菅原道真公の太宰府までの旅程の推定航路 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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菅原道真公が立ち寄られたとの伝承がある神社の例を元にした旅程に沿って航路を記す。陸路で松山市内に行かれ3年過ごしたお話しなどは無視した。まだ多くの寄港地候補があろうが、大幅に航路が変わることはなかろう。山口県の防府から長府の間に九州の椎田などが入っているが、道真公が廃止した遣唐使とほぼ同じような航路となっている。冬の風向きや海流のせいで、同程度の舟と航海技術なら当然であろう。

大分県の椎田から陸路で直接、太宰府に行くことは出来なくは無いが、北九州沿岸の複数の神社の伝承を無視出来ないこと、また道眞公の歌に宗像大社の七夕祭や志賀島あたりを思わせる歌があり、海路で下関市長府を訪れることをここでは前提とする。子供連れで家財道具を運ぶことまで考えれば、なるべく海路を選んだであろう。また愛媛県今治市の綱敷天満宮の伝承は正しく、嵐で航路がずれたと考えるのが自然であろう。

議論がずれるが、周防灘を挟んで防長二州と豊の国のつながりの強さの一つの証明にもなる。また北前航路と関連するが、方言が島根、山口、大分がよく似ていることがよく理解出来る。

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菅原道真公の旅程の推定

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遣新羅使の瀬戸内海での旅程の例


推定航路の寄港した具体的神社名(地名)

始点、京都市
901年(昌泰4年)1月25日、醍醐天皇から菅原道真公に対し、太宰府に左遷する旨の詔勅が発せられた。道真公は56歳、2月1日に出立し、長岡京あたりから淀川を下り、川舟と海船の乗換える渡辺津まで途中で足跡を残している。大坂に着いてからも、河内・道明寺の伯母覚寿尼を訪ねる。

網敷天満宮
大宰府に赴く途中暴風にあいこの浜にたどり着かれた。取りあえず漁船の綱をくり敷いて休んでもらった故事により「綱敷天満宮」と言われる。道真公が大宰府への途上で立ち寄ったという伝承を持つ同名社は、京都から九州太宰府間に点在している。

綱敷天神社、大阪市北区
この地に着いたところ、一本の紅梅が今を盛りと咲き匂っており、しばしこの梅を眺めるため、船の艫綱(ともづな)をたぐりよせ、即席の座席としたことが「綱敷(つなしき)」の名の由来となるという。 

綱敷天満神社、神戸市東灘区
別雷大神が天神山におまつりされていたことに始まり、聖徳太子が御影石を発掘され倉稲魂大神をおまつりされました。菅原道真公が別雷大神をまつるこの天神社に2度参拝された御縁で道真公をおまつりしております。

綱敷天満宮、神戸市須磨
須磨の浦で波が高くなり航海を中断されました。その時、漁師達が網の大綱で円座を作り、休憩の場を与えた。

明石天満宮、兵庫県明石市大蔵天神町
境内には太宰府へ赴かれる途中に腰をかけて休んだという「腰掛石」があり、通称「休天神」(やすみてんじん)と呼ばれている。

牛窓天満宮、岡山県瀬戸内市牛窓町
明石から船で牛窓へ立寄られた道真公が、この山へお登りになり岩に腰かけ給い遥かに霞む讃岐の島山を眺められ若き日の讃岐守たりし昔を偲ばれさめざめと涙を流され今生の別れをつげられたと云う。「磯山の峯の松風通い来て  浪や引くらん  唐琴の瀬戸  菅原道真」

硯井天満宮、岡山県玉野市
八浜町の周辺に上陸した際、干潮時の砂浜のくぼみに清水がふき出しているので飲まれた。もとは海中であるはずの場所に塩気の無い清水で、「神の恵み」と感謝すると新たに水が湧き出し、金の砂が混じっていた。「海ならず たたえる水の 底までも 清き心を 月ぞ照らさん   菅原道真」

綱敷天満神社 、愛媛県今治市
風波の難により当地へ流着され、郡司越智息利ら里人と共に道真公の至誠に接し、後に片身の神像を素波神と称して奉祀した。天慶5年素波神を綱敷天満宮と改称した。

御手洗天満宮、広島県呉市豊町
船をこの地に寄せ、天神山の麓のこのところで、口をすすぎ、み手を洗われ天神地祇にお祈りした。このところを菅公御手洗いの井戸として文筆の神にあやかって、正月の書き初めは必ずこの若水をくんで書いたものである。

今津天満宮、山口県岩国市今津町
瀬戸内海を西に進み安芸の国を過ぎて周防の国に入り、周防の国沿岸で最初に気に入ったのが当時「鞠布の浦」と言われた今津であり、上陸して休息したとのこと。櫂を杖代わりに突きながら丘に登ったとある。

冠天満宮、山口県光市光井
波風をさけて光井の浦に寄せられ、神太夫と言う者が我家にご案内し厚くもてなしました。一両日御滞在の後御出船のおり召されたるお冠を神太夫に与えられました。

