下関市、長門市の地名が滋賀にあった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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下関の蒲生野地域の東西方向に、西から東に安岡(ヤスオカ、村崎ノ鼻、横野の地域)、蒲生野(カモウノ)があり、さらに東に豊浦(トユラ、トヨラ、今の長府)がある。滋賀の湖東地域の西から東に、野洲(ヤス)、八日市に蒲生野(ガモウノ)、そして安土の上豊浦(カミトヨウラ)、下豊浦(シモトイラ)がある。

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滋賀県湖東地域、1 野洲、2 蒲生野、3 豊浦

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下関市響灘、1 安岡、2 蒲生野、3 豊浦

安岡の安(ヤス)は古くはこの地は洲であって、野洲(ヤス)に囲まれた中にある岡を「野洲の岡」 と呼んだのであろう。八洲(ヤス)と由来は同じで湿地帯から来ている。野洲、夜須は奈良時代の低地の呼び名であり、全国に多い。ただし、安岡について神功皇后が休憩されたので安らが岡となったとか、安羅ケ岡とかの説もあり、他所からのコピーではなさそうである。蒲生野は蒲が生えた野原が由来であろうから、特別な名前ではなかろう。豊浦は一般的にはトヨウラ、トヨラと読むが、下関の長府の古代名の豊浦はトユラと他に無い特殊な読みを持ち、安土の下豊浦(シモトイラ)と読みが通じる。

三ヶ所の地名が下関と滋賀の湖東地域に同時に存在し、さらに額田王の歌(万葉集1・20)の舞台が何方かの検討対象となっている。何らかの重要な関連が存在してもおかしく無い。ちなみに、滋賀の方は669年に百済人が入植した地域である。下関の方は668年に高句麗国が滅亡した当時、本州で最も朝鮮半島に近く、しかも天智天皇、大海人皇子、額田王らが行幸されていた。

以上からの推測であるが、660年の百済国が滅んだ前後から668年の高句麗国滅亡後まで、下関は朝鮮半島対策の基地になった。日本に渡った百済遺民が紛争を避けて、669年、下関の地域の地名を携えて滋賀の湖東地域に移動したと考えられないか!広島の倉橋島(古代の長門島)の船大工は百済人とのことで、瀬戸内海を東に移動したことが推測される。また、朝鮮半島から渡海途中の宗像、沖ノ島を琵琶湖に祀った。

高句麗遺民は埼玉県の日高市に入植しているが、下関の地名は見当たらない。これは渡来ルートが異なり、下関を経由しなかったのであろう。


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ところで、よくよく両県の地図を眺めると、さらに離れて大津がある。山口県の北部に大津郡(油谷湾から仙崎あたり、現在の長門市、和名抄に大津郡と記載)があり、滋賀県の琵琶湖西岸に大津市(旧大津宮)がある(参考)

この大津郡が天智天皇の行宮で、ここから下関市の蒲生野に大海人皇子や額田王とご一緒に行幸されたのであろう!


参考




西暦650年までの下関の歴史: 650年、百済救済の軍を進める





現在の安土(あづち)町
滋賀県中部、近江八幡市東部の旧町域。1954年安土村、老蘇村の 2村が合体し、町制。2010年近江八幡市と合体した。旧安土村は古くは篠笥郷の一部で、その後、佐々木庄、豊浦庄ともいわれた。

近江國蒲生郡(蒲生野)の一帯を古くは、佐佐木庄と呼ばれる以外にも、「鷦鷯郷(ササキノゴウ)」「篠笥庄(ササケノショウ)」などと呼んだらしく、特に、鷦鷯郷(ササキノゴウ)などは、大鷦鷯(オオサザキ)命との関連性を伺わせます。一説に、古代に、仁徳天皇の御名代部として、全国的に雀部(ささべ)が置かれましたが、この近江の蒲生郡の辺りに、その雀部があったのではないか?とも言われています(参考)。