菅原道真公と七夕祭り | 日本の歴史と日本人のルーツ

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(新古1700)

【通釈】彦星が逢瀬を待つという鵲の渡す橋を、私に貸してほしい。それを渡って都の妻に逢いたい。
【補記】七夕の夜、鵲が翼を並べて天の川に橋を架け、織女を渡すとの伝説を踏まえる。

菅原道真公の歌に七夕の祭りに関連したものがあり、また七夕祭りが大宰府天満宮で執り行われていますが、公と七夕の所縁について調べてみた。

菅原道真公の大宰府までの配流の日程について、立ち寄られたとの伝承を持つ天満宮や菅原神社の例祭の日から、菅原道真公の立ち寄られた日を推定した。旧暦をそのまま新暦に読替えていると思しきところは、現在のお祭りの日を旧暦とみなした。

そうすると、西暦901年の七夕の日、すなわち旧暦の7月7日は北九州市と福岡市の中間に菅原道真公は存在することになる。ここには、日本最古の七夕祭りを伝えている宗像大社中津宮があった。

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菅原道真公は宗像大社にもお参りしたと思われる。


参考


① 菅原道真公の大宰府への左遷は梅が咲く前の初春:
延喜元年2月1日(ユリウス暦901年2月16日)、菅原道真は一言の弁解も受け入れて貰えないまま幼い2人の子供と弟子の「味酒安行(うまさけのやすゆき)」を連れて大宰府へと左遷されてしまい、また菅原道真の4人の息子達も「土佐(現在の高知県)」や「駿河(現在の静岡県)」などバラバラの場所に左遷されてしまいます。

そして菅原道真は大宰府へ出発する前に自宅の梅の木を眺めて…「東風(こち)吹かば 思い起こせよ 梅の花 主無しとて 春を忘るな」(春の風が吹いたら咲いて香りを届けておくれ。梅の花よ、主人が居なくなっても春を忘れるな)…と言う短歌を詠み、また自宅から出ていく際には…「君が住む 宿の梢を 行く行くも 隠るるまでに かえり見しやは」(君が住んでいる家の立木を道すがら隠れて見えなくなるまで振り返って見ていました。)


② 防府天満宮、山口県防府市松崎町14-1
金鮎祭、5月15日 
延喜元年(901年)4月25日(ユリウス暦901年5月15日)

菅公が太宰府へ向かう途中、当地の勝間の浦にお立ち寄りになられた際に、この地の人々に厚くもてなされて、感謝の気持ちとして金の鮎12尾を国司の土師信貞へ託されました。その後、信貞はこれを御神前に納めましたが、3度の火災に遭い焼失してしまいました。平成14年に金の鮎12尾を復元。平成23年菅公御着船1110年を記念して、御縁深い周防国分寺住職と共に神仏合同奉仕で佐波川の若鮎を御神前にお供えします。

③ 北九州市小倉に上陸、菅原神社
春季大祭、4月24、25日
延喜元年(901年)四月廿五日(ユリウス暦901年5月15日)

防府天満宮の着船日と同日となって矛盾があり、次の戸畑の日付けを考慮すると、5月24日あたりが適当である。

④ 北九州市戸畑区、菅原神社
例祭、6月14日

⑤ 七夕、昌泰4年7月7日(延喜元年、ユリウス暦901年8月23日)

⑥ 綱敷天満宮、福岡市博多区綱場町5-7
     水鏡天満宮、福岡市中央区天神一丁目
     夏祭り、7月24、25日


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中央左上が大島(宗像大社中津宮)、左下隅に志賀島(志賀海神社)

次の歌が宗像大社の後に歌われたとすると、志賀海神社をお参りしたと思われる。「わたつみ」は志賀海神社の祭神である大綿津見命と海を掛けている。

流れ木と立つ白波と焼く塩といづれかからきわたつみの底(新古1701、参考)