船を当地勝間の浦におつけになり暫くご滞在になり、酒垂山にお登りになり、「身は筑紫にて果つるとも、魂魄は必ずこの地に帰り来らん」とお誓いになり、周防国分寺にて家宝の金の鮎12尾を国司土師信貞に託して寂しく旅立たれました。ちなみに、周防国は菅原氏と同族の土師氏が支配していた。

綱敷天満宮、福岡県築上町、旧椎田町
浜の宮海水浴場の近くに、暴風にあいこの浜にたどり着かれた。 その時に漁船の網の綱を敷いて休んでもらった。そして村人はこの地に黒木の休所を造り、 菅公はここでしばらく休養され筑紫に向かわれた。

防府から長府への舟旅でも、当時の航海技術では風向きと海流などの関係で、場合によっては九州沿岸付近まで近づく航路となったようで、遣唐使の航路も同様な経路である。

天満宮、葛原八幡神社内、北九州市小倉南区
北九州市南区葛原本町1丁目付近から遷座、椎田からこられて御休息の菅原道真公の舟をつなぐ艫綱石を竹馬川河畔から移してまつる。

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豊浦の津に上陸、忌宮神社大宮司家に4、5日滞在

暁詠山(ぎょうえいざん)
九州へ御下向の時、この山に登られ給い、早鞆の清潮に、憂愁を慰め給い、一首をお詠みになられた。この故事を偲び暁詠山というようになった。長府に滞在中に赤間関のこの山上から早鞆の瀬戸をご覧になられたことになる。この故事にちなみ、菅原神社を下関市役所のある南部町の山上に創建した。

経由地
長府と横野(安岡)を結ぶ幹線道路を現在、長安線と呼ぶが、穴門国の中心に位置し神代から利用されていたと推定される。

横野の浜からご出港
小倉まで安定して航海出来、最近まで小舟で農民が野菜の販売、人糞などの肥料の購入など渡海していた。


菅原神社、北九州市小倉北区
延喜元年(901年)四月廿五日、早鞆はやともの瀬戸(下関海峡)を過ぎて、神嶽川のほとりの、ある小島で休息し、企救きくの浦の景色を賞でたといふ。

菅公没後、この地に菅原神社が建立され、島は「天神島」と呼ばれた。今の北九州市小倉北区古船場町といふ。江戸時代に小倉藩主・小笠原忠真は、菅原神社の社殿を修築し、城下の子女の「教育祈願所」と定めた。

菅原神社、北九州市戸畑区
筑紫の太宰府におもむく途中、天籟寺の地に一夜宿をとったという。のち太宰府に道真公の廟が建立された時、その由来によって現在地に勧請したのに起ると伝えられている。

豊山八幡神社、北九州市八幡東区
左遷された菅原道真公が太宰府へ向かう途中に立ち寄り、水面に映った我が身を見て「海ならずたたへる水の底までも清き心は月ぞ照らさん」と無念の心情を詠んだと伝えられ歌碑と由緒標記があります。


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綱敷天満宮、福岡市博多区

菅原道真が大宰権帥に左遷されて赴任の途中、袖湊に上陸した時、住民達が船の綱を輪にして敷物を作り出迎えたと言われている。その後、その場所に社殿が建ち綱輪天神と呼ばれたという。現在の地名はさらに訛って、綱場となったと言われる。


水鏡天満宮、福岡市中央区

博多に着いた公は、今泉辺りを流れていた四十川(しじゅうがわ・現在の薬院新川)の水面に映った自身のやつれた姿を見て、嘆き悲しんだといいます。これにちなんで今泉に建てられた容見(すがたみ)天神は、福岡藩初代藩主・黒田長政によって水鏡天満宮として現在の地に移されました。


野方天満宮、福岡市西区野方

太宰府へ至る前夜に一泊したといふ額田の駅には、後世に野方天神社がまつられた。道真公の随臣だった藤氏の子孫が、天文元年(1532)に野方に土着して先祖を偲んで建立したといふ。


太宰府天満宮、太宰府市…終点



参考


① 菅原道真公、失意の下関の御通過



② 下関市内の陸路について



③ 長門国司にも面会していたと思われる(参考)



 宗像大社中津宮にも参詣旧暦7月7日の七夕



⑤ 志賀海神社にも参詣した



⑥ 長府から陸路で下関市内を通過せずとも、小倉南区の葛原八幡神社の天満宮から北区の菅原神社に陸路を近道として通過することも可能ではある。しかし、南区の天満宮では舟をつないで休息だけしたこと、小倉北区古船場町の菅原神社あたりは当時は内湾の小島であり関門海峡あたりから舟で上陸したことが伝承にあること、次の戸畑区天籟寺の菅原神社あたりも現在の天籟寺川の上流で舟で渡ったと推定され、陸路を歩くことはしていなかったと推定した。また、関門海峡の舟での通過は危険であり、従って、この意味でも下関市内を陸路で通過したことが肯定される。


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菅原道真公が生存された10世紀初頭当時、平安海進には至っていないと考えられるが、土砂で内湾が埋まったり、干拓事業がそれほど行われていないと想定して+4mの海進をシミュレートしてみた。小倉北区古船場町あたりの風光明媚な小島や、北九州市南区の葛原あたりの内湾の風景を想像出来る。