはトヨウラ、トヨラと読まれており、トユラと読まれることは無い。

何故、豊をトユと読むのであろうか?答えは、豊の漢字では無く樋(トイ、トユ)を当てて樋浦と解釈するとピンと来た。

{8122C075-34F1-4277-AFCD-F91E7F5460C1:01}
下関市の西を上、すなわち北浦海岸を上にしたグーグルマップをしめす。山陽新幹線と中国自動車道を除き、すべての交通路が長府を中心に伸びている。関門海峡もそうであり、長府の浦から潮の流れに乗って関門海峡を自由に通行できる。

{A4F9A7AC-AF60-48CA-89BB-9270F5398135:01}
下関市内の古代の陸上交通路を図示した。関門海峡航路も加えて見る。

長府を下に見て、上に樋(トイ)が左右(南北、北浦海岸)に広がることをイメージして欲しい。実際には樋ではなく道路であるが、全ての人・物が集中する首都に相応しい地の利が理解できる。水田に水を灌漑する樋は弥生時代から有り、また、日本書紀の編纂時には雨樋をイメージすることも可能であろう。すなわち、下関は初期秦王国の首都であった。

ところで、伊勢神宮外宮の豊受大神も一般的にはトヨウケオオカミとよむが、トユウキノカミと豊をトユと読む例もある。これを樋受と解釈すると、天の恵みを樋で集めて受け取ると理解できる。その他の神様も豊の字がついた例が多く、トヨかトユかに分類すると面白そうである。


参考

豊の本当の意味
(古字: レイ) 祭事に供え物を盛る器。
(日本: 豐の新字体) ゆたか。豊作。
       農作物が多く収穫されること。
音読み
      呉音 : フ(表外)
      漢音 : ホウ(ホゥ)
      慣用音 : ブ(表外)
訓読み
      常用漢字表内 : ゆた-か
      常用漢字表外 : ほ、ふう、
               ひろし、と、で、とよ、
               ゆたか、て、みのる

豐  異字体 : 丰(簡体字)、豊(新字体)
音読み 
       呉音:フ
       漢音: ホウ(ホゥ)
       慣用音: ブ
訓読み
       ゆた-か、とよ

「豊」と「豐」は元々別字。「豊」は、「豆(たかつき)」に供え物を整えておいた事を意味する会意文字、レイの音を持ち「醴」の原字、「禮(礼)」に音を残す。「豐」は、音符「丰(ホウ)」×2+「山」+「豆(たかつき)」の会意形声文字。「丰」は穀物の穂で、たかつきの上に収穫した穀物の穂を山盛りにした様。「峰」等と同系である。
(wikiより) 


(ひ、又はとい)とは、河川湖沼の水を放出・流下させるための水門及び管のことで地表に溝などを掘って流水できない場合などに作られた。瓦屋根の雨垂れを受け止める雨樋も寺社に普及した。

音読み
       呉音: ツウ(ツゥ)
       漢音: トウ(トゥ)
訓読み
      ひ、とい、とよ、とわ、て、とゆ
(参考、wikiより) 

弥生時代頃に稲作文化とともに伝来した農業用水が起源であったと推定されている。水田の水の分配に樋が使われていた(wikiより)。また、雨樋(アマトイ)も飛鳥時代には存在したと云われ、日本書紀の編纂時には雨樋をイメージすることも可能であろう(参考)。


浦(うら)とは、湖岸・海岸の地形の1つ。湖海に沿った屈曲がない砂泥や小石からなる海岸平野を浜(はま)、同じような地形で岩塊が露出している磯(いそ)に対して、陸地が湾曲して湖海が陸地の中に入り込んでいる地形を指す。特に浦・浜は、前近代において湖岸・海岸の集落(漁村・港町)を指す用語としても用いられていた。

音読み
       呉音: フ(表外)
       漢音: ホ(表外)
訓読み
       常用漢字表内: うら
(wikiより) 


豊受大神宮(伊勢神宮外宮)に奉祀される豊受大神は、『古事記』では豊宇気毘売神と表記される。『日本書紀』には登場しない。別称、豊受気媛神、登由宇気神、大物忌神、豊岡姫、等由気太神、止与宇可乃売神、とよひるめ、等々。
(wikiより) 

日本書紀の仲哀天皇、神功皇后の穴門豊浦宮での熊襲征伐と三韓征伐の物語、ここに豊浦宮が登場するが、史実より200年程度古くずれている